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 ◇◇◇  初めて一人で家を出たのは、梅雨入り前のよく晴れた夕方だった。  窮屈(きゅうくつ)な家とは違う、広い世界が目の前にあり、驚きと共に感動を覚えた。未だに形の知らない感情だからか、胸の奥底から湧き上がる温かな熱に暫しの間浮かれた。  車道を走る乗用車が起こす突風に混じる排気ガスに激しく()せ返る。薬品の香りは嗅ぎ慣れていたが、鼻腔(びこう)に入り込む刺激臭は幾度とないスパークを引き起こし、脳が強烈に揺さぶられた。  ()き込みながら、じんわりと涙が滲んでいるのに気付き、訳が分からず首を傾げた。鼻がむず痒くて、ごしごしと腕で(ぬぐ)うような仕草をし、何故か擦り過ぎて痛くなった。  人が集まる場所はテレビで見た記憶がある。近所に何があるかは知らないが、迷わず足は敷地の外へと向かっていた。  車は真ん中を通っていた。大きい音を立て、重量感が速さを(ともな)って人力よりも遥かに強大な圧力が前進しており、未成熟な身体は簡単に吹き飛ばされる。  見た目だけの判断は、比較出来る対象が居ないから確証性はない。想像が膨らんでしまう物が、無限の可能性を秘める外には沢山広がっているのだ。  子供達の溌剌(はつらつ)とした声が聞こえてくる。無意識に足がそちらに向かうと、それなりに満足出来るシンプルな遊具が設備された、そこそこの広さがある公園が視界一杯に飛び込んできた。  公園に足を踏み入れた時、空気が変わった気がした。親と思しい女性達が談笑し、歳の頃は変わらない子供達が各々と気に入りの遊具で遊んでいた。  滑り台は定員オーバーだ。シーソーも、ジャングルジムも入る余地がない。うろうろと視界を彷徨(さまよ)わせている時、ブランコに座る少女と目が合った。可愛らしい顔立ちの少女は、こちらを見てにこやかに微笑み、手招きをしてくる。  ブランコは少女以外誰も座っていなかった。恐る恐る彼女の元へ向かうと、にこやかに隣に促された。  低い位置にあるブランコは、小さい身体に程よく収まった。爪先が少しだけ浮く高さで、これでいいのか分からず、首を傾げた。 「もしかして、初めて乗るの?」 「……あ、えと……うん」 「じゃあね、私の真似っ子してみて」  変だと思われないまま、少女はにこやかに笑いながら、鎖に左右対称に付けられたグリップ部分を握り締め、後ろへ限界の先まで下がり、ぱっと足の支えを無くす。  自由になった両足で、少女は空へと向かって()ぎ出す。まるで明日への道を切り開くように、身の丈は遥かに超えて、大きく大きく空へ羽ばたく鳥のように。少女は眩しい笑顔を絶やすことなく、そこに当て嵌まるピースのように、とても自然体だった。  自分も彼女がしてみたように真似てみた。ブランコがキイキイと軋む音に、不思議と高揚(こうよう)感に期待が膨らんでいった。  漕ぎ出した瞬間、見る景色が変わった。狭くて窮屈な家とは違う、広々とした、だだっ広い自由度に満ちた世界。  知らなかった世界に誘ってくれた少女との出会いが全ての始まりだった。悪い夢から覚めたような、明るい外界へ解き放たれたような。虚なき白く柔らかな、暗闇から抜け出して初めて見たお日様のような、そんな気持ちを感じていた。  ――俺が外に出ることをしなかったら。  ――外の世界に感動することが出来なかったら。  例え話ならいくらでも花咲かせられる。空想でしかない、戻らない過去には選択肢は既に決まっていた。  淡くも鮮明に覚えている思い出の中、少しだけ懐かしさに胸が締め付けられる思いをしていた――。  ◇◇◇  ()び付いたママチャリは機械油をさしたお陰でブレーキの効きがいい。ペダルを漕ぎながら、遠からず近からずの中途半端な距離にある高校に向かっていた。  公園に差し掛かり、無意識にペダルを漕いでいた足が止まった。シンプルな遊具が設備された、極めて平凡な公園だ。昨今(さっこん)流行(はや)りの有名なデザイナーや建築士が作ったような変わり種の遊具ではなく、民間の公務員が発案しただろう簡易式の物だ。  視界の先に止まったのは、無人のブランコだった。懐かしさが胸に込み上げては、何故だか堪らず悲しさ混じりの恋しさに焦がれてしまう。  真冬(まふゆ)と出会った場所と重ねてしまった。未練(みれん)や後悔は彼女のことしか当て嵌まらないのが、酷く女々しく、あまりにも無様だと昴は自虐(じぎゃく)した。  脳裏に焼き付いて離れない、初めて体験した感動は、十年を超える年月が過ぎても尚、一点も違わずに鮮明に思い出せる。  ……また、か。  人としての弱さに(くじ)けそうになってしまう。昴は過去を封じ込もうと(うつむ)き、瞼を閉じながら深呼吸を繰り返す。未練というのは嫌な物だ。気にしない素振りの中で思い出してしまうのが、厄介な弱点と成り果てているのだから。  平常心を取り戻し、顔を上げた瞬間、見慣れない身なりをした黒髪の男性が、両手に大量の雑誌と大量の食料品をコンビニ袋に入れて歩いていた。  白を基調とした中華服と学ランの境目のデザインには、赤と金の刺繍で花や鳥が描かれ、耳には赤い鉱石がぶら下がったピアス。片手には如何わしい表紙の官能小説を器用に歩きながら読んでいる。  漆塗(うるしぬ)りをしたようなねっとりとした(つや)のある黒髪だ。外人なのか日本人なのか判断はつかないが、無意識に凝視(ぎょうし)してしまった。  官能小説から意識を逸した男性の目とぶつかる。  この世の物とは思えない飲み込まれそうになる深紅色(ふかべにいろ)の瞳に(わら)われた気がした。  脳が警鐘(けいしょう)を鳴らしている。身体は蛇に睨まれたように動けない。恐怖や畏怖(いふ)、そういった念は恐ろしく感じない。恐怖と名が付くのは今のところ翔馬くらいだ。  男は口角を上げて笑った。 「なぁ、そこの餓鬼(ガキ)ぃ。お前、童貞やろ」 「……は?」  初対面にしては苛立たせさせるドヤ顔で早々に童貞認定された。気怠(けだる)げな声音に自信家然とした態度は想定外だ。無言で去るのが常識だろ、と勝手な解釈が(よぎ)り、終始混乱していた。  馴れ馴れしく近付いてきた男性は、一冊のエロ本を差し出してくる。創刊されて真新しい訳ではない、中堅に分類される『月刊チェリーパイ』だ。  普段から率先して読むエロ本の最新号に昴の思考は停止した。 「俺からの餞別(せんべつ)や」 「……ミクルちゃんの袋とじ」 「ほぉ、なんや。その女が好きなんか。なら、貰っとき。礼はいらんで」  籠に入れられたエロ本を据わった眼差しで見下ろす。既に考えるのは放棄(ほうき)した。昴は悠然(ゆうぜん)と去っていく男に後光(ごこう)が差しているような、ありがたい物を感じていた。

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