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 ◇◇◇  息吹(いぶき)のなかった外界から、少しずつ風が涼んだ気を取り込みながら、辺りを包むように吹き始める。心地良さが増した清涼感に、学校といえど、睡魔(すいま)刻々(こくこく)と魔の手を伸ばしていた。  自動販売機で購入した紙パックのカフェオレを啜りながら、人気のない裏庭で放心し、邪念(じゃねん)(ぬぐ)おうと、静けさだけを求めている。  秀吉の考えは難解で、そのせいで頭がパンク寸前だった。出会った時からそうだと分かりきっていたが、一人になりたい時はいくらでもあると今の現状を割り切る。  昴は不意に栞の話を思い出した。音沙汰がなかった兄からの突然の連絡。もしもこれが最期なら、嬉しかったのかもしれない。彼女はそう給水塔の側でポツリと零した。  携帯電話を取り出した昴は、迷うことなく真冬のメールアドレスを選択した。月並でしかない文言を入力して、ふと送信のアイコンが躊躇を覚えさせた。  ……俺は真冬から逃げた。  言い訳を並べて、結果的に昴は自身の弱さに甘えたのだ。今更真冬に勝手な連絡は出来ない。彼女からすれば、今の昴の生活は幸福にしか映らないからだ。  結局、送信するのを躊躇った昴は未送信フォルダにメールを保存した。 「……駄目だな。こんなんじゃ真冬を助けるどころか、雑念ばかりに気を取られてばかりだ」  閉鎖的な涼宮境市(すずみざかいし)から出て、一年と数ヶ月。昴にとって新しい発見や出会いは沢山あった。真冬に依存しきっていたことを今更悔いたところで、昴はどうしようもなさに焦りを痛感した。  ……でも、駄目なんだ。  記憶に刻まれたフィルムを消そうと擦りながら(かす)ませようと躍起になる。思い出さないように封じていた断片(だんぺん)が、まざまざと見せ付けてくるからだ。  鮮明に、病室の匂いから機械の電子音、彼女の低下した体温。声の一つ一つが呪いのように降り掛かっていた。 「……なんで、今更思い出すんだよ」  栞の兄の話を聞いてからだ。人間を捨てた怪物に成り果てた様を、否応(いやおう)なしに昴の古傷(トラウマ)(えぐ)る。  頭を抱えて苦しみ喘ごうにも、消えてはくれなかった。背負わざる終えない罪の十字架に、再び記憶が繰り返し蘇る。  睡魔は消えた。悪夢が白昼(はくちゅう)の中で笑っている。這い寄る手に引きずり込まれ、昴は息継ぎを忘れていた。  だが、意識は途端に現実に戻される。目の前に差し出された竹籠タイプのランチボックスから、バナナの入ったチョコレート味のパウンドケーキが現れた。まるでプロポーズ時に出される結婚指輪だ。  ……ただ、それが。 「おい、松村。(ひざまず)いて開ける必要ないだろうが」 「チョコバナナ好きだろ? ほらほら、食え食え」  (なぐさ)めにもならない献上品(けんじょうひん)に、昴は渋々パウンドケーキを頬張った。家庭的で素朴な味わいながらも、秀吉が作る手料理の中では一番の好物だ。  思わず食べ進める手が止まらなくなり、綺麗に一人で平らげてしまった。 「あ、ごめん。完食した……」 「美味そうに食ってくれたらそれでいいって。ほら、手拭け」  ウエットティッシュ完備のせいか手が汚れても困らない。用意周到さには感服(かんぷく)せざる終えないと、昴は苦笑を漏らした。 「悩ませることになんのは覚悟の上だったしな」 「本当、お前には嵌められてばかりだよ」  目的の為なら手段は選ばない。遠回りにそう言われている気がした。  良太郎や泰と友達になるまでの少しの時間、最初に強烈な出会いをしたのは秀吉だった。違和感を連れて歩く秀吉に出会ったのは、新入生歓迎会が終わった直ぐの時間。バスケ部との一件を二階席で堂々と見ていた秀吉に捕まったのが始まりだった。  ……違和感が普通なんだな。  嵌められたことは沢山あった。運動部に追われる経緯を作ったのが隣に座る男であることを、久方ぶりに苦々しいと思い返した。 「いつか話してくれるんだな」 「んー。どうだろうなー」 「はは。死ね、ヘタレ」 「玉潰すぞ、ムッツリ」  ひょうきんでもなければ生真面目でもない。普通故に心地良い苛立ちを覚える。  母の味という物は昴にとって一生分かることはないが、素直に言えることがあった。 「なんか、ここ一年近く松村の飯に宥められてきたような気がするな」 「言っておくけどな、俺はお前のお母さんじゃねぇからな」 「今度ハンバーグ作って」 「しょうがねぇな。焼きか煮込みか選んでもいいぜ」 「そこは焼き一択だろ」  小難しいことは要らないと無言で優しく背中を押された。見た目と合わなすぎだと毒づきながら、昴は安心感が戻って来たのに、砂嵐(すなあらし)巻き起こる胸中が穏やかな世界に再び顔を覗かせたと、一人で笑っていた。  ◇◇◇  第二体育館倉庫の裏側で、密かに昴と秀吉を見ていた詩音は、何も言わずにスケッチブックに絵を描いている良太郎に声を掛けた。 「二人で居る所、俺初めて見たよ」 「案外珍しくはないのですよ。元々、最初に仲良くなった同士なので」 「そう、なんだ……。でも、あれ?」  人気者で校内一の有名人である秀吉が、トラブルばかり起こしていた昴と共に居ても、誰もおかしいとは思わずに黙認している。詩音ですら昴達と行動するようになってからも、好奇(こうき)な目で見られているというのに、どうしてか差を感じていた。 「松村氏が変なことは、一部の鋭い方しか気付かないのですよ。あれは異常なので」 「異常って、特殊能力みたいな?」 「端的に言えばそうなりますね。それを分かっていて周囲から一定の距離を置いて関係を築いているのです」  断言癖のある良太郎は傍から見ると生意気だ。自分に目もくれずに鉛筆でスケッチブックに絵を描き続ける良太郎をつまらなそうに眺めていたら、視界の先に何かが迸った。  ……あれ?  魂の気の流れに似た微弱な奔流(ほんりゅう)が目視で確認出来た。見えたのは良太郎の鉛筆を握る右手だ。不可解な現象に首を傾げつつ、気の所為だと意識を他に向けようとした時、良太郎が口を開いた。 「浄化屋の案件は解消される数と解消されない数なら、どちらが多いのですか?」 「……っえ?」  浄化屋を知っているかのような口ぶりに、詩音は暫し反応が遅れた。フェイクに騙されたのはつい最近だ。良太郎は顔を向けずに純粋な質問を詩音にした。 「解消されない案件の方が限りなく多いよ。寧ろ、舎棺の偉い人の殆どが浄化屋案件に興味がないから、停滞しきってるのが現状だよ」  望ましい解答だったかは定かではないが、良太郎は納得しているようだ。鉛筆を走らせていた手が止まり、深い溜息をつく。 「なら、西園氏が所属している浄化屋なら過去に縛られ続ける一般人を救えますか」 「それって……」 「……救えますか?」  瓶底眼鏡の隙間から覗いた双眸に真っ直ぐと見詰められ、詩音は言葉を失った。  ……何となく、分かった気がする。 「……そっか。だから宮盾君だったんだ」  まんまと嵌められたのは自分の方だと詩音はすっかり参ってしまった。してやったりと笑う良太郎が憎たらしいと素直に思えたのは悪いことではない。少しだけムカついた、と詩音は反撃と言わんばかりに良太郎の眼鏡を奪った。  奪った瞬間、詩音は驚きを超えて無言になっていた。寧ろ見てはいけない物を見たような、そんな気がしていた――

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