23 / 84
第三章:隣り合う陰と陽
青空のない白んだ空は、薄い雲影に隠れた太陽の光を吸収し、まるで晴れ渡った天気であると錯覚させる。
広々とした屋敷には、小さな子供からすれば恐ろしく殺気 立った人間や、小難しい話で盛り上がる大人達で賑 わっている。同世代の少年少女は探せば見当たるが、どうしてか彼らは自分のことを嫌っている節があり、遠巻 きでひそひそと声を潜 めて、気味の悪い物を見る目で睨みつけるようにしているのだ。
周囲と馴染めない理由は誰も教えてくれない。両親の期待に応 えようとがむしゃらに浄化屋としての素質を磨いてきたのに、一部からは疎 まれ、一部からは重圧をかけられ。幼く未成熟な精神と肉体には耐えられない重たい負荷 を背負わされながら、生命の灯火 を削り続けた。
現実逃避をしたくて、誰にも見付からない高い木の上に登る。気持ちは賢い猿が傲慢 な人間の手から逃れるような、そんな感情が渦巻いていた。
春休みが明けたら小学三年生に上がる。進級に新学期、どれを取っても真新しさに欠けた、変化の兆 しがない取り留めない日々がまた再スタートする。そう思うと、鬱屈 とした狭苦しい動物園の檻に引き戻されるのか。虚 しさや寂しさが何故かぽっかりと開いた胸の奥にすとん、と当て嵌まった。
……どうしてなのかな。
「言われた通りのことが出来たのに、何でお父さん達は褒めてくれないんだろ」
口に出したら泣きたくなるのは、悲しみを吐露 してしまった言霊 のせいかもしれない。泣いたら弱者であることを認めてしまう。両親はそれを許さない人間だ。強くなければ、秀 でていなければ捨てられる。恐怖とは異なる焦燥 感に、少年は息が詰まりそうになっていた。
誰かが木を登ってきた。少年は大きな気配に気付き、涙の膜 で潤んだ瞳を下に向けた。
「しーおーん。まぁた、ここに居たのかぁ?」
「万 ぅ……」
安心感を与えてくれる見知った顔に、耐えていた涙がポロリと溢 れた。赤ん坊の頃から側に居てくれた万は、血縁者ではなくとも、両親よりも深く自分のことを理解している男だ。詩音 が唯一心を開いた相手で、他ならぬ心強い味方だった。
幹 に近い枝木に座っていた詩音は、丈夫な場所を渡すべく、細い枝先へ向かって腰を浮かせながら移動した。万は喜々 とした顔で詩音の隣に座り、危険が及ばぬよう、優しく詩音の身体を支えていた。
「悲しくなったら人目につかない場所。詩音のことならぜーんぶ分かるからなぁ」
「ゔー……」
「右腕の肘んとこ、擦り剥いて痛いんじゃねぇのかぁ?」
「……!」
隠し切れない怪我 を長袖のシャツ越しに触れられ、痺 れのように走る痛みに詩音は眉根を寄せた。
我慢していたのを簡単に見破られたことに、詩音は顔を真っ赤にさせたまま涙目でぷるぷると震えている。小さな虚勢 は呆気なく崩れ去り、したり顔の万の丸太みたいに大きく逞 しい腕で小さな身体は抱かれ、直ぐ様回収されるように地上へと戻された。
厚くて広い胸板に恥ずかしさから顔を埋 め、心地よいタイミングで背中を叩かれる。優しさが身に滲 み、詩音は誰よりも安らげる万の温もりに凍てついた心が解されていくのを感じていた。
……ずっと、一緒に居れたらいいのに。
何も言わなくても、万は些細 なことでも直ぐに気付いてくれる。
言いたいことがあれば、口に出せるまで根気強く待っていてくれる。
だからこそ、信頼出来る相手だ。詩音にとって浄化屋の世界は好き好 んで足を踏み入れた場所ではなくとも、万と出会えたことに誰よりも感謝している。
閉塞 的で、首輪を嵌 められながら生きる浄化屋の世界は酷く不自由だ。詩音はその世界しか知らない両親の間に生まれ、それ以外の道は許されなかった。これだけの話を聞けば、厳格な親という印象を与えがちだが、それとは異なる性格なのが厄介 な物だ。
だが、万は優しく沈みきっている詩音に声を掛けた。
「しおーん。怪我治してから、何して遊ぶかぁ?」
「……サッカー」
「じゃあ、散歩がてら、近くの公園に行こうなぁ。どうせ希壱 達も暇してるだろうしよぉ」
「行ってもいいの……?」
「当たり前だろぉ? 怒られそうになったら、隠れんぼすりゃあいいんだし。鬼に捕まったら、一緒にお叱り受けてやるからよぉ」
白い歯を見せて笑う顔に、強張 っていた表情が弛緩 する。自分よりも子供らしく振る舞う少年少女は沢山居るのに、どうして万は真っ先に自分の元へ来るのか未だに分からない。理解する前に、簡単に暗い感情諸共吸い込まれてしまうのが、彼が陽だまりのような温かさを持っているからだ。
――その時の詩音はただ純粋にそう思い込んでいた。
◇◇◇
懐かしい記憶が夢見の中で蘇 るのは、これで何度目だろう。水族館のお土産で貰ったイルカ型の目覚まし時計が鳴り響き、決まった時間に寝過ごすことなく目が冴 えた。
高校生になってから模様替えをした寝室には、様々なメーカーの虎のぬいぐるみで溢れている。好きなサッカー選手のユニフォームに、子供用の傷だらけで汚れた小さなサッカーボール。勉強机には解答欄が埋まった課題のプリントと数学の教科書が置かれている。年頃の男子高校生にしては、整理整頓が行き届いた、少女趣味と少年趣味が混ざった、独特な部屋だ。
詩音は抱き枕代わりにしている虎のぬいぐるみを見詰めながら、小さく呟いた。
「……なんでいい思い出ばかり出てくんのさ」
思い出したくもない幸福に、詩音の心は磨 り減っていく。未だに曇りガラスの向こうに隔てられた壁に、唯一の味方だった万は居るのだ。
破られた約束の果てに、残ったのは先の見えない孤独。両親が籍を入れて日も浅い時期に父親が購入した庭付きの一軒家は、一人で住むにはあまりにも広過ぎた。
目が覚めると痛感してしまう。また朝が始まった。終わりのない始まりが幕を開けたのだ。
憂鬱 な気持ちの中、詩音はベッドヘッドに置かれた携帯電話に明かりを付けた。
「……あ。宮盾 君からだ」
新しい友達は変わり者だらけだ。昔から同性の友達が出来なかった詩音にとって、貴重な友達となった。
詩音はグループチャットで繰り広げられる可笑しな攻防戦に朝から噴き出した。
「ぶはっ。何これぇ。俺が居ない時に何でおっぱいの話だけで盛り上がってるの」
ある程度の下ネタなら笑って飛ばせるが、激しい討論合戦に「頭おかしい」と涙が出る程笑ってしまった。
詩音からの既読 に気が付いた泰 から伝染するように、良太郎 と秀吉 、昴の順で送られてくる。詩音も負けじと送れば、更に内容は盛り上がりを見せた。
「ぶふ……。泰ちゃんって暇人過ぎるんだ」
変わり者の友達が一気に四人出来たのだ。対等に接してくれているような気がするが、女友達とは異なる気の緩みが許される相手に思える。
昨夜 の手合わせの際、昴が言っていた言葉を思い出す。自分にはない精神の強さを感じたのだ。
意識していない中、得体の知れない何かがぶわっと内部から全体に広がり、形容 し難 い感情が膨 れ上がる。自身を弱者 だと認めたら終わりだ。詩音は幼少時代に刷 り込まれてきた虚栄心 が再び蘇るのに、堪 らず恐怖していた。
個人でのチャットルームに昴から送られてきた。先程のグループチャットではトレーニングで離脱 していた昴が、即座に打ち込んだ内容に、詩音は抱えていた不安が払拭 される。
「……俺のこと、お見通しなのかな。あー、もう……見かけによらずお人好し過ぎるよ」
弱者であることを認めたら終わりだ。刻み付けられて離れない言葉に囚 われながら孤独を生きていた詩音にとって、変わる為にも大事な出会いがあったと手応 えを感じていた。
……今日はお母さんの所に行く日だ。
「お母さんに教えなきゃ。きっと、喜んでくれるよね」
幼子みたいに微笑みながら、詩音はベッドに倒れ込み、抱き枕代わりに使っている虎のぬいぐるみに抱き着きながら、嬉しさが隠せずにごろごろしていた。
ともだちにシェアしよう!