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◇◇◇
朝から生理前の女子のように苛立ちを抑えきれずに、低い呻き声混じりに唸っている紅は、好んで読んでいる筈のエロ本をぐしゃりと握り締めた。
溜め息混じりに微笑を浮かべたクリストファーは、遊びに来ていたチャイナ服の少女――リャンファに火元の管理を任せ、臍 を曲げてしまっている紅の元へ歩み寄る。
「ベニ君。どうかしたんですか」
「なん、で小娘まで来るんや! ビッチだって昼に戻ってくる必要ないやんか!」
ダイニングテーブルで紅茶を飲んでいた女性の手が止まる。赤を薄めたような内巻きボブに薄いフレームの眼鏡の奥はエメラルド色の双眸が光る。彼女――チェスカは明らかに不愉快そうに顔を顰 めている。チェスカを見ているリャンファは愉快さを隠さずににやついていた。
「どこの誰がビッチですか。相変わらず口汚いですね、紅さん」
「あぁ!? うるっさいわ! こんの、クソビッチ!」
「……全くもって不愉快極まりないです」
西洋人形のような顔立ちを歪めて、不遜 な態度で鼻を鳴らした。
紅の隣に腰を降ろしたクリストファーは、優しく抱き込むように抱擁 し、宥める為に頭を撫でる。蕩けるような柔らかな髪質は湿気がないのに酷く手に馴染み、触り心地の良さに癒やされた。
甘やかされているのに不満はなかった。紅は誰にでもいい顔を振る舞うクリストファーが腹立たしく思うが、それにホイホイついてくる人間が一番嫌いだった。
茹で上がったパスタをフライパンの上で炒めた具材と合わせ、リャンファは手慣れた様子でナポリタンを作り始める。
「ねぇ、糞犬。アンタは顔だけならいいんだから、普通に女の子にモテるんじゃないの?」
「女は直ぐに孕 むやろ。だから俺は童貞のままでいいんや」
「ふぅん。なんか嫌ーな言い方」
茹で汁を加えながら予め作り置きしていたトマトソースと馴染ませ、振り返ったリャンファは子供じみた紅に対して小馬鹿にする憎たらしい笑顔を向けた。
「ビッチは糞犬じゃね?」
「あぁ!?」
「はっ。臓器掻 っ捌 いてマニアや闇医者に売り飛ばしてやろうか?」
わざとらしい挑発に気の短い紅は今にも噛み付く勢いだ。
しかし、クリストファーは呆れ果てた様子で紅の額をぺちりと叩き、優しくリャンファを嗜める。
「リャンファ。年頃の女の子なんですから、そのような下品な言葉遣いは控えるよう再三注意していたつもりなんですが」
「……ごめんなさい」
「それに、チェスカも。喧嘩する程仲はいいと言いますが、言い争いをするなら外へ出てください。ベニ君も分かりましたね」
「ふん。知らんもん。このビッチが悪い」
「……クリス君が言うなら、これから気を付けるね?」
落ち込んだ姿ですらあざといと紅はチェスカを忌々しげに睨みつける。確かにチェスカが今朝方来なければクリストファーの傷は治らなかっただろう。
しかし、この場所は踏み込まれたくない聖域だ。テリトリーに侵入してくる人物は目の敵にするしかないと紅の足りない脳味噌は勝手にそう処理していた。
四人分のナポリタンを皿に盛ったリャンファは、ダイニングテーブルに並べた。温め直したオニオンスープに、ボウルに盛ったグリーンサラダをバランスよく配置し、満足そうに平らな胸を張った。
「はいはい、出来たよ。糞犬もさっさと席につきなさいよー」
「言われなくとも分かっとるわ。まな板娘」
警戒心が一向に解けることがなく、気を張りながらクリストファーの側に縋り付くしかないのが紅にとっての世界の全てだ。血肉も魂も、それが例え食糧と変わらない見方だと思われようにも、生きている間は欲望に忠実でなくてはならない。
……まただ。
風がカーテンを揺らしながら、出来立ての手料理とは異なる甘美な香りが室内に入り込む。砂糖菓子よりもしつこ過ぎない、花よりもえぐみのない香りに、空腹で唾液に溢れた口内に想像でしかい魂の馳走に紅は喉を鳴らした。
◇◇◇
「……あー。胃が痛い」
昼休み真っ只中だというのに、気分は最悪だ。騒ぎを引き起こしたせいで職員室に呼び出され、長いようで短い支離滅裂な説教を受けてきた所だった。校内全体の自分に対する視線が一層酷い物に変わった気がする。昴はストレス性の胃痛でこのまま病院に放り込んで欲しいとさえ思っていた。
普通に生きることは難しいのか。昴は散華輪 を見詰めながら、深く鉛のように重たい溜め息を吐き出した。
「宮盾氏ー」
「椙野ー……」
小柄で丁度いい肉づきの良太郎が可愛く見えたのは疲れている証拠だろう。疲れ果てているせいか、子犬みたいに駆けてきた良太郎を昴は抱き締めた。
華奢 な体躯 のようで筋肉のない柔らかな身体付きは合法ショタなのに変わりはない。程よいプニプニ感に柔軟剤のいい香りが心地良かった。
「あー……。マジ子犬……」
「宮盾氏……お疲れ様なのです……」
「柔らかくていいなぁ。軽くていいなぁ」
「喧嘩売ってるのですか?」
太っている訳ではなく、やや女性に近い脂肪の付き方がここまで癒やしを運んでくれるとは思いもしなかった。これで息子が付いているのだから性癖持ちなら万々歳だろう。昴は軽々と良太郎を肩に担ぎ、十分な疲労回復が出来たせいか機嫌が頗る良くなった。
落ちそうになる眼鏡を必死に押さえながら、良太郎は不満そうに頬を膨らましている。
「男としての尊厳 がズタボロなのです」
「中身は男らしい方なのにな」
「馬鹿にしてますよね」
「当たり前だろ。人見知りビビリ」
「筋肉馬鹿の癖に腹立ちますよ」
小憎たらしい良太郎の口ぶりに昴は苦笑した。俵抱きは余裕だが、良太郎は抵抗せずに身を任せている。慣れた人にしか見せない顔だから心底安心してしまった。
「宮盾氏。先日、何かあったのですか」
「……疑問形じゃない決定事項かよ」
「西園氏に懐かれ過ぎてるのは変わった話なのでしょうが」
切り込むなら今だと思えたのだろう。軽く干渉されても拒むような要素は一つもなく、話す内容に戸惑っていたのは自分の方かもしれない。昴は解消出来ていない疑問を抱えながらも、冷静に口を開いた。
「一昨日、アルバイト帰りに天職が見付かったんだ。その切欠が西園だった。それだけだよ」
「それはこの街に来た目的に繋がると?」
「特待生制度の話題は卑怯 じゃないか」
一枚の契約書の存在を良太郎は知っている。地元について話したことは今でもなかったが、勘のいい相手には既に察しがついていただけに過ぎない。昴は厄介だと溜め息混じりに苦笑し、自身が抱える疑問点の一つについて明かした。
「俺が中学生まで過ごしてたのは、藤咲市よりも遥かに遠い工業都市だよ。電車やバスを乗り継いで、交通費は馬鹿みたいにかかった。丁度受験シーズンの真っ只中で理事長の部下らしい人に契約書を渡されたんだ」
「そうですか。まるで狙って行 ったみたいですね」
「……そうだな。今思えば美味しい話だよ」
特待生制度が執行される特例措置 について、詳しい詳細を昴は知らない。良太郎は自分と同じ特待生だが、切欠を聞いたことは一度もなかった。
……普通だったら凛太郎さん達と同じ学校を卒業する物だったんだろうな。
切欠は弥生も含まれてそうだが、昴は考え込むのを止そうとする。
しかし、良太郎は何気なく口にした。
「宮盾氏。それが天職だからといって全てが素晴らしい職とは限らないかもしれないのですよ」
否定的な言い方とは異なるさらりとした忠告を、聞き流そうにも聞き流せなかった。足を止めてしまい、昴は良太郎を一瞥する。良太郎は普段と変わらない冷静な横顔をしていた。
「やっぱり、知って……」
「西園氏が宮盾氏に好奇心ダダ漏れだったのは進級してから直ぐに気付きましたよ」
明らかに誤魔化された気がする。周囲に関して無関心過ぎる昴の性格が災 いしたのも一理あるのかもしれなかった。
しかし、良太郎は核心に触れなかった。
「確かに宮盾氏にはお似合い……いや、凄く合っているのかもしれません。運命を信じることが出来たら、必然的にそれが宿命でもあったのかもしれないと僕は思うのです」
分厚い瓶底眼鏡に隠されていた瞳を少しだけ覗かせながら、甘いヘーゼル色の双眸を穏やかに細め、どことなく嬉しげに笑っていた。
……なんだよ、それ。
胸の奥がむず痒い。昴はいとも簡単に素顔を晒してきた良太郎が小憎たらしいと、幾度となくついてきた悪態を零した。
「黙れブルジョワ」
「僕は比較的まともな思考の持ち主なのですよ」
「ははっ。そんなの知るか」
教室の近くで担いでいた良太郎を降ろし、何故か大所帯で机を繋げている秀吉に手招きされる。詩音が大きく手を振りながら、侍らせている女友達やファン一同に様々な感情が入り交じった不躾な眼差しを華麗な対比と共に向けられ、絵面的に寒々しい物を感じてしまった。
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