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◇◇◇
障害物が存在しない広大な鍛錬室に放り出され、真新しいスニーカー靴を追加で投げられた。好んで履いているスポーツメーカーのスニーカーだったのは驚いたが、足のサイズすらぴったりとフィットしているのに驚く。
ジャージが着せられていた理由は詩音と手合わせをする為で、妙に納得してしまうのは無理もない。エプロンを脱ぎ捨てた詩音はラフな私服のままで、鼻歌を歌いながらストレッチを入念にしていた。
床は板材を敷き詰めた後にワックスで塗った物だ。頑丈な床は学校の教室を思い出す。鍛錬室を利用している人間は居るのか、電気の明かりで傷が所々目立っていた。
靴紐を固く結び、自分のペースでストレッチを始めた。
慣れない空間に慣れない相手。散華輪の使い方を教えられないまま閉じ込められたのが痛手だ。
「戦うって、どうやって……」
「まずは魂の奔流 を感じて。初歩中の初歩はそれから始まるんだ」
唐突に言われたのは指導的な内容だった。感じたことなどない魂の奔流に、昴は戸惑いを隠せない。
昴が慌てている姿を詩音はのほほんとした顔を普段と変わらずに浮かべている。
「翔さんは感覚でやっちゃうから指導者向きじゃないんだ。でもね、浄化屋になる為には『感覚』が大事だよ。小難しいのはまだ先で、最初は型無 の波動 を感じること。これを繰り返して意識するのが一番重要だよ」
簡潔に考えれば反復運動の要領で身体に癖を付けることが初級の課題になる。感覚を掴む為に必要なことは、あっさりと詩音は答えを提示した。
「魂は心臓に最も近い場所に姿を隠していると思って。全身を流れる血潮 が体内に循環 するのを感じるように、細かい神経一つ一つに意識を集中させるんだよ。そうするとね、現れるから。自分の中で眠る魂魄の持つ力がさ」
感覚でしか分からない授業内容だ。身体が持ち得る神経という全ての感覚器官に頼らざる得ないのは、素人でしかない昴には厳しい状況でしかない。
しかし、昴はこれから詩音と始める手合わせに挑まなければならない。
感覚は身体で覚えろ。そういった算段 で放り込まれた実戦に、掌からじんわりと汗が滲んでいた。
「じゃあ、始めよっか」
初めて聞く低い声に反応がワンテンポ遅れる。棒立ちになっている昴を笑うかに見えた詩音の口元が弧 を描 き、目にも止まらない早さで距離が詰められていた。
「ッ!?」
刀の切っ先が槍のように直線上に突かれた。素肌との距離は僅か三センチ。下手をすれば左の耳が削 ぎ落とされていた。
かち合った鋭い視線にゾクリと背筋が粟立 つ。見たことがない好戦的な肉食獣の眼差しだ。
昴は固まった唾 を慌てて飲み込んだ。腕力の問題ではない。緊張する暇さえ与えない真剣さに昴は畏怖 した。
「がら空きだよ。俺を甘く見てると、直ぐに逝かせてあげる」
詩音は本気だ。のほほんとした性格とは違う、静けさの中で燃える炎が素肌を焦がす。甘く見ていたのは確かで、それを翔馬は分かっていて詩音を指名した。
昴は冷や汗を滲ませながら、吐き捨てた。
「この、猫被り」
「嬉しい褒め言葉だよ」
瞬時に昴と詩音は同時に後方へと退き、互いに距離を置く。握られた刀は昨夜のと同様の物だ。刀だけなら隙さえあれば懐 に入りやすい。素手だけでどうにかなる代物ではないだろうが、感覚を掴む前に肉は斬られて終わりだ。
しかも、詩音の素早さは相当な物だ。反応が少しでも遅れれば鋭い突きで腕は簡単に後ろへ飛ばされる。
冷静に状況を整理するが、それすら関係なく詩音は右手に握っていた刀を構え、踏み込み様から飛び出し、雑把 な大振りが腹部に向かって繰り出される。
拍子抜けする大振りを余裕で後ろに下がって躱したのも束の間、休みを与えない速度の連撃に壁際へと追い込みを掛けられた。
……クソ、早過ぎる。
躱すのに精一杯な昴は、悪態をつくだけで体力が削ぎ落とされている気がした。
後ろに下がる度に壁との距離は近付く現状は、動作の幅を狭 めようとしているのが明白だ。
だが、昴は笑っていた。伊達に運動部との追いかけっこや不良のいざこざに巻き込まれて来た訳ではない。
天井の高さは確認済みだ。昴は自ら詩音に背を向け、左の利き足をバネに壁に向かって飛び跳ねた。
「な……!?」
軽く着地した壁を蹴り上げ、高跳びの勢いで昴は軽々と背中を向けながら詩音の頭上を越え、背後へ軽やかに着地した。
……躱すくらいなら余裕はある。
形勢逆転を狙う方法はざっくりとした考えが出来ている。今なら飛び込んで床に叩き付けるのは容易だ。
駆け出そうと踏み込んだ左足が後ろに引っ張られ、足首を中心に下半身が攣り出した。
「なん……は?」
下肢の違和感に昴は右足を見下ろし、円状に歪曲した空間から伸びる鎖に足が絡め取られていたのに気付く。
右足首に注意を取られた矢先に四肢 を拘束され、頑丈 で重量のある鎖を右腕を引いて確認する。
拘束は卑怯に思えたが、何も言わずに突っ立っている詩音を昴は不審に思う。剝 き出しにされていた戦意が消えていた。不自然に動きを止めた詩音は振り返り、落ち着きを払った表情を見せた。
「宮盾君はどうして浄化屋なんかに興味を持ったの?」
「ここに答えがあると思ったからだ」
「答え探し、か。見付かる物なら俺は浄化屋に固執 する必要がなかったのかもね」
陰りを帯びた双眸に吸い込まれる。嘘言 かどうかは判断がつかないのが、もどかしさを募らせるが、思わず昴の口から溢れ落ちた。
「そこにあるって信じてるからじゃないか」
「……信じるか。信じたって、突き付けられた現実は甘くなかったよ。なのに、俺ってまだ信じてるんだぁ……。あはは、笑えちゃうね」
暗く淀 んだ笑みを浮かべた詩音の姿に、昴は口を閉ざした。
「ずっと宮盾君に興味があったんだ。普通じゃないことを受け入れてるのって、どんな気持ちなの」
――ただ聞きたかった。
詩音は悲しげな微笑を昴に向け、小さく真意を口にする。
下賤 な好奇心でもない、純粋に詩音は問い掛け、言葉を発さずに昴は重たい鎖を両腕で引いた。
「普通になりたい気持ちはあったよ。この街に来るまでは、小さい頃からずっと受け入れられなかった」
金属が擦 り合う鈍い金切り音が静寂を引き裂いた。
怒りすらも湧かない愚問な問いに、感情が消え失せる。ただ冷静に、激情は眠らせ、吐き出すことのない理由を呼吸するように口に出す。
「異常を認めたら楽になる訳じゃない。だから普通に、普通にって呪文みたいに言い続けてきたよ」
空洞 だらけの狭い世界を知っている。一言も会話が続いたことがない鉄仮面を貼り付けた研究者の両親と、赤の他人でしかない兄弟。普通とは程遠い生活に疑問を提示したことは腐る程ある。
だが、昴は捨てるべき物を口にした。
「普通じゃないことに拘 ったことは生まれて一度もないけど、普通に拘った所でそれが異常だって教えられたんだ。だから、俺は恵まれなかった普通への憧れは捨てた。俺にとっての普通が異常なら、その異常が俺の普通だ――!」
叫びと共に自力で拘束していた鎖を引き千切る。激しい音を立てながら床に落下する鎖を蹴り飛ばし、昴は獣じみた荒い呼吸を繰り返した。
心臓部の辺りから溢れ出して滾 る熱が全身に浸透する。体内から漲 る熱に呼応し、じんわりと溢れ出る温かな暖気流が身体の奥から伝わり、眼前で煌めく結晶が踊る姿に手を伸ばした。
結晶が構築する柄を掴んだ瞬間、結晶が割れた音を立てながら砕け散り、諸刃 の刃が姿を現す。獣を捌 く鋭い短剣 だ。掌に馴染む柄の感触に昴は自我がそこに宿っている感覚を覚えた。
目の前には普段と変わらないのほほんとした笑顔を浮かべる詩音が居る。詩音は再び刀を取り出し、にこやかに笑った。
「荒療治だったけど、成功したね。早く身に付けて貰わないと困ることが多いからさ」
「だからって、拘束プレイは好みじゃないんだけど……な!」
一振りの短剣を前傾姿勢で構えながら、昴は腰を低くしたまま駆け出す。
普段よりも身体が軽く動くせいか、ようやく戦い方に慣れ始める。素手での殴り合いは人並みに経験してきたが、刃物で突き刺された経験と金属パイプ等の鈍器で殴られた経験しか積んでこなかった。
あまりいい経験ではないが、素人臭い動きではあっさりと相当な手練 である詩音には敵わない。ただでさえ、手にしている武器のリーチの長さが真逆だ。
振り翳された刀が衝撃波を放つ。右に飛んで躱し、着地と共に距離を詰め始めた。
致命傷を与えるなら首、胸、腹。どこを狙っても最短で捉えられる。
しかし、それでは何も変わらない。昴は手にした短剣の切っ先を詩音の目の前で振り、背中を反らして躱したのを見計らう。
……背中を床に付ければ解決する筈だ。
だが、昴の考えは甘かった。
「があ……ぐぅ」
左の太腿に突き刺さる短刀が肉を抉った。脇腹には詩音の左手に握られた細身のナイフが深い場所へと進められる。
傷口から温かい血液が漏れ出て、昴の身体はがくりと重たさに揺れた。
……ああ、刺された。
痛みには慣れている。この状態でリタイアする気は更々ない。
「これで勝ったと思うな……」
「え……がぅ!?」
太腿に突き刺さった短刀を引き抜きながら、ナイフが刺さった状態のまま、昴は詩音の頭に頭突きをした。
未だに入り込んでいる短刀と、突き刺さったままのナイフを床に捨て、頭を抑えながら目を回している詩音に向かって、昴はガラ空きの鳩尾 に膝蹴りを加え、床に押し倒した。
首から数ミリ離れた場所に短剣を突き刺し、馬乗りになって動きを封じる。抵抗せずに床に縫い留められた詩音の綺麗な顔と少しの間だけ見詰め合い、昴は全身の力が抜けぐらりと右に倒れ込んだ。
短剣が粒子になって消えていくのを薄く開いた目で見送りながら、血が止まらない脇腹を押さえる。
「あー……痛い……」
「俺だっておデコ痛いもん」
「バーカ。打撲 と刺傷 は別物だ」
「お腹だって痛いもん!」
「明日には立派な青痰 が出来てるんだろうな」
強張りが解けたせいか、遅れて追い付く痛覚に、生きた心地を感じさせる。隣で腹を擦る詩音は涙を浮かべながらも不機嫌そうに唇を尖らせ、不満をぶうぶう垂れていた。
上体を起こしたのと同時に、首根っこを掴まれた。
「一先 ず合格か」
煙草の残り香を纏わせる翔馬は、呆れ混じりに昴と詩音を見比べた。
「詩音。お前、本気出さなかったな」
「だって、目的はそれじゃなかったからいいじゃん」
「昴は甘過ぎだ。それに、刺されてもよく動じなかったな。無駄に酷使 しただろ、刺された方の足」
「刺され慣れてるからだいじょー……ぶ!?」
突然身体が宙に浮いたかと思えば、軽々と翔馬の肩に担がれた。そこそこ体重はある昴だが、思っていたよりも翔馬の腕力は相当な物らしい。暴れることなく静かになった昴を確認した翔馬は、穏やかに笑い、詩音を振り返った。
「詩音。うちに泊まってくか」
「うんん。俺は帰るよ」
「じゃあ、月銀に送って貰え。外で待ってるからな」
「……うん。ありがとう」
寂しげに笑った詩音の顔に、どうしようもない虚しさが翔馬の胸中に渦巻く。壁を作る癖は変わらない。翔馬は振り絞るように口を開いた。
「友達が出来て良かったな」
詩音は驚いた顔を翔馬に向け、恥ずかしさに俯き、何度も無言で頷いた。
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