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第四章:歌うたいの合成獣【前編】

 五月中旬といえど(いん)の月が微弱な輝きを放つだけで、暖かさは微塵(みじん)も感じさせぬ程真夜中の外は冷えている。冬よりも暖かいが、アルバイトで疲弊(ひへい)した身体は敏感に冷気を肌身で感じた。  高校生になって日も浅い少年は、自身が家族と暮らすアパートへと、急ぎ足で真新しいLED照明が照らす街道を歩いている。  よく晴れた夜空には、邪魔をする雲が開けて、天然なプラネタリウムを作り上げている。視力が低下している少年にとって、星々は塵芥(ちりあくた)のような細かい粒子(りゅうし)にしか見えない。  ロマンとは無縁だと足をただ前へと動かしている矢先だ。若く張りのある青年の声で、緩やかに歌い上げる歌声が聞こえてきた。  少年の足は止まる。街に流れる(うわさ)を思い出し、少年は自分が通る道がどこなのか、(せわ)しなく活発化した鼓動(こどう)の中で、悩むことなく気付いた。  歌声が頭の中で響き、脳の奥から神経の一つ一つが麻痺(まひ)していく。全身の穴という穴から、動揺に混ざる恐怖心で汗が噴き出て、物の数分、(いや)、それよりも掛かりはしない間に、土砂降りの雨に晒されたようにびっしょりと濡れそぼっていた。  (まばゆ)い街灯がステージを照らすスポットライトみたいに危険な花道を作り出す。めでたくもない絶望へのカウントダウンが差し迫っていた。  人間とは異なる気配が近付いている。少年の足は地面に縫い付けられたように身動きが取れなくなり、金縛りと似通った硬直で立ち去ることすら出来ない。  聞き覚えのある歌がまるで呪術(じゅじゅつ)を彷彿とさせる。歌声が止んでいることに気付かない、反芻(はんすう)された音色に、肉体は次第に脳への信号を遮断させ、酸欠状態に成り果てていた。  距離が近付いてくる。無理にでも首を動かし、少年はこの世とは思えない生物を()の当たりにした。  時刻は(すばる)虚霊(きょれい)の群れと接触した時間。藤咲(ふじさき)市内の私立高校に通う少年が意識不明の重体で歩道沿いに()()で倒れていた。  一足先にこの事件を報じたのは、たった一人の管理人による浄化屋案件を世に放つ裏サイトだけだった――。  一匹の野良猫は鳴いた。見ず知らずの怪物の餌食(えじき)となった、可哀想な少年を憐れみながら。  ◇◇◇  有名なコスメブランドによる新色カラーの特集を、毎月購入しているファッション雑誌から知識として植え付けながら、(しおり)はベッドの上でつまらなそうに寝転び、目的のコーナーまで流れ作業のように指で捲る。  五つ年上の兄――(ひろむ)の一件から、栞の家庭環境は呆気なく崩壊した。父親は虚戯(きょぎ)に寄生され、凶暴化した弘に重症を負わされた挙げ句、母親は家から滅多に出ることなく塞ぎ込んで、日々精神科に通い詰めている。  資金()りは有り余る程の金を舎棺の役員に送られ、一人で生活するには余裕があった。  だが、豪華な生活は出来ない。栞は孤独と等しい家に居場所はないと決め付け、つまらなさに悔しさが募る。  目的のコーナーに辿り着き、先程まで死んだような目つきをしていた栞に光が宿る。 「はぁぁぁ。今月のZen(ゼン)ちゃんも美し可愛いぃ……」  二年前の冬に雑誌を購入してから栞は、謎めいた魅力のあるミステリアスなZenのファンになった。女性にも男性にもなれる中性的な魅力の中にあるのは、水面(みなも)に引き寄せられては吸い込まれる感覚とよく似た、美しい花見たさの引力だ。  メイク一つで変わる変貌(へんぼう)の遂げ方はまさしく幼虫から(さなぎ)へ、蝶へと変わる姿を体現している。栞はブランドのキャッチコピーにもある一文に、変わる切欠をくれたと、Zenに勇気を貰えたと勝手ながら胸の内に秘めていた。  ……でも。 「あのチビがZenな訳ないでしょ」  朝の爆弾投下による動揺は我ながら恥じるべき(おこな)いだ。良太郎(りょうたろう)が家族の話題で嘘をついていないのは立証済み。兄姉のSNSでは完璧に良太郎と思しい髪型のイラストで溢れているからだ。  ……ただ。 「……眼鏡がない絵はZenに似てる気がする。いや、パーツがそっくり……」  ぷっくりと膨らんだZenの唇の形を見ながら、栞は無意識に瓶底眼鏡の良太郎の顔下半分を想像した。  顎の形に鼻筋も全て申し分なく整っていた気がする。何故だろう、と栞は沸々湧き上がる感情に悶々としていた。  好みのタイプが自分より小柄な男性だからかもしれない。栞はまたもや勝手に自己完結をし、ページを(めく)る指を進めた。  雑誌に夢中になっている時、枕の隣に置いていた携帯電話が鳴り響いた。千絵(ちえ)芽衣(めい)のどちらかもしれない。時間も十時を過ぎつつあるから、夜行性の千絵の可能性が一番高い。  (わずら)わしく思いながらも栞は携帯電話を手に取った瞬間、表示されることがなくなった『お兄ちゃん』の文字に、一際大きく鼓動が跳ねた。  通話のアイコンに伸びる人差し指が震える。躊躇(ちゅうちょ)しているのが丸わかりだ。栞は待ち焦がれていた相手からの電話に、勇気が中々出せなかった。  長い呼び出し音にようやく応えることが出来た。通話時間が栞の意思とは関係なしに一秒ずつ数字を刻み始める。緊張で強張る手に感覚一つ一つが鈍くなり、携帯電話を耳に宛てがうまでが長時間もかかった気がした。 『栞』 「おにぃ、ちゃん……?」  人の良さが滲み出た優しい声が三年ぶりに栞の名前を呼んだ。鼓膜を打つのは安心を(もたら)す慕い続けた兄の声が、電話越しながらもそこに居ると思えば、胸に込み上げてくる物があった。目頭(めがしら)が熱くなり、耐え忍ぶよう顔を(しか)めた。 「お兄ちゃん。なんで? なんで私の携帯に?」 『栞の声が聞きたかったんだ。母さんよりも、真っ先に栞の顔が浮かんだんだよ』 「今更、遅すぎるのよ……っ」 『……ごめんな。兄ちゃん、ちょっとビビってたみたいだ』  不甲斐なさを漂わす(ひろむ)の頼りない謝罪に、沸々と怒りが湧き上がる。感情的になれば幼稚(ようち)なままだ。栞は極力抑え込もうと口を開く。 「今まで、どうやって生活してたの」 『あまり喜べないような生活、かな』 「……私が信じないって言う奴?」 『うん。そうなるかな』  普通に話せてることに安堵しながらも、話したい話題が見付からないことに直面する。ただでさえ兄から連絡が来たのだ。それに気を取られてしまった。  栞が黙ってしまったのを弘は笑って納得した。 『栞。兄ちゃんはもう()たないんだ。だから、最後に栞の顔を見たい』 「っ! どこで、どこならお兄ちゃんに会えるの!?」 『星がよく見える思い出の場所だよ。母さんには内緒で、浄化屋の子と一緒に俺に会いに来てくれ』  たったそれだけを告げて、一方的に弘から通話は切られた。通話時間はほんの数分なのに栞にとってはあまりにも長過ぎた。  携帯電話をベッドに置き、栞は棚に飾っているオルゴールへ真っ先に導かれていく。中学生に上がって間もない日に、祝いとばかりに弘から贈られた可愛らしく丸みを帯びたオルゴールは、(ぜんまい)を回すと音色と共に子猫が走る仕組みだ。  久しく動かしていないオルゴールを手に取り、薇を回した。箱が開いて子猫が飛び出し、きゅるきゅると歯車が擦れる微かな金音(かなおと)を鳴らしながら、上下に弾ませて旋回(せんかい)を始める。  奏でられる音色は『星に願いを』だ。小さな頃はよく弘と二人で歌った歌に、耐えきれずに涙が溢れ落ち、栞はオルゴールから奏でられる懐かしさに、音色が止まるまで片時もその場から離れなかった。

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