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水槽で優雅に泳ぐ金魚は餌が投下されたことにより口を開閉させながら、我先と入れ食い状態になっている。気が付けば酸素を送る機械よりも金魚が暴れる音の方が騒がしい。翔馬は詩音との通話を切ったのが、こうにも恋しさを増すのかと虚しくなった。
峰玉の事務所よりも建て付けが良ければ、清掃が行き届いた清潔な来客スペースに、差を見せ付けられているようで翔馬の感情は終始穏やかではない。
タイミングが良かったのか、さぞ不明だが、翔馬は目の前に座る奇抜 な洋装の男を恨みがましく睨んだ。
「桂樹 はまだ来ないか」
「……時定。お前な、余計な情報をどこぞのキチガイに横流ししてないだろうな」
整えられた髭 をダンディに蓄 えた、翔馬よりも一回り以上離れた中年男性――雉井 時定は余裕綽々 とした態度を崩さずに、湯呑に茶を注ぎ淹れる。
二十年くらい前に舎棺から手を切った時定はフリーランスの浄化屋として事務所を構え、調停者であったことから人材育成にも余念がない。菊之丞 の右腕だったこともあり、実力は翔馬以上の怪物だ。苦手意識が勝ってしまい、眉間の皺が一層深く刻まれてしまった。
「詩音君は、なんて」
「……栞の兄貴を討伐する。その案件を片付けてもいいか、だと」
時定は意味深に「へぇ」と緩慢 な態度で相槌をし、口元をゆるりと上げた。癪 に障るリアクションに翔馬は不愉快さを隠しもしない。楽しんでいそうな反応は昔からの悪癖だ。だからといって、翔馬にとってそれがメリットを必ずしも齎すとは限らない。
「何がおかしいんだよ」
「別に詩音君のことでじゃないよ。翔馬の手元に来た新しい駒 のことだよ」
昴を駒扱いしている言動 にも不快さしか感じない。駒なのに変わりはなくとも、どうしてか少しずつ考え方が変わりつつある。それを時定は察しており、紳士然とした風貌に見合った笑みを刻んでいた。
「興味が出てきたかい」
「…………」
「あの子が暴走したら、翔馬はどうする? これまでの観察では、タガが外れたら秀吉君が気絶させて止めに入ってるんだ。繊細な技術と何ら変わらないよ」
「……反転 の性質を昴が持ってることを、お前はいつから知ってた」
自我を持つ魂魄の乖離した人格を目の当たりにした夜から、未だに残る禍々しさに満ちた瘴気のにおいを思い出す。
……昴はあ れ を知らない。
時定は茶を啜りながら、さも自然と質問返しをする。
「翔馬から見て彼はどんな中身をしていた?」
「……ただの穢れとは違う気がした」
「へぇ。それはどんな風に」
「善 く言えば純粋。悪く言えば強 か……だな。干渉した時に拒絶されたが、警戒心の欠片 もなくすんなり出てきたのは驚いたがな」
これまで触れたこともない生きた穢れが、暗い闇の中から唾液を滴 らせた口を開き、研 ぎ澄まれた牙を向ける。茂 みに潜むのではない。近寄ってくるのを待つように溶け込み、導く線を描きながら誘うのだ。
隠し切れない獰猛性が今でも身体の芯を恐怖心で震わす。感じたことのない未知に興奮すらも沸かせる快楽が直ぐ側にあることに、翔馬は好奇心だけを膨らませていた。
だが、時定はある見解を述べる。
「あの子の魂魄は最初から拡張されていた物かもしれない。という見方を私はするね」
不確定事項を述べつつ、時定は携帯電話で虎太郎 にメールを送った。養子といえど子供であることに間違いはないが、その虎太郎が勝手なことをしていないか、少なからず翔馬は気掛かりだった。
「トラに今晩のことを手伝って貰おうと思ってね。翔馬よりかは使えるだろう。何せ、頭だけはいい賢い息子だからね」
「はあ? 手を貸してくれるんじゃねぇのか?」
「いや、そんなメリットのないことにわざわざうちの子達を貸せる訳ないでしょ」
ないないと手を振る時定の態度に、米神 に青筋が浮き出た。相変わらず苛つかせるのが得意だと翔馬は舌打ちをし、ぐっと湯呑に淹れられた茶を飲み干した。
……苦え。
舌に残る不味さに顔を顰め、茶菓子として出された寒天を口直しに放り込んだ。
「なあ、時定。昨日の聖職者がどこの誰かは知ってるか」
「天宮 源一郎 が裏で束ねてる反神 主義の宗教団体『天命 の劔 』に所属してる司教の一人だ。野蛮人で小汚いデブはね」
「財閥の人間かよ……。色々と面倒だな」
浄化屋を支援するのは国内の財閥関係者が大半だ。天宮家も加担していた記憶がある。現在は独り身だと聞いていたが、どうにもクリストファーという青年の存在が胸騒ぎを起こさせていた。
「クリストファーっていうのは」
「天宮クリストファー。源一郎の養子で実質的に息子の立場さ。あの外見からか信奉者 が多くて、組織内でも信仰 されているんだよ」
模範的解答に翔馬は怪訝 そうに眉根を寄せた。
「それだけか?」
たった一言の催促を投げ捨てれば、時定は食えない笑みで返してくる。癪 に障ることしかしない男に嫌気だけが差すが、時定ははぐらかす訳でもなく答えた。
「魂喰い が夢中になる魂を持っている子だね。翔馬もよく知っている悪食 だよ。五年前に透湖 と匡章 の魂を心臓ごと食らった男。翔馬が深手負わせた異質な魂喰い だよ」
「……!」
のらりくらりとした言動が目立つ関西弁の男の姿が鮮明に覚えている。調律師の魂魄を喰らった後に戦術師の魂魄を一瞬で食らった、血の臭気 を纏う赤目の死神。心臓を果実のように頬張りながら、味わう禍々しさが、月夜を一層狂気的に変えた。
――次はお前の番や。
翔馬を『翡翠』と、嫌味を含めて呼んだ男がこの街に居る。翔馬は身の危険よりも先に、手鞠の心配をした。
「クリストファーの魂を喰らって今じゃ身体はぴんぴん。力を蓄えるのにも最適なんだよ、彼の魂は」
「……あまり、好ましくねぇな」
「一先 ず、話はここまでにしようか。桂樹がそろそろ来るらしいし」
また不味い茶を淹れ出した時定に呆れながら、殆どが出払っている鳴鴉 の浄化屋がなんだか物寂しい気がしていた。
「うお〜! うちの末っ子コンビが迷い猫保護出来たって! 偉くない? 可愛くない? 天才じゃない!?」
「おい。どっから見ても破壊し尽くしてるじゃねぇか」
送られてきた写真にはお世辞にも褒められた物ではないクレーター量産少女と自称化け狐の少年が、揃いも揃って満面の笑みを浮かべながら、怯えきっている兄弟猫を抱く姿が写っている。
問題児を育てている時定は親馬鹿並に褒めているが、翔馬からすれば行いの良さは全く分からなかった。
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