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 ◇◇◇  消えることのない手の感触が忘れるまでに幾つ時間を刻めばいいのか、気温の下降と共に暗夜の外套に身を委ねた外気に質問者として議題を投げ掛けたい。  某知恵袋になら正しい答えが来るだろうか。否、寧ろ利用している年齢層から(かんが)みて、某掲示版と同等の荒れ地に成り果てるのは間違いなかった。  紛れもない生々しい感触に、どこを抑えれば気が済むのだろうか。昴は寒々とした夜風に励まされているような、(けな)されているような感覚に、逆上(ぎゃくじょう)する気迫(きはく)すらなかった。 「なんだいなんだい。瑞希に遊ばれたかい?」 「……色んな意味で擦り切れましたよ。なんですか、あの人。特殊過ぎません? え、マドンナって呼ばれてるから外面(そとづら)限定?」 「はい、正解。瑞希は外面だけの見掛け倒し女さ。因みに趣味は日用大工。部屋は週一で模様替えしてるんだよ」 「なんだろ、この詐欺被害。おっぱい揉めても一気に気分下げられたんですけど」  乳よりも腋派だが、いざ触れば生々しい感触が抜け切れない。おっぱいの魅惑的なパワーワードに早々に手は喜んでいたのだ。 「これって強制猥褻罪に入りますよね」 「合意の上なら構いやしないよ」 「あー……。エロゲじゃないんだから勘弁してくれー……」  シミュレーションゲームは好まないが、選択肢を選べる表示は目の前に三つくらい並んでいてくれたら、危険なフラグを引かずに済むのかもしれない。指で四角を描きながら、昴は「選択肢があれば」とぶつぶつ呟いていた。  ……それにしても、冷えるな。  住宅街を抜けた道路は左右を塀で囲まれ、ぽつりぽつりと街灯が点々と明かりを灯している。人気(ひとけ)がなければ、動物の声もなく、幽霊屋敷にでも入り込んだような冷房がひゅるりと音もなく入り込み、辺り一面を冷蔵させていた。  社も違和感に気付いたのか、足取りが慎重さを保ち始めた。  だが、突如として空気ががらりと変わり始める。  猛々(たけだけ)しい獣の咆哮(ほうこう)だ。狼に似た太くも伸びやかな遠吠えが響き渡り、空気中に無数の痕跡を溶かしつつ、激しい震えを(もたら)した。 「――ッ!?」 「何さ、この数……!」  黒い異形の生命体――虚霊が(おびただ)しい数で暗闇の中から生み出されている。沼地から出るように影から手を伸ばし、円の中から抜け出すよう、身体を()じ込みながら出現した。上空にはブーメランのような羽をゴム板のように(ひるがえ)して旋回している。虚霊の数は地上で四体、空上で二体だ。 「――空間を隔絶(かくぜつ)する」  凛とした社の一声により、歪んでいた空気が引き締められ、空中に描かれた印を中心に一帯が強力な結界で覆われ、外界(げかい)から一端ずつ引き離される。  昴は一振りのナイフを顕現させ、襲いくる虚霊に、重く鋭い一太刀浴びせた。乾いた紙粘土を引き裂いたような感触が伝わる。人間の肉よりも硬い、空気を多少含んだような軽い切り口に、違和感から掌中(しょうちゅう)がぞわりとした。  だが、昴の身体は素人のそれを超えていた。  連携を知らない地上の虚霊を切り裂き、未だに動いている虚霊の顔面をナイフの硬い柄で粉砕し、容易く消滅させていく。一昨日の虚霊とのファーストコンタクトを思い出し、動作が一つずつ全て記憶している。  ……西園の方が素早い。  昴は地上の虚霊を片付けたのと同時に、左手にも同様のナイフを握り締め、塀を踏み台にして空上の虚霊を切り裂いていく。  潔くも大胆に虚霊を消滅させた昴は地上に降り、無言で遠くから見える鉄塔を視界に入れた。  ……あれは。 「紅い目……」  鉄塔に禍々しさに満ちた深紅の双眸がこちらを見ている。遠い筈なのに視線が絡み合った。あれは狙っていた。昴は導かれるように紅い瞳の生物を見詰めていた。  だが、その空気を壊しにかかった軽薄な拍手が近付いてきた。 「いやいや。流石(さすが)ですねぇ」  でっぷりと出た腹肉が白い神父服に見合わない(けが)らわしさを醸し出す、小太りの中年男性が暗闇から現れた。首に提げた十字架に既視感を覚えたが、不気味な笑みを貼り付ける男の粘着(ねばつ)きさが鼻をつく。 「貴方様からは常人と異なる複数の魂が宿っておいでなようで。いやぁ、これは驚いた。長年聖職者として数多(あまた)のお人の魂を見ていましたが、ここまでの物は初めてでございます」 「……アンタは誰だ?」 「これは失敬。申し遅れたね。私はフェルケル・マッティーニ。ご覧の通り神に仕える者だよ」  気味の悪い言葉使いを取り払い、大口で歯を見せて(うやうや)しく頭を垂れたフェルケルは、探るような目付きで昴を視線で舐め回した。  後ろで異変に気付いた社は、冷静に札を構える。 「そこのお嬢さん。余計な行動は頂けないよ。私らが飼っている飼い犬なら少しの時間、いや物の数秒で魂を喰らえるのさ」 「……っ。じゃあ、さっきのは魂喰い(ソウル・イーター)が……!」  聞き慣れない単語が真っ先に紅い目の生物と結びつく。昴は神父を名乗るフェルケルが危険だと察知し、距離を置こうと後退る。  だが、フェルケルの皮膚が(たる)んだ手に羽織を掴まれた。 「神の落とし子を存じているかな」 「離せ。そんな物、俺が知る訳ないだろ」 「神が不在であることは知っているだろう? さあ、神の落とし子の居所(いどころ)を教えなさい。知らないとは言わせないよ」  魚のようにぎょろりとした目を剝き出しにし、狂気を孕んだ声でフェルケルは迫り来る。昴は振り払おうと手を上げようとした直前、ここには居ない筈の人物の声が飛んできた。 「俺の昴に触んじゃねぇ! この、歩く中性脂肪が!」 「ぐぅ!?」  翔馬の強烈な蹴りを食らったフェルケルの身体は、いとも簡単に()ねられ、コンクリ固めの塀に背中を叩き付けられた。昴はようやく離れたフェルケルを一瞥してから、おかしな呼び名で逆上しながら叫んだ翔馬に白けた眼差しを向けた。  ……色々ツッコミたいんだけど。  謎のセンスにシリアスさが台無しにされたのは社も察したらしい。取り出していた札を無言で仕舞っていた。 「黒栖(くろす)、翔馬! 貴様、何故ここに!」 「見ての通り夜の散歩だ。そっちは夜中に徘徊(はいかい)か? はっ。歳取るのは嫌な話だな」  鼻で笑い飛ばしつつも明らかにフェルケルを小馬鹿にしている翔馬は、動揺を隠さない相手に追い打ちを掛けようと口を開く。 「人望がねぇみたいで悲しいジジイだな。護衛が居ないのも可哀想な話……」  言いかけた途端、唐突に大気が震え、フェルケルを除くその場に居た昴達の身体が得体の知れない()()に押さえつけられた。動きが封じられ、姿の見えない存在に下肢を締め上げるように固定され、背中から鉛のように重たいプロテクターを乗せられたような、息継ぎがままならない息苦しさに見舞われた。 「――お迎えに参りました。フェルケル様」 「クリストファー!」  歓喜に声を上げたフェルケルが口にした名前に、昴は聞き覚えがあった。  黒い神父服に身を包み、首には十字架が提げられた、天使のように美しい光を纏う青年――クリストファーが微笑を携えて現れた。  彼が昴達の動きを封じた張本人なのは考えなくとも分かる。鼻腔を擽る甘い香料のような匂いは公園で嗅いだのと同一の物だ。 「また、お会いしましたね」 「……クリストファーさん」  敵なのか味方なのか判断がつかない人間だ。敵意は微塵(みじん)も感じられない。それが不可解で、解消しようにもしきれない消化不良に至る。  翔馬はクリストファーを見て言葉を失っていた。 「お前、その魂……」 「ああ。やはり視えますか」 「いつ消滅してもおかしくない喰われ方じゃねぇか。お前は自分の魂が何なのか、分かってて餌になってんのか!?」  驚愕に見え隠れする憤怒に、クリストファーは柔和な笑顔を崩さない。この場にはそぐわない自然な微笑みに不自然さが浮き彫りになっている。  フェルケルの手を取るクリストファーは、洗練された動作で会釈をし、無言で去っていった。  クリストファーが去ったのと同時に、憑き物が取れたように身体が一気に軽くなり、冷え冷えとしていた空気も暖かさを取り戻しつつあった。  ……あの人からは敵意が感じない。  恐ろしい程に敵意も殺意もない、それでいて感情が読み取れない純白さに、何故だか内側から感じたこともない畏怖の念が湯水のように湧き出てくる。  昴は平静を保とうと翔馬に話を振った。 「あの、さ。翔さんはどうしてここに?」 「お前の初仕事はこの翔さんがしかと見届けたぞ」 「どこから」 「……最初から?」 「ただのストーカーじゃねぇか」  手鞠を紫に預けて私欲丸出しの翔馬に呆れて何も言えない。取り敢えず尻にキックボクシングの要領で何度も蹴りながら、溜まったストレスを発散していた。  ……ん?  空から声が聞こえてきた。どんどん近付いている声は、どこぞのアメコミヒーローみたいに名前を叫びながら昴に向かって飛んできた。 「ぐえ」 「宮盾くーん! 無事だった!? 怪我してない!? 虚霊の大群蹴散らしてたら社さんの結界を見かけてさ、俺、ずっとずーっと心配で心配で!」  首にダイレクトアタックを噛ましてきた詩音のマシンガントークに、心身共に瑞希とは異なるダメージを食らった。締め付けからの揺さぶりに変わり、昴は気絶寸前に陥っていた。  ……誰も助けないんだ。  悠々に煙草を蒸す翔馬と、我関せずを貫く社は携帯電話で手芸店のサイトを開いていた。 「うわわ、宮盾君の顔真っ青!」 「……もう、無理」 「わぁぁぁ! 救急車〜!」  犯人は詩音だと気付くまでの時間は煙草が短くなるまでのほんの僅かだった。

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