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 ◇◇◇  命の危機が音も立てず唐突に襲ってくることは珍しいことか否か。  答えは『頻繁(ひんぱん)にある』だ。更衣室で今にも襲い掛かってきそうな金髪シェフの志郎(しろう)が、煙草(たばこ)(ふか)しながら、酷く不機嫌そうに昴を睨んでいる。  凄みを利かせる元ヤンに睾丸(こうがん)(しぼ)んだ気がした。部屋に充満する煙草の臭いを換気扇でどうにか逃しては居るが、志郎の機嫌は最悪だった。 「おい、宮盾ェ」 「は、はい?」 「乳がデカいのが好きなのかよ」 「いや、どっちかというと清楚(せいそ)な子の方が好きですかね」 「お前が巨乳好きなのは分かってんだよ。脱いだら凄い柔らかくて色っぺえ女が好きなんだよなァ?」  図星を突かれたら黙ることしか出来ない。昴はシャツの釦を閉めながら、出来るだけ志郎のちょっかいを最短で切り抜けようと考えていた。 「俺だって清楚だろ」 「いや、どこが!? ファンキーの間違いですよね!?」 「脱いだら凄いだろ」 「脱がなくてもいい身体してますよ!?」 「乳首の色もいい」 「いや、そんなの知らねぇし!」  無駄なアピールにツッコミを連発しようにも、志郎の機嫌は最低値のままだ。構って欲しい訳ではないらしく、煙草を携帯灰皿に乱暴に押し付けていた。  煙草の残り香が付いた時は無香料の消臭スプレーを美佳子に噴射されるから問題はないが、着替え終えたとしても、志郎の機嫌の悪さは気になって仕方がない。 「さっきから、どうかしたんですか?」 「いい加減分かれよ、鈍感」 「……別に鈍感じゃないですけど」  明け透けなアピールをされれば誰だって分かるのも当然で、それでも突き放すことはせずに放っておいていた昴にも非があるのかもしれない。  思えばグラスホッパーに来た時から志郎は自分に下手な告白ばかりして来た。相手にしないように躱してきたのも悪かったが、道を踏み外すのは紛れもなく避けたかった。 「……お前が車椅子の女の方が大事なことくらい分かってるんだよ」 「え……?」  悔しげに志郎は舌打ちをし、再び煙草を吸おうとライターを取り出した。  無意識に御守を握り締めながら、昴は消化しきれない感情ばかりが(うごめ)いてるのに反吐(へど)が出そうになる。  ……結局、真冬を逃げ道として使ってる。  今の自分を作ったのは真冬で、彼女なしでは上手く生きれないのも依存しきっていた証拠だ。変われないまま居る卑怯者で心底吐き気がする。  昴は自嘲気味に笑い、縋りついてきた御守から手を離した。  バタバタと慌ただしく更衣室に入ってくる二人の少女が、涙ながらに昴に飛び込んできた。 「ふぇぇん。スーさん先輩辞めちゃうんですかぁ〜!」 「み、宮盾君、辞めちゃうの……?」 「ちょ、鈴崎(すずさき)さんと立花(たちばな)さん……離れてくれないか?」  豊満に育ったマシュマロおっぱいを押し付けてくる胡桃(くるみ)と、遠慮がちながらも上目遣いで見上げてくる若葉(わかば)の幼馴染コンビに、昴は早々に根を上げた。  ロリ顔で元気が取り柄の胡桃とは正反対に、清楚顔の若葉は引っ込み思案で派手なアクションは起こさないタイプだが、二人揃って大きな目を潤ませながら飛び込んできたのは予想外だった。  グラスホッパーを辞めるかどうかは未だに決め兼ねているが、昴が悩んでいるのは総じて無視を決める美佳子のことだ。下手に出たら本当に童貞を卒業出来ないまま股関に鎮座しているブツをもがれる。  昴は改めて志郎が不機嫌な理由を考えた。否、考えなくとも分かり得る。  ……社さんが来てたってことか。  美佳子との関係性は分からないが、答えはもう目の前だ。 「間中(まなか)さん。機嫌悪いところすみません」 「あ?」 「二人のことをお願いします」 「あァ?」  号泣している若葉と胡桃を機嫌最悪な志郎に押し付け、昴は美佳子の居る休憩室に急いだ。  面接等で使われる休憩室の扉を開けると、グラスホッパー名物の巨大パフェが視界に飛び込んできた。高カロリーな巨大パフェを黙々と食している美佳子は、無言で向かい側のパイプ椅子を指差した。  パイプ椅子に座ると、これまた無言で美佳子から皿に盛られたフライドポテトを差し出される。 「……あの、店長」 「社はアタシの妹分だよ。今のアンタくらいかな。戦い向きじゃないのに一人で虚霊の軍勢とやり合って、道端に倒れてた所をアタシが拾っただけの関係さ」  質問をする前に考えは既に読まれていた。昴は美佳子に差し出されたフライドポテトを見下ろし、困惑する余地がないことを諦めた。 「宮盾が浄化屋ねぇ。まあ、いいとは思うけどさ。寧ろ天職じゃないか」 「それは……その……」 「チン毛頭のことは好かないけどね、多分今の空っぽなアンタにゃいい機会だと思うよ」  言い返せない『空っぽ』の単語は、グラスホッパーにアルバイトの面接で来た当初から美佳子に言われた一言だった。  何もない人間であることを認めていた。昴はすっかり癖と成り果てた仕草で御守を握り締める。  美佳子は大きな溜め息をついた。 「ずっとそれ、か」 「……なんで癖が抜けないんですかね」 「自分が弱いことを認めてるから……諦めてるからじゃないか?」  諦める。確かにそうかもしれない。真冬と離れてから、藤咲市では飽きない生活を送り続けてきたが、今でも彼女の幻影に(おぼ)れている。弱い自分を誰よりも見てきた彼女の存在を確認しながら生きている昴は、これから先も変わらないのだろう。  だが、美佳子は再び溜め息をついた。 「でもさ、ここで働いてくれてた時はあまり触らなかった方だと思うよ」 「……そう、ですかね」 「それ触ってる時の湿気(しけ)た顔は(クソ)が出るくらいつまんないけどさ」  ウエハースを口に運びながら、美佳子は憐れみに満ちた眼差しを昴に向ける。 「まるで呪いだね。そういうのは社の得意分野だからアタシにゃ分かんないけど、縛られてるのに慣れすぎだ」 「……それは」 「外の世界を知っても尚、元の場所に戻りたいって思ってる奴は珍しくないけど、折角得たものを失くしてみな。二度と戻れやしない。苦痛だけだよ」  美佳子の厳しい声に指摘されながらも、昴は自身に()してきた(いまし)めに解放されることを望まないでいる。  藤咲市に来てから息はしやすくなった。それでも昴は物足りなさを苦言として残す。 「戻りたい訳じゃない。戻れないのを覚悟でこの街に来たんです」 「親はどうなんだ」 「親とは生きてきた中で一度も会話したことがないですね。でも、だからかな……」  叶えたい本当の願いは唯一つ。誰にも見向きもされなかった、恐怖心だけを与えてきた無感情な時代を捨てられる時、昴は本当の願いを抱えて藤咲市に降り立ったのだ。 「――自分を知りたい。ただ、それだけの為に戻らないって決めたんです」 「……自分を知る、か」 「だからこそ、御守は手放せませんし、浄化屋に興味があるのも、最も近い場所だと思えたからです」  無意識に笑ってしまった。  井戸から出たばかりの(かえる)なら外を知る必要がある。昴は知りたい欲求だけを持って地に足を付けていた。  自身に課した戒めは罪の重さだ。  変わる為なら、固まり切らなかった意思を強固な物にしなければならない。 「普通に生きられないなら、普通じゃない場所に立つのが俺です。だから、俺は……」 「これまでの時給よりも安くつくけど、またここで働きな」  思ってもいなかったことを告げられ、昴は目を丸くした。  パフェを食べ進めている美佳子はスプーンを(くわ)え、意地汚く笑う。フライドポテトを指で摘み、間抜け面を晒す昴の口元に運ぶ。 「ったく、お前みたいな非凡人(イレギュラー)がアブノーマルな仕事に手を出すなんてね」 「だ、だからって……」 「ほぉら、口開けな。アタシからの餞別(せんべつ)さ」  蠱惑(こわく)的な唇から紡がれる色気に溢れた誘い言葉に、思わず昴は固唾(かたず)を飲み込んだ。三十路という人生経験がある程度積まれた大人の年代から、溢れ出る色っぽさに興奮するのは致し方ない。  昴は差し出されたフライドポテトを口に招き入れようと開いた。  だが、突如として休憩室の扉が開かれる。 「おい。美佳子。俺の物に手ぇ出すな」 「ああ、思ってたよりも遅かったな。陰毛野郎」 「んぐ!?」  無理矢理フライドポテトを()じ込まれ、昴は激しく(むせ)る。塩気を吸い込んで更に咳き込み、時間を置いて冷めてしまったせいか、もそもそとした(かたまり)が口内に転がった。  涙目混じりに昴は突然現れた翔馬を見上げた。親しげな空気を醸す二人の関係性に割って入るのは不可能にしか思えず、昴は肩身が狭い思いをしながら一人でフライドポテトを貪り食っていた。 「おい、ゴルァ」 「……ちっ。ぶっ飛ばせば良かったな」  鬼と化した志郎が元総長の顔を蘇らせ、翔馬の肩を握り潰さんと掴んでいる。外で怯えている若葉達の震えた悲鳴が流れてきたのは、志郎だけじゃなくヤクザにしか見えない翔馬の外見のせいだろう。  昴は今すぐ消えてなくなりたかった。液状化現象が自身の身体に起きれば、この場をやり切れたかもしれない。寧ろ雑魚(ザコ)でしかないスライムになってトイレの水を大に回して流されたい。 「テメェ……俺のモンをどうする気だァ?」 「同棲生活始める予定が決行されたんだよ」  野良犬を追い払うように志郎をあしらう翔馬は、下等生物を見下す眼差しで挑発している。面倒事を増やしたようにしか見えない光景に、昴は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じていた。 「ああ! 俺、仕事しないと……」 「お前の仕事は俺にテイクアウトされることだよ」 「俺はハッピーになれるセットじゃありませんけど!?」 「玩具(おもちゃ)とか、お前マニアックだな……」 「そっちじゃない!」  ほんのり頬を赤らめながら恥じらう素振りが仰々しく、酷くわざとらしい。翔馬の後ろで欲情顔の志郎が「バイブ新調しよ……」と呟いていたのは聞き流した。  立ち上がっていた昴は、再びパフェを食べ進めている美佳子をジト目で睨んだ。 「あの、店長……」 「四ツ谷の母親がギックリ腰になったのは嘘だよ。なったのは伯母だってさ」 「普段と変わらない様子だから変だと思ってたけど……!」 「じゃあ、新しい職場でも元気にやっていきな」  爽やかな笑顔であっさりと切られた。爽やかなのは手元にあるサイダーだけにして欲しいという願いも虚しく、ヤクザもどきの翔馬によって昴はずるずると引き摺られながら休憩室から強制退場を余儀(よぎ)なくされた。  ……今から懲罰室(ちょうばつしつ)に入れられるのか。 「首締まってるからぁぁぁぁ!」  断末魔さながらの悲鳴を上げながら、昴は悪役すらも戦々恐々(せんせんきょうきょう)とさせる翔馬の悪どい高笑いのリミックスを外に出るまで響き渡らせていた。

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