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 ◇◇◇  浄化屋組織全体を中心とし、国家警察に併設(へいせつ)された部署だけが取り締まれる魂に関する案件は、大まかに表せば真実を闇に(ほうむ)り去る作業と酷似(こくじ)した処理で収束される。  浄化屋とは生者と死者の狭間(はざま)に立つ世捨て人だ。それ即ち現世から抹消することが可能な人間となる。だからこそ、浄化屋が招いた事件は必ずしも『浄化屋案件』として処理されているのだ。  魂魄にのみ寄生する寄生虫の一種に漆蟲は数えられるが、それよりも遥かに性質が悪い寄生虫が存在している。  肉体を変質させ、魂をも破壊する『虚戯(きょぎ)』と呼ばれた怪物だ。  漆蟲は魂に寄生し、祓うことが可能だが、虚戯はそれが不可能な寄生虫だ。虚戯に寄生された人間は理性を失い、瘴気(しょうき)を振り撒く怪物に成り果てる。魂が育ちきっていない子供ならば、寄生された瞬間に肉体ごと飛散(ひさん)し、死に至る程の強大な毒性を宿しており、浄化屋の中では大掛かりな手間が掛かる危険な案件だった。  浄化屋に関連する組織の一つである総合魂魄医療センターには、枝分かれした子会社のような治療施設があり、その一つが別名『彼岸(ひがん)方舟(はこぶね)』と呼ばれた虚戯感染者だけが収容された隔離施設だ。  隔離病棟のように一面が白い壁に覆われ、病的なまでの白さを際立たせぬよう明かりは薄暗く設定され、陰影を作り出して通路を明確な形に変える。  仄暗(ほのぐら)さだけなら夜間(やかん)の病棟を彷彿とさせるが、木霊(こだま)するのは理性を失い、本能だけが取り残された感染者の獣じみた咆哮(ほうこう)や、破壊衝動による壁に打ち付ける鈍く重たい殴打(おうだ)の音。病院だと説明しなければ、野生動物が入っていると思われるだろう。騒がしい病棟を防護服で歩く職員は瘴気を掻き消す薬品を散布(さんぷ)し、治療とは呼べない感染者の監視だけをしている勤務態勢だ。  方舟には身内との面会が出来るシステムがある。部屋は大人三人くらいで窮屈になる広さで、パイプ椅子がアクリル製の強固な壁を隔てて向かい合わせに並び、対照的な扉が併設されていた。  予約は三週に一度、月に一回必ず面会をする。浄化屋になった中学生に上がる一足前から続けていた。  防護服を着た職員に連れられ、薄手の患者服を身に着けた一人の女性が入室した。女性を椅子に座らせ、職員は無言で面会室を出て行き、静寂が二人の間に降り掛かる。 「会いに来てくれて嬉しいわ。詩音」 「うん。俺もお母さんと会えて嬉しいよ」  黒く膨れた腫瘍(しゅよう)が顔にまで侵食し、腕は羽毛の形状をした硬質な物質に覆われている。誰もが振り返る綺麗な女性だったのに、虚戯に侵され、醜く歪んでいた。  目の前に居るのは詩音の母親である冴葉だ。今日は調子が良かったのか、顔色がとてもいい。 「ねえ、詩音。何かいいことでもあったの?」 「俺、まだ何も言ってないじゃん」 「ふふ。だって、顔に書いてあるんだもの」  (いつく)しみ深く優しい母の声が一月(ひとつき)ぶりに聴覚が過敏に拾いあげ、感情が昂ぶろうとしている。詩音は携帯電話を取り出し、先日撮ったばかりの写真を冴葉に見せた。 「と、友達! 友達が出来たよ!」  前のめりになりながら写真を見せると、冴葉は僅かに驚いたようだが、忽ち歓喜に顔を桃色に染めた。 「そう。女の子とばかり遊んでた詩音に男の子の友達が出来たのね。良かった。お母さん、本当に安心した」  家庭環境のせいで友達が出来なかった時代が詩音にとって長過ぎた。だからこそ、冴葉は心から喜んでいる。抱え切れない後悔を残して、一枚の壁に隔たれた空間に悲しみよりも大きな(いきどお)りを覚えていた。 「……目の前に居るのに、どうして触れられないの」  たった一枚の壁が邪魔をする。冴葉は壁越しに詩音の顔を撫でるように手を滑らせ、火口深く(くすぶ)っていたマグマが沸々と煮え滾るのを身内で感じ、悲哀と憤怒が入り混じった眼差しで怨讐(えんしゅう)を込めた。  涙ながらに愛憎(あいぞう)(みの)らせ、強固な独房に入れられた冴葉は増幅していく黒い感情に日々押し潰されている。 「……あの男のせいで」  体外から噴き出る瘴気が体内で増幅していた憎悪を押し出す。虚戯に侵され、精神は負の天秤に傾き、芽生えた憎悪に蝕まれていた。  身体を覆う腫瘍が生き物のように蠢いた。 「ぎがぁぁぁ!」 「お母さん!」  全身に走る激痛が電撃を浴びせたように痺れ、華奢な身体が椅子から転げ落ち、痛みに冴葉はのた打ち回る。発作的に起こる虚戯の侵食に、灼熱の迸りを全身に浴びせられたような激しい苦痛に冴葉は眼前で悶え苦しんでいた。 「嫌だ……私は、まだ……」  内側からの痛みを逃がそうと、冴葉は壁に頭を打ち付け始める。鈍い音が小さな部屋に木霊している。激しさを増していく頭突きに額は流血し、壁にはべったりと血液が擦り付けられていた。 「私はまだ……死にたくないぃぃぃ――!」 「お母さん! 駄目だよ、やめてよ!」  何度呼び掛けても冴葉は頭を打ち付け続けている。やめる兆しを見せない自傷行為に職員は気付き、屈強な体躯の防護服を身に纏った職員が半狂乱になっている冴葉の身体を取り押さえ、引き摺りながら去っていく。  名残り惜しげに伸ばされた冴葉の手が固い扉で遮られた。無情に固く閉じた扉を茫然と見詰めながら、詩音は脱力したようにパイプ椅子に座った。 「……なんで、こうなったんだろ」  感情が抜け落ちた温度のない声が記憶に残ることなく喉を通り抜けた。視界にある血液は母親が自ら流した涙のようだが、飛散する場所は詩音に届かない。  たった一枚の壁でしか区切られていない檻の中は、脆弱性をひた隠す邪魔な砦だ。詩音は飛び散った血飛沫を隔たり越しに撫でながら、独りでに呟いた。 「俺を庇わなかったら今よりも生きれたのに、どうして無駄なことをする必要があったのかな」  他人が聞けばただの戯言。詩音にとっては間違いのない正当性を肯定していた。  認知していない黒い霧状の靄が全身から溢れ出る。視界に映らない、反射すらされない穢れた瘴気を放出させながら、詩音は脳裏に焼き付いて離れない『あの日』のことを思い出していた。 「誰にも必要とされない子供を育てた所で全部が間違いだったんだよ。お母さん」  優しい母親の姿は憐れな獣に成り下がった。感謝はしている。救いたい気持ちはある。しかし、詩音にとって重要なのはそこにはなかった。  ――()()()があるんだ。  一度も口にはしなかった。二年の月日の中で仄めかすだけのヒントを出し、達することのない潤い知らずの渇きに、薬漬けされて酔ったように喘ぎながら、未だ見ぬ理想郷に渇望していた。 「……まだだよ。もう少しだけ待っててね。お母さん」  鞄の中から取り出したノートにメモを記しながら、経過観察のデータを纏める。天律技師の資格を取った理由は親代わりの翔馬すら知らない。侵食されるペースが年々狭まりつつある早さに、理想郷は目の前に来ていた。  穢れは人間を壊す。  否、それは否定すべき持論だ。  陰陽(いんよう)天秤(てんびん)は既に壊れているのだから――。  なけなしに残った感情が無意識に吐露される。 「一人はもう嫌だよ」  温かな雨が頬を濡らし、孤独を嘆いた浅く深い短な人生のレールに、消せない染みを色濃く残した。  ◇◇◇  無駄のない熟練された社の仕事捌きを、二件目の中学生の自宅で垣間見えながら、言われるがまま昴は指示されて護符を四方に貼りに向かっていた。  一件目のサラリーマンの男性は漆蟲を祓って貰うだけの仕事だったが、女子中学生の家庭は用心深いらしい。中年の夫婦だったのを思い出し、ようやく授かった娘の生命を案じた結果だろう。親の感情は今一度ピンと来ないが、不安に駆られて憔悴(しょうすい)しきっていた表情は偽りない愛情からなされた物なのかもしれない。  羅針盤(らしんばん)を頼りに正位置を確認しつつ、最後の護符を貼り、戻ろうと踵を返す。  夜目がきくせいか、暗がりの部屋を行き来しても平気だ。一人暮らしの家とは異なる充満した人気の香りに、居心地の悪さからむず痒さを感じていた。  居間に足を踏み入れた矢先に、社の怜悧(れいり)な眼差しとぶつかり、急いで彼女の斜め後ろに正座で座った。  社に習って三つ指を立てて頭を垂れ、昴は無言で彼女の話に聞き耳を立てる。 「此度は我が峰玉に依頼をしてくださり私ら共々感謝申し上げます。子女様を犯しておりました邪鬼(じゃき)は滅び、清らかな魂へと舞い戻りました。ご依頼にありました邪気祓いの護符は一枚でも位置をずらさぬよう用心してくださいませ」 「こちらこそ、なんと御礼を述べればよいかと。下手をすれば私共の愛娘は命を絶やしておりました。ありがとうございます、ありがとうございます」 「いえ。私共は成すべきことをしたまででございます。元来、穢れは外からではなく内側から育まれる物。これからの先々の命運など一人間でしかない私共には見通せぬ定めでございます故、何卒(なにとぞ)ご了承くださいますよう御心に留めてください」  釘を刺すように鋭い視線を両親に投げ、目の前に差し出された金の入った封筒を社は受け取り、鞄の中に仕舞う。 「漆蟲は年頃の子供に寄生しやすい生物です。精神的にも幼く、育ちきれていない環境の中で陰の側面へと惹かれやすい性質を持っており、成長への転換点は漆蟲に置いて付け入りやすい格好の餌場となります。以後、貴方方の身の振り方もお気を付けください」 「わ、私達が娘をああしたって言うんですか!?」 「失礼。言葉を(たが)えてしまいました。個人での生活よりも多人数の生活の方が波が起こりやすい物です。子女様は環境の中で孤独を感じていた。きっと貴方方には思い当たる節があるかと思いますが」  ヒステリーすらも一刀両断し、社は立ち上がる。つられて昴も立ち上がり、さっさと出ようとする社の背中を追い掛けた。  厳しい叱責に中学生の両親は放心しきっている。見ていられないくらい可哀想に思えたが、外に出るや否や、社は五個入りのアンパンの封を開けていた。 「あの、社さん。厳しくないですか?」 「何がだい。あれくらい言ってやらないとね、ああいうお堅い家族は同じことを繰り返すんだよ」 「……まあ、そんな気もしますけど」 「それに、私は詩音みたいに優しい接し方は出来ないし、氷室みたいに完璧にこなせない人間なんだ。不器用だってまた翔馬に馬鹿にされるよ」  アンパンを頬張りながら、愚痴をだらだら零し、社は眉間に皺を寄せていた。 「次は瑞希で最後か。童貞、アンパン食べる?」 「いりません。さっきから甘い物ばかりで胃がむかむかしますよ。コンビニ寄ってきてもいいですか?」 「なんだい。糖分は大事だろう?」 「甘いのは嫌いじゃないですけど、ただ単に太りたくないんですよ。絞るの大変ですし」 「ふぅん」  面白くなさげに社は相槌を打ち、無作法に昴の身体を触り出す。綺麗に隆起(りゅうき)した筋肉がついており、ずっしりとした硬さもある。よく鍛えられていると社は感嘆(かんたん)とし、わざとらしく右乳首を(つね)った。 「いっだい! ちょ、やめてくださいよ!」 「へぇ、いい身体してんね。がっしり、どっしり」  再びわざとらしくスラックス越しに股関を鷲掴みされた。 「思ってたのより立派なイチモツだねぇ」 「ぎゃー! やめてくださいよー! この人痴漢(ちかん)です、痴漢です!」  豊満な胸を押し付けられながら、目のやり場に困るわ、中身がおっさん臭いわで混乱してしまう。パフパフは現実的に死を意味する気がしてならなかった。  誰も道を通らないことが吉なのか凶なのか、判断がつかないまま精神的に昴は疲弊していた。

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