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 ◇◇◇  残った業務を終わらせ、シャワーから流れる湯水(ゆみず)を浴びた頃には、広過ぎる家に暮らす同居人達は寝静まっていた。  静まり返り、明かりもなく宵闇(よいやみ)に照らされた通路を抜け、月明かりを浴びる縁側を一人でに歩く。  今宵(こよい)は星が綺麗な夜だ。あまりいい前触(まえぶ)れではないのかもしれない。今朝方からざわついた風が血の香りを乗せていた。不吉だと感じてしまうのは、峰玉を作るよりも前の話に遡るからだろう。  寝室を(へだ)てる障子を背に翔馬は胡座(あぐら)を掻いて座り、熱を冷ますべく夜風に当たる。気持ち良さに思わず瞼を閉じ、孤独の中で安らぎを肌身に吸収した。  だが、心地の良かった空気が音を立てて崩れ去る。恐ろしく巨大で強大な力が覆い隠さんとばかりに背後に立ちはだかった。  心臓が嫌な音を奏で、冷や汗が湧き出る。翔馬は恐る恐る背後を振り返った。  そこには『昴』が居た。雰囲気ががらりと異なる、感情の読み取れない空っぽの笑みを浮かべ、口角を(いびつ)に歪ませた。 「この家に来てからようやく出れたよ。魂魄を覆ってた檻を壊したからかな。無意識に呼び出されて暴れたことはあるけどさ」 「お前は……昴、なのか?」  軽快な調子で喋る『昴』は後手(うしろで)で障子を閉め、困惑している翔馬の隣に腰を下ろした。 「俺は『俺』で『俺』は俺だよ。急に干渉してくるなんて、ちょっと、いや、かなり失礼だと思うよ」 「……抵抗したのは『お前』の魂だったのか」  不可解さにようやく気付いた翔馬は、隣に座る『昴』の魂を見て、早々に答えに辿り着く。 「珍しい物を見たが……『反転(はんてん)』か?」 「せーかい。俺と『俺』の魂は表裏一体。白い魂の俺は穢れない。その分、穢れはぜーんぶ『俺』が受け止める仕組み」  黒い瘴気に満ちた禍々しい魂は、仕事柄見慣れているとはいえ、直視出来ない代物だ。翔馬は『昴』の顔を見ずに、何気ない質問をした。 「黒昴。普通の昴はどうなっているんだ」 「く……。あー、あっちの俺は眠ってるよ。『俺』が出てきた記憶はないし、向こうから『俺』を認識することは出来ない。表面的に呼び出された時は暴走した、としか思えないし」 「暴走か。あれか、爆走したバイクを素手で止めたとか」 「それは捏造(ガセ)」 「壁ドンでコンクリを粉砕したのは」 「……それは表の俺が力余って不良を懲らしめた時だよ」  感情的になると筋力のリミッターが外れがちな昴の伝説は、虎太郎に小ネタ感覚で教えられたが、片割れの馬鹿話に真面目に答える『昴』の気不味そうな横顔がなんだかおかしかった。 「一つだけ、教えて欲しい話がある」 「んー」 「――蒼星と三月は親としてやれていたか」  翔馬が口にした両親の話題に、すぅーっと『昴』の表情から色が消えた。  笑みすらない、悲しみすら消え失せた表情で昴は答える。 「会話したことは一度もなかった。なのに、表の俺は馬鹿みたいに話し掛けるんだ。話し掛けても答える訳がないのに。本当はとっくの昔に諦めてた癖にさ」  記憶の中に居る二人の姿と一致しない。変わってしまったことに、翔馬の中でぽっかりとした空洞が出来る。これが悲しみなのか、寂しさなのか判断はつかない。人格を変えるような出来事があったのだろう、と不思議と涙は出なかった。 「最後に、涼宮境から出た時の表の俺が言った言葉って知ってる?」 「――育ててくれてありがとう」 「何を言っても返って来なかったけどね」  ――何故だか悲しくはない。  親から得られなかった物は多過ぎたが、昴にとって最後の足掻きだった。  血縁のない赤の他人としか接さない両親の背中を見て育ち、決まった時間に食事が用意される。美味しいと感じたことがない、生命の維持源の為に用意される、消費されるだけの餌。人が作った料理の中で一番不味く感じた。それは味ではない。美味い筈の料理は、得体の知れない不味さだった。  家庭の味は存在しない。諦めがついたから、実家を出ることに迷いはなかった。 「叱ってくれたのも、一緒に泣いて、笑ってくれたのも……沢山の感情を教えてくれたのが真冬だった。表の俺は彼女を助ける為にこの場所に来たからさ」  心臓部に手を当てて、深層心理に眠る片割れに語りかける。考えていることも、共に過ごした時間が同じなだけ、自分自身を大事に出来る。半身である『昴』はそう思っていた。 「……ああ、そろそろ起きてくるみたいだね」 「黒昴は眠るのか」 「……普通なら出てきちゃいけない魂だよ。だからさ、黒栖翔馬」  訪れる睡魔に身を(ゆだ)ねながら、去り際に『昴』は翔馬に言伝を告げる。 「――俺の為にも『神の落とし子』を切り離しちゃいけないよ。きっと、アンタが求めてる宝の地図に辿り着ける」  ……さあ、お前の番だよ。  憑き物が取れた昴の身体はくったりと翔馬に凭れ、(すこ)やかな寝顔を晒している。穏やかに寝息を立て、胸が規則正しく上下する。年相応の寝顔に安心してしまった翔馬は、反転の魂を持つ裏側の昴が残した言伝(ことづて)に、危機感を募らせた。 「……そう、か。お前を育てたのは幼馴染と環境だったんだな。彼奴等も文秋(ふみあき)冴葉(さえは)と同じ……いや、それより酷かったのか」  親の愛情を知らずに育った昴は、他人から与えられた無償の愛情を一身に受けていた。求めないまま先がない道を外れて、己で切り開いた道を昴は期待に胸を膨らませていたのだ。  (たくま)しさには褒めるべきなのだろう。  だが、翔馬は辛そうに顔を顰めた。 「……可哀想だな。まだ大人になり切れない子供なのにな」  同情しようにもやり切れない気持ちを抱えながら、翔馬は声に出せない謝罪を述べた。  ◇◇◇  神社仏閣が所狭しと集まる古都に拠点を置く、浄化屋組織統括『白菊の舎棺』が神聖な気に現世へと身を潜めながら、穏やかな清流のせせらぎの如く一定の速度を保ち、永い時の中で維持し続けていた。  組織に属する人間の殆どが寝静まったというのに、広大な敷地の中で唯一灯りが灯る部屋があった。灯りといっても小さな灯籠(とうろう)型のランプから放たれる柔らかな光だ。  縁側から渡って一番端側の奥にある広々とした部屋で過ごすのは、ガッチリとしながらも弾力性のある筋肉の鎧に覆われた肉体を持つ、偉くガタイのいい長髪の男ただ一人だ。  寝間着として着慣れた浴衣を着崩し、男は午前中に送られてきたメールに添付されていた写真を慣れた様子で現像している。 「詩音、いい顔で笑ってんなぁ」  久し振りに見た満面の笑顔に胸の辺りが温かい。女友達以外に初めて男友達が出来たのはとてもいい変化だ。触れることすら許されなくなった詩音を写真の上から撫で、男は慈愛に満ちた眼差しを向けていた。  現像した写真をアルバムに加えている所を、一人の青年が呆れ果てた様子で急須と湯呑をお盆に乗せて入ってくる。 「(よろず)さん。お茶持ってきましたよ」 「あぁ? 理斗(りと)ぉ? 俺は茶なんか頼んでねぇんだけどなぁ」  万は怪訝そうに片眉を上げ、あからさまに機嫌が悪そうにしている。世話係を務める理斗は薬草を調合した薬茶を湯呑に注ぎ、机上でせっせと作業に勤しんでいた万に手渡す。鼻をつく独特な香りがするそれを受け取り、口内を潤すべく湯呑に口をつけて啜った。 「アルバム、何冊目なんですか」 「教えねぇ」 「いつ見ても新手のストーカーみたいですね」 「うるせぇ」  獣じみた威嚇に思わず溜め息が溢れ、隠され切れていないアルバムを覗く。 「……いつ見ても可愛いな」 「詩音の尻ばっか追い掛けてる奴が、よくもまあ言うもんだな」 「もう暫く笑った顔を見てませんから、尚更そう感じるだけです」  理斗は冷静な顔を装うのが得意な男だ。  感情的になりやすい万にとって、相性は良くとも、利害一致の関係を築くことしか出来ない間柄だった。それが正しかろうと思ったことはなく、互いに否定する。  ……会いてぇなぁ。 「渡せないのにずっと溜まってますよね。誕生日プレゼント」 「今年こそ、ちゃんと話してぇなぁ。冴葉の分まで、今度こそ俺が……」  言いかけて、どうしようもない自己嫌悪と罪悪感に(さいな)まれ、飲み込むように口を(つぐ)んだ。  左の脇腹を(さす)りながら、押し寄せる後悔に万は乾いた笑い声を一人でに漏らす。 「……思い出す度に痛ぇよ」  傷は無い筈なのに激痛が走る。  思い出してしまうのは雪解け前の四年前。瞼を閉じるとあの日の情景が浮かび上がる。脳裏に焼き付いて離れない悲しみに、耐えるように万は拳を握り締めた。 「……ごめんな。約束したのに、約束を守ってやれなくてごめんなぁ」  夜な夜な一人で泣いている万の姿を知るのは理斗だけだった。同情する気は全く起きないのが不思議だ。慰めた所で変わることはない。  人知れず理斗は呟いた。 「そうなるなら、憎まれ役なんか買わなきゃ良かったのに」  馬鹿なことをしたと後悔すればいい。  泣きながら許しを請えばいい。  (わずら)わしい嗚咽(おえつ)を聞き入れながら、理斗は悪態と同時に憎たらしく吐き捨てるのだ。  ――彼の人生を壊したのはアンタだよ。  使い古された恋愛小説に書かれた一文を引用するならば、思い付くのは一つだけだ。  ――出会わなければ良かった。  縁側から見える星空を見に部屋を出て、自嘲気味に口角を歪めた。 「星が綺麗ですね」  代われるなら代わりたい。憧れたポジションに居座る権利を持つ万が酷く恨めしいのだ。  たった一つの切欠で関係は変わる。理斗は自ら崩した繋がりに、今一度後には退けないことを再度確認した。  壊れてしまった物は完全な形に戻らない。欠けた破片(はへん)を掻き集めても、必ずパーツは不足している。それが二度と手に戻らない心臓部と同様であることを、一生涯かけても知る事が出来ない過去への忘却(ぼうきゃく)の一手なのだから。

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