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 ◇◇◇  小高い丘に荘厳(そうごん)なる佇まいの聖堂が、街を見下ろすように清廉(せいれん)な空気を放ちながら神聖さを醸し出している。異教徒の(たみ)が集まる聖堂の存在は僅かな人間から蜘蛛の糸を張り巡らせながら生活の中で浸透し、教えを()い、救いを求める信者が着々と増えつつあった。  月明かりが隙間から入り込み、明かりのない聖堂は暗闇が退(しりぞ)き、淡い白磁の輝きを取り込んで照らしている。ステンドグラスに描かれた赤子を抱く聖母は慈愛に満ちた表情をしていた。聖母のモデルとなった存在が何だったか、答えを知るものは居もしない神に(すな)る人間だけが知っている。  怒りで醜い顔を一層深く歪めたフェルケルは、唾を飛ばしながら聖堂の中で叫んだ。 「フラン! 何故お前は私を置いて逃げた! 下手をすれば私は黒栖翔馬に殺されていたのだぞ!」  広々とした聖堂の中でフェルケルの声が反響して辺りに木霊した。  一本の柱からフランソワが現れる。冷めた眼差しを注がれ、逆上(のぼ)せあがっていたフェルケルの怒りを更に買った。 「何故お前は逃げた。私が居なければ、お前は餓死(がし)して死んでいた。救世主たる私への恩義を忘れたと言うのか!?」 「あー、はいはい。すみませんね、逃げて。でも、クリスが居たからいいでしょう。俺よりも能力的にどんな仕事でも向いていますから」  慇懃無礼(いんぎんぶれい)ながらも正論をぶつけられ、フェルケルは言い負かされたのが気に食わない様子だ。  怒りを抑えきれていないフェルケルを嘲笑する声が天井から降り注ぎ、無邪気にリャンファはクリストファーの背中へコアラのように抱き着いてきた。 「あっは。オッサン惨めだー。クリス君もお疲れ様サマー」 「ワタシは疲れていませんよ」  猫さながらににんまりと笑うリャンファは、フランソワの視線から送られる指示にあからさまに不機嫌面に変わり、溜め息を吐き出してクリストファーから降りた。  手を振りながらリャンファはフランソワと共に聖堂の奥へと去っていき、取り残されたクリストファーはフェルケルの元へ歩み寄った。 「フェルケル様の怒りを鎮めることが出来るならば、ワタシに何なりとお申し付けください」 「クリストファー。いいんだ、もう私は怒ってはいないよ。それよりも、君に褒美をあげないといけないね」  腰を抱かれ、身体を舐めるように(いや)らしく撫でながら、フェルケルは恍惚(こうこつ)さに腫れぼったい顔を酔いから赤く染め上げる。  息遣いの荒さを感じながら、美しい微笑を崩さないクリストファーは向けられる汚い欲望の種を、精神に染み付いた苗床(なえどこ)に受け入れた。  ◇◇◇  全自動のミシンから布地を縫う為の上下運動を繰り返す針が、何度も同じテンポで穿(うが)つ。激しい連弾による工事現場さながらの音が室内を満たす度に、寝そべりながら官能小説を読んでいた紅の短い導火線に火が付けられた。 「あー! うるっさいわ!」 「仕方がないでしょう。マリアンナの新しい洋服を作っている最中なんですから」 「し! る! か!」  今朝だけでなく昼間も居たのだ。チェスカは我が物顔で夜も居座り、クリストファーのミシンを借りて、彼の友達である人形の服を縫っている。丁寧に型紙まで作っていたのが腹立たしい。  先程までクリストファーの使っているベッドで彼の匂いを満喫していた姿はどこ吹く風、涼しい顔で手芸も得意な女の顔がどれだけ見ても腹が立った。  とはいえ、クリストファーが使用しているタオルケットに包まっている紅も同じならばぐうの音も出ない。甘い魂魄の残り香に混ざって清潔な香りに興奮していた。 「なあ、ビッチ」 「チェスカです」 「……チェスカ」  歯切れ悪そうに彼女の名前を口にし、紅は悶々としながらも繋げた。 「クリちゃんはいつ帰ってくるん?」 「さあ、報告等もありますから」 「幼女でも誘拐してるんかな」 「幼女ならもう眠っている時間ですよ」  小さい女の子が好きなクリストファーの趣味を既に悟っているチェスカに好感が持てた。それは彼女もらしく、通ずる物を静寂の間で互いに感じていた。 「なんや、分かるクチやな」 「そちらこそ。クリス君がリャンちゃんに甘いのがそれを物語っていますよね」 「鑑賞派っちゅうのが更に変態味出とるよな。一緒に暮らしとった小娘もクリちゃんの好みに毒されとんのもな」 「あの容姿のせいで一度も職質されたことがないんですよ。寧ろお巡りさんがクリス君の(とりこ)ですからね」 「あれは天然タラシの域超えた確信犯やからな」  本人には言えない鬱憤(うっぷん)紛れの不満点を二人してたらたら零している。  高揚して盛り上がっているのを破壊する一通のメールがチェスカの携帯電話に送られてきた。  メールを見て顔を僅かに顰めたチェスカは、返信を予測変換の中から直ぐ様打ち込み、送信した。 「クリス君は帰るのが遅くなるみたいですね」 「なんでや?」 「別件が入ったらしいです。明日の朝には戻るそうですよ」  気分が下がる事後報告に紅は、(くる)まっていたタオルケットに顔を埋めた。養子とはいえ組織を束ねる男の息子だ。クリストファーの扱い方は他の人間とは一線を(かく)しており、立場もかなり違う。それ故に紅の機嫌は最悪だった。 「風呂」  不機嫌さたっぷりの拗ね方にチェスカは嘲笑と共に「子供」と小馬鹿にした。仲が深くなった錯覚は脆い幻想だ。紅はタオルケットをチェスカに投げ付け、前が見えないと慌ててる彼女が滑稽だとやり返した。  立ち上がり、寝間着代わりに着ているジャージを取りに寝室へ向かおうと足を進めた際に、ベランダから見える夜空に意識が向いた。  虚霊を集める仕事を終えた時にかち合った視線を思い出す。今朝出会った異質な魂を宿す少年だ。(たが)えることなく遠方に居た紅を直視していた。  食欲を唆る興奮材料を思い出して、腹が寂しい鳴き声を上げた。際限なく溢れ出る空腹感を無理矢理抑え込み、紅は一人腹を擦った。  ◇◇◇  翔馬の家で迎える二回目の夜はやはり落ち着かない。肝心の家主は別件で遅くなるらしく、簡単な軽食を月銀のまあまあな料理で胃袋を補い、学校で出された数学のプリントを終わらせた後に風呂上がりの手鞠の髪の毛を乾かした。  手鞠の世話が終われば風呂という快適な湯船の中で満足度を満たし、一連の過程を終わらせた先にあるのは空虚感とは表し難い感傷だけだった。  縁側に胡座をかいて座り、夜風の心地良さを肌身で感じる。昨夜は疲れて眠れたからか、隣に人間が居ても熟睡出来ていた。  しかし、今夜はどうだろうか、と昴は一抹(いちまつ)の不安を覚えていた。  三人で眠る寝室が開かれる。手鞠だ。昴の携帯電話を片手に顔を覗かせてきた。 「スバル、電話」 「あ、本当だ。ありがとう、手鞠ちゃん」 「ん」  初期設定のままの着信音が鳴り響いており、昴は手鞠に感謝の印として頭を撫でる。嬉しそうに無表情ながら頬を高潮させ、恥ずかしさから部屋に帰ってしまった。  電話の相手に昴は首を傾げ、通話のアイコンをタップした。 「ああ、松村。どうした、こんな夜遅くに」 『はは……。本当なら九時頃に掛ける予定だったんだけどな……』 「オバさんか? 篤ちゃんか?」 『両方だ、言わせんな馬鹿』  疲れ果てた声にご愁傷様としか言えない。ストレス過多で倒れそうだと思いながらも、松村家を支える母という名の長男の気苦労は絶えない。構いたがりな性格が(あだ)となって草臥(くたび)れたのだと見なくとも想像がついた。  親友の声を聞いて安心している自分が居た。広過ぎる家屋に不慣れな人間との共同生活で気を張ることしか出来なかった昴は、緊張して強張る身体が初めて緩んだ瞬間に、不思議とホームシックならぬフレンドシックになっていたようだ。 『そういや、ここ暫く道場に顔出してないよな』 「あー……。まあ、バイトのシフトで埋まってたからな。これからは行けそうだから、西園も連れて行くかな」 『んじゃ、男らしく一本勝負でも行きますか』 「いや、それはお前の一人勝ちしか想像つかないわ」  他愛もない会話の筈が、通話越しでも些細な変化に敏感に反応されている気がした。癒やしとは言い難いが、弱みを見せやすいともいうのかもしれない。 『なあ、宮盾。なんかあったか』 「んー……。今さ、新しい仕事先の上司の家に居候してるっていうか、同居しててさ。昨日突然アパート解約されてた挙げ句に店長もグルになって強制連行」 『あー、それで納得した。落ち着かないんだろ? 無理に線引してるから逆に疲れがち。お前らしい悪癖(あくへき)だよ』 「お前に言われたくないって言いたいけど言い返せません……」 『まあ、別にとやかく言わねぇけどさ、家主に気心見せられるまで頑張れよ。無理だったら間中(まなか)さんに食われろ』 「ちょ、おま……あの人がガチなの知ってるだろ? 下手したら既成事実(きせいじじつ)込みで勝手に籍入れられるわ!」 『金持ちの貰い手が居て良かったな。ご祝儀くらい用意するわ』  ふざけながらも少しずつ固まっていた物が解かれ、話が盛り上がりつつある。それが何故か翔馬達に申し訳なく思いながらも、傾き始めた天秤に身を委ねるしかないと観念した。 「……なんか、ありがとな」 『なんだよ、いきなり。気持ち悪ぃな』 「おい、こっちが折角感謝してるのにそれはないだろ」 『ははっ。冗談だよ』  縮まった距離の分だけ人間は他人同士でも共存が可能だ。長いようで短かった、濃い一年を違った場所で再び過ごす。その瞬間が今の状況を築き上げたのかもしれない。昴は肩の荷が降りてきたと改めて秀吉に口には出さずに二度目の感謝を述べた。 『なあ、宮盾。合成獣(キメラ)って知ってるよな』 「まあ、知ってるけど。なんだよ、急に……ゲームか?」 『いんや。現実問題、合成獣(キメラ)が存在してるって噂だよ。不審者の目撃情報知ってるだろ? 毎度毎度ホームルームで言われる奴』 「あー……あれか? 細身で二十代前後くらいの……って、あれって万引き常習犯の話じゃないのか?」 『じゃあ、なんで捕まらないのかおかしくね? 追い掛けた店員は無傷なのに意識不明の重体、警察は(さじ)を投げた。変な話だろ?』  話の意図が全く見えない話題に、昴は疑問点ばかりを抱えた。唐突な話題の変え方は珍しくはない。  しかし、あまりにも抽象的だ。 『じゃあ、合成獣(キメラ)の話に戻るか。不審者の情報は一つだけじゃない。最初に不審者の連絡が始まった理由は部活帰りの学生が()()の重体だった。意識を取り戻した学生は警察に話したのは「歌をうたう合成獣(キメラ)に襲われた」その一言で捜査はされなくなった』  探偵でもないのに難度の高い推理ゲームを出題される。警察の怠慢(たいまん)から来る物ではないと断言しているのか、正体不明の幻獣の話題を強調している。整理しようにも推察すべき項目が見付からない。昴は厳しい内容だとリタイア寸前だ。 『合成獣(キメラ)は決まって同じ場所に出没する。その万引き犯がどこで盗みをしてたか覚えてるか?』 「……確か、隣り町近くのホームセンターとコンビニ……じゃなかったか?」 『その近辺にある開けた場所が合成獣(キメラ)住処(すみか)だ。今夜も現れるだろうな。よく晴れた天気にゃ夜空に星もよく見える』  魂胆(こんたん)が読めない内容を聞きながら、昴は促される形で夜空を見上げた。散りばめられた星屑(ほしくず)が視界に入る。確かに今日は晴天だった。雲もそこまで多くない、気持ちのいい快晴だったのを思い出し、昴は不可解な言動を始めた秀吉に真意を聞こうと口を開きかけた矢先だ。 『なあ、宮盾。親愛なる親友からの忠告だ。厄介事に巻き込まれても、絶対に死ぬなよ。もしも戻れなくなったら、俺達が引き戻してやるから』  聞いたこともないような厳しくも優しい声に、昴は言葉を失った。昼間の良太郎の台詞を思い出し、何故だか無性に――モヤモヤした。 「松村、お前……」 『ははっ。細かいことは気にすんな。詳しい話は如月ん家でしてやるから』 「……お前のことだからはぐらかすだろ?」 『まあ、いいじゃねぇか。んじゃ、早起きしなきゃなんねぇから切るぞー』 「……はいはい」  呆気なく通話は切られ、昴は通話時間が表示されている画面を呆れた顔で見下ろした。  化け狐みたいな性分は出会った当初から質が悪いのは変わらない。あの男は生粋(きっすい)の性悪だ。爽やかな外面に騙される人間は(たぶら)かされている輩ばかりで笑えない。  ……隠す理由、か。 「例えるなら蛸だなー……」 「タコさん……?」  ひっそりと障子から顔を覗かせる手鞠のふわふわとした声に、気を緩みきっていた昴はびくりと肩を跳ねさせた。うずうずと昴を待ちわびている手鞠の純真無垢な眼差しに、やはり落ち着かない。  だが、手鞠は純粋に昴を待っていた。 「スバルと寝る」 「うん。じゃあ、一緒に寝よっか」 「朝も一緒に起きる」 「……うーん。でも、俺って早起きだし」 「スバルに起こして貰う。ツキシロ邪魔だから」  邪気のない毒舌に、怨霊(おんりょう)さながらの嗚咽(おえつ)混じりに恨みがましく昴を睨む月銀の視線を痛いくらい感じた。とてつもない寒気に身震いをし、爛々と輝く手鞠の蒼玉の眼差しを向けられながら、少しの間だけ昴は悩んでしまった。 「悩む必要ねぇだろ。いいじゃねぇか、うちの子が望んでんだから」  風呂上がりの翔馬は上機嫌に些細でしかない昴の悩みをばっさりと切り捨てる。いつ頃帰ってきていたのか電話に夢中で気付かなかったが、帰宅して直ぐにシャワーでも浴びたのかもしれない。昴は降参したと苦笑し、携帯電話を片手に立ち上がった。 「電話、誰からだ?」 「親友からだよ」  手鞠を右腕に抱き抱えながら、何気ない質問に流れに沿って答える。昴の交友関係くらいなら詩音から聞いているだろう。どれだか神妙な面持ちでぶつぶつと考えている翔馬の姿に、あまりにも馬鹿らしいと口にせずとも切り捨てられた。

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