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 ◇◇◇  体内時計で普段と変わらない時間に正確に目が覚める。翔馬(しょうま)は隣に手鞠(てまり)が居ることを確認し、微笑を浮かべながら優しく頬を撫でた。  上体を起こし、障子側に寝ているであろう昴の姿を確認しようとするが、そこは(もぬけ)(から)だった。  布団(ふとん)は丁寧に畳まれ、スウェットも上下共に畳まれている。着替えた形跡はあるものの、まだ時刻は七時前だ。想定外の早さで目が覚めた昴を探しに、翔馬は寝室を出た。  縁側には居ない。どこを探せば手っ取り早いか分からなくて当たり前で、困り果てた翔馬は首の裏を掻いた。  背後から小さな手に浴衣の裾が掴まれる。手鞠は大きな目を潤ませながら、言葉を発さずに昴が居なくなったことを気にしているようだった。 「……ったく。どこに行った」  手鞠を軽々と抱き上げて、食事でも作っているであろう、月銀(つきしろ)の元へ向かった。  だが、向かっている最中に月銀と出会う。 「ツキシロ。スバル、どこ」 「先程ランニングした後に、鍛錬室を使用しております。集中しているようでしたので、中々声は掛けられず仕舞でして」 「あぁ? 昨日の今日で何やってんだ……?」 「あの者の日課らしいですよ」  困った様子で月銀は愚痴と同じ調子で毒づいた。  昨夜は鎖を生身で引き千切った人間が、翌日何事もないようにトレーニングを開始している。普通なら考えもしないだろう。翔馬は甘く見過ぎていたと引き()った笑みを浮かべてしまい、抱き上げていた手鞠からきょとんとした眼差しを向けられていた。 「取り敢えず、あの者が自転車通学でいいと言っておりましたので、倉庫に仕舞っていた物を用意致しました」 「……チャリ通学かよ」  こちらから手回しをする暇さえ与えない即断即決さだ。格好つけようにも付かないことに、翔馬は大変参っていた。  未だに鍛錬室に居ることが分かれば、翔馬は迷わず手鞠を連れてその場所に足を運ぶ。若人(わこうど)にしては今時珍しい。生真面目(きまじめ)なのか、はたまた馬鹿なのか。翔馬は改めて舐め過ぎてはいけない相手だと認めざる終えなかった。 「ショウ」 「最初におはようって言いたかったよな」 「……ん」 「多分、昴自身誰かと暮らすことが慣れない人間なのだろうな。だから、普段と変わらないルーティンでやっているのかもな」  同情する気になってしまうのが、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になる。翔馬は身体を壊さないか危惧(きぐ)していたが、それすらも跳ね除けさせるのが昴だった。  鍛錬室を開けた瞬間、翔馬だけでなく手鞠や月銀も同様に唖然(あぜん)とした。  動きやすいジャージに着替え、こちらに気付くことなく、汗だくになりながら壁の縁に指を掛け、懸垂(けんすい)に勤しんでいる。自身が顕現(けんげん)させた短剣(ナイフ)に近い長さと太さの木剣(ぼっけん)でイメージトレーニングもしていたのだろう。()にはじっとりと手汗が染み込んでいた。  ……集中し過ぎかよ。 「おい、昴」 「……ん? あ、翔さんも手鞠ちゃんもおはよう」 「あ、ああ。おはよう……」  何事もないように挨拶され、翔馬は拍子抜けしていた。いつ頃から起きていたのか分からないが、月銀よりも早起きだったのかもしれない。  持参しているタオルで汗を拭きながら、きょとんと昴は不思議そうに目を丸くしていた。 「使ったら不味かった?」 「……いや、そうじゃない」 「この家からの周辺も足で覚えたし、案外不自由ない場所だな。前に住んでたアパートなんかと比べ物にならないし」  当たり(さわ!)りない会話を続ければ正しいのかもしれない。ごみ箱に傷口を止血していた包帯やガーゼが捨てられていたのも目を(つむ)ればいい。  だが、昴は特に身体に不調を感じている素振りを見せないまま、颯爽(さっそう)と風呂場へ行こうとしていた。 「って、おい! 昴!」 「……汗流したいんだけどな」  呼び止めた所で何も言えなかった。昴は疲れた様子で溜め息を吐き出し、間抜け面を晒す翔馬と月銀を見ていた。  だが、手鞠は大きな目を真っ直ぐと向け、小さな口を開いた。 「三位一体(さんみいったい)」 「んん?」 「健全なる魂は健全な肉体と精神に宿る物。ショウは努力をしない人間だから、スバルのやってることを理解してないんだと思う」  相変わらずの無表情と相俟(あいま)った毒舌(どくぜつ)に、翔馬は(はた)から見てもよく分かる精神的ダメージを食らっていた。  手鞠に悪気はない。正直な話、それが黒栖(くろす)翔馬という男なのだから、素直に受け入れるしか他ならなかった。  納得した昴は、再び背を向けて風呂場へと去っていった。取り残された三人は、無言で居間へと向かったのだった。  ◇◇◇  ぬるま湯に調節したシャワーから、やや強めの水圧が一定の間隔(かんかく)噴射(ふんしゃ)される。昨夜は詩音との生温(なまぬる)い手合わせをしていたと痛感しており、更に高みを目指すべくして、早々にトレーニングを始めたのが他者からすれば物珍しい物だっただろう。  水圧を手で受け止めて確かめ、頭からシャワーを浴びる。汗でべたついた身体が一気に洗い流される。生活費や家賃にも困らない居候(いそうろう)生活は気持ちいい環境に変わった。だから、昴は趣味に成り果てたトレーニングをしていたに過ぎなかった。  ……それに、誰かと家の中で顔を合わせるのは苦手だ。  友人の家に泊まったことはあるが、住居の中はどうしようもなく緊張してしまう。トラウマかと指摘されれば、考えずに首を横に振って否定する。生きた人間の存在には落ち着く物を感じるが、どうやら『家』という固定概念に(ひる)んでしまう節が、幼少時代から今に至るまで癖になってしまったようだ。  昨日の今日だから、同居を共にするのは慣れる訳がなかった。  それは翔馬達も同じで、ランニングから帰ってきた後に月銀とはち合わせ、大変驚いている様子だったのを覚えている。直ぐに鍛錬室の許可と、自転車の有無を聞いてから、身体を動かすのに没頭(ぼっとう)し過ぎた。まだ鍛え足りないが、昴は暫くの間、悶々(もんもん)と考え込んでいた。  ……なんか、後ろから変な気配を感じる。  背後を振り返ると、(おぞ)ましい覇気(はき)がだだ漏れな、翔馬のギラついた翡翠(ひすい)の目とかち合った。  素裸(すっぱだか)で朝シャワーを満喫していたのを、簡単に壊しにかかってきた翔馬の恐ろしい視線に、昴はそっとシャワーを冷水に変え、扉にへばり付く家主(やぬし)放水(ほうすい)した。 「わぶ! 冷ってぇな!」 「現在こちらはプライベートで使用しております」 「凍死(とうし)する! (こご)えるわ!」 「とっとと出ろ」  (さげす)むような眼差しに、掛けられている冷水と合わさり、股関の辺りがきゅう、と(しぼ)んだ。  昴はシャワーを止め、脱衣場へ出るべく、扉を(ふさ)ぐ翔馬を蹴り飛ばして、(かご)に掛けられたバスタオルで濡れた身体を拭いた。 「風邪引くんじゃないか。シャワーでも浴びてきたら?」 「冷たいな。一緒に温まってくれてもいいんじゃねぇか?」 「あ、そういうのは要らないんで」 「お前は冷てぇな! 拒否るの早すぎだ!」  濡れた髪の毛は普段より増量しているように見えた。ふやかした乾燥若芽さながらで、笑いを堪えるのに精一杯だ。  ……まあ、いいか。  後ろで騒がしい翔馬を無視しながら、愉快さに口元を緩め、固まっていた緊張の糸が(ほぐ)されたのを一人感じていた。

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