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◇◇◇
鼻をつく鉄臭さが湿 り気を帯びて散漫 と、部屋の中に色濃く充満している。頭の芯の奥から霧がかった感覚が浮上し、少しずつ硬直していた身体の自由が戻りつつあった。
真っ先に神経を刺激したのは激しい痛覚だ。肩口から胸元、腹部に至るまで、獣に食い千切られたような傷口が、ぱっくりと口を開いている。冷えた外気に触れて、引き攣 った痛みに身体が敏感 に反応した。
乾いた血液が瘡蓋 みたいにこびりついている。全裸で意識を失ったまま、昏々 と深い眠りに落ちていたクリストファーは、血の気が抜けた青い顔をし、弱々しくもなんとか身体を持ち堪 えながら、ゆっくりと上体を起こした。
気持ち良さげに惰眠 を貪 る紅 が目に映った。下肢 を伝う精液は昨夜の性行為でクリストファー自身が出したそれだった。朧 げな記憶しか残っておらず、クリストファーは痛む身体を引き摺 りながら、眠りこける紅に手を伸ばそうとした。
触れる直前、邪魔するようにインターホンが鳴り響いた。
朝早くからの来客に、堪 らず気が重くなった。
クリストファーは空気中に姿を隠している『親友 』の名を呼ぶ。
「ジェシー。服が欲しい」
『うん。今から持ってくるから、ちょっとだけ待ってて』
年端 もない幼い男児の丸みを帯びた声にしては、やや大人びた口調で返される。クリストファーの視界には、浮遊 している霊体 が沢山映っており、意思を持つ残留思念体 が声に応えようと待機していた。
クリストファーは生まれながらにして幽霊を直視出来る体質で、尚且 会話することや力の貸し借りも出来る関係だ。
身体を支えてくれる双子の姉妹は、優しく宥 めるようにクリストファーの背中を擦 っている。掌の感触は生身の人間とあまり変わらない。クリストファーは落ち着きを取り戻した思考回路のまま、服を運んできた古い友達の『ジェシー』から受け取った。
着替えるのを双子の姉妹『美郷 』と『美琴 』に手伝われながら、一人の男性の霊が居間に現れた。
『クリス。外にフランソワが来てたぞ』
「……そう、か。彼か」
『追い返そうか』
「……いや、いい。クラウドは加減が出来ないだろう」
普段使う敬語を取り払い、対等の友達と接するように私語で会話を交わしている。案の定、紅はまだ夢の中だ。この変貌ぶりを見られる訳に行かず、起きないか内心冷やりとしていた。
着替えを済まし、玄関まで美郷・美琴姉妹に支えられながら覚束 ない足取りで歩いた。
頭がぐらぐらして気持ち悪い。血を流し過ぎたと舌打ちをし、玄関の前で感情を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
内鍵を外し、ドアノブを捻 って扉を開ける。開けた途端、サイドを刈り上げた一回り歳の離れた男性――フランソワの驚いた顔が飛び込んできた。
「クリス。また、彼奴に喰われたのか?」
「……それがどうしたというんですか。ワタシが彼に望んで差し出しているだけですから」
喰われた場所から鮮血が滲 み出ては止まらなくなる。足元がふらつき、クリストファーは前傾姿勢でフランソワに向かって倒れ込んだ。
軽々と抱きとめられ、嫌にでも生身の人間の体温を感じてしまう。耐えきれない不快感に吐き気がこみ上げてきた。胃酸 混じりの吐瀉物 が逆流しそうになるのを飲み込んで抑え込み、力が入らない腕でフランソワの身体を押し返そうと躍起 になる。
「……は……はっ……」
「すまん」
「……はや、く……帰って頂けませんか。ベニ君が警戒してしまいます」
「……すまん」
強くも優しい力で抱き締められる。壊れ物を扱うような、女性だと勘違いされているような、眩暈 がする程不愉快だった。
抵抗する力は残されていない。体温は低下しつつあり、極寒の地に放り込まれた凍える寒さに身体がガタガタと震えていた。
再び抵抗しようと青褪 めた唇を開いたが、居間の方で紅の呼び声に意識がはっとする。
「クリちゃ〜ん。どこぉ〜?」
寝惚 けた声に、思わず笑みが溢れてしまった。クリストファーの表情を見たフランソワは、苦痛に顔を歪めたまま、そっと腕の力を解いた。
「……無理はするなよ」
「フランに言われても説得力はありません……よ」
倒れそうになる身体をクラウドに支えられ、自嘲気味に口元を歪め、ジェシーの手によって勝手に閉められる扉越しに、フランソワの悲痛めいた表情が残酷な物にしか思えなかった。
「クリちゃ〜ん」
ひたひたと素足のまま歩いてくる紅の姿に気付き、無意識に顔が綻 んでしまう。
……でも、限界か。
弱った身体を支えるのは一人では無理な話だ。壁に手を付きながら、ずるずると力の入らない身体を引き摺り歩く。倒れまいと残滓 にしか残っていない活力を振り絞るが、霞む視界の中に見える紅に抱き着かれた。
「……ごめんなぁ。クリちゃ〜ん」
「謝る必要はありませんよ。ベニ君を満たせたなら、それだけでワタシは幸福だと思っておりますから」
「……おん。クリちゃんの魂は誰よりも美味かったで」
「部屋に行きたいので、支えてくれますか。ワタシは少しだけ眠りますから」
肉体の損傷以上に喰い荒らされた魂魄の方が酷い物だ。悪食 で人肉ごと喰らう紅は、人間の想像を簡単に超える悪魔――魂喰い 。その餌となり、生命を維持する糧 として、クリストファーは迷いなく身を捧げる。生贄 のようだと糾弾 する声は後を絶たないが、クリストファーにとって紅の存在は苦痛を伴う相手ではなかった。
弱り果てた身体を寝具の上に寝かされ、もたついた様子で重さのないタオルケットを紅は必死に探していた。
「あった! これなら風邪引かへんやろ!」
「……これは、ブランケットでは?」
「も、もう一枚ある! 何枚もある!」
どっちゃりと春先には暑いブランケットを何重にも掛けられ、ドヤ顔の紅が微笑ましくて堪らない。
……幸福、か。
ありもしない物を口にする虚言 は仕事柄のせいか。クリストファーは馬鹿馬鹿しさに目を逸し、心地よさに下がる瞼を閉じて、睡魔 に身を委ねた。
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