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 ◇◇◇  ――印象に残るとは一種の染みのことだ。  当時中学二年生の昴は、枯れ枝のみすぼらしさに秋が終わることを、過ぎた時間の中で認識していた。  花屋で購入した百合を抱えたまま、通い慣れた涼風総合病院(すずかぜそうごうびょういん)に向かう。決まった動線の上を走るように、車道には出ないように、歩道と区切られた白線の内側を規則正しく守る。  白線は染みか否か。石灰(せっかい)と塗料が混ざり合った化学薬品と変わらない物質を塗りたくり、人間は勝手にルールを決めるのだ。  嗅ぎ慣れた百合の強い香りに包まれながら、昴は規則が決められた手順に乗っ取り、習慣化された生活圏内(けんない)で真冬の元へ歩みを進めた。  染みに着眼点を置くと、意外な所に楽しさがある。涼風総合病院に働く男が声高に昴に語った、何気ない会話の切り取りを回顧(かいこ)した。  染みの種類は目に見える物が全てじゃないと男は言っていた。人間の記憶が曖昧なように、唯一鮮明に刻まれた記憶もまた、色濃く染みを残す。  印象のような物だろうと聞き流していたが、支障のない情報は無駄な物程覚えてしまうのが鉄則だ。真冬が隣に居ない日常に渇きは潤わないまま、自身が暮らす閉鎖的な都市が当たり前の社会だと認識する。それが普通だと涼宮境市の人間は覇気のない、死んだ魚の目をして口々に吐き捨てていた。  目に見えない大きな染みを都市全体とするなら、空の狭さをより一層強く感じるだろう。外への憧れを抱きながら死に絶えた人間の(しかばね)が灰になるように、この街に生まれた人間は巨大な棺桶(かんおけ)の中で息を引き取らねばならない定めだ。  馬鹿らしいと昴は毒を吐く。閉塞感(へいそくかん)に押し潰されたら最後、勝手に敷かれた人生のレールに従い続ける。車道と歩道を割いた白線のように、決まった線をただただ辿るのだ。  一台の軽ワゴン車が通り過ぎていく。節度のある速度で過ぎた車は、この街にある医薬品メーカーの物だった。  四輪(よんりん)を転がす鉄の(かたまり)が人を乗せて走るのは、自由への架け橋か、それとも規則を全うする隷属者(れいぞくしゃ)か。新鮮さは遠に欠乏(けつぼう)していた。  次第に鬱屈(うっくつ)さを感じるようになってきた。息苦しさにもよく似た、気道近くが狭まり、肺を萎縮(いしゅく)させる感覚に、異端じみていると錯覚した。  だが、それは第三者による人間に払拭された。 「おーい。そこの少年。ちょーっとお兄さんの話し相手になってくれないか?」  聞き慣れない余所者(よそもの)の声に身体は過敏(かびん)に反応する。人の良さが滲み出ている二十代前半の青年が公園のベンチに座り、見ず知らずの赤の他人でしかない昴を呼び止めた。 「ジュース(おご)るからさ、そのロスタイム分お兄さんに頂戴!」  閉鎖的な街に現れた青年は新しい風を纏っていた。興味本位でしかない、決められたレールから足を踏み外した時、今よりもずっと新しい何かを――新鮮な息吹を取り込みたかったのかもしれない。  ふと病院で出会った男の言葉を思い出す。  ――強い印象を持つのは必ずしも派手な物じゃないよ。  普遍的(ふへんてき)な出会いは隕石が落下するよりも自然で唐突だ。真冬と出会ったように何気ない日常を切り取った情景は地味なのに、真新しい新鮮さを保っている。  ……これが『染み』。  観察をするような眼差しを向けながら、昴は余所者でしかない青年の元へ一歩ずつ足を運んだ。 「君は何年生?」 「中二です」 「へぇー! 俺の妹と一緒!」  返答と共に促されたベンチに座り、赤の他人だろうと馴れ馴れしい態度を崩さない青年の反応を耳だけで拾う。大袈裟(おおげさ)だと呆れたが、リアクションの一つ一つが新鮮だった。 「うちの妹がさ、最近反抗期でツンツンしてんの。メイクなんか覚えちゃってさー」  血縁者に対する愚痴か、と興味もなく聞き流してながら、べらべらと聞きもしない話を垂れ流すプライバシーも関係なしに、損得(そんとく)すらない話を青年は一人でしている。  感情表現が豊かな男だ。枯渇(こかつ)していた泉から新しい息吹が湧いてくるような、そんな気にさせるのは何故だろう。昴は暫し、形のない不明瞭(ふめいりょう)な感覚に囚われた。 「あ。俺だけ喋ってて変だったか」 「あ、いや。続けてくれると俺は嬉しいです」 「お? そうかそうか。んじゃ、俺が暮らしてる街について話すかな」  藤の花が美しい街だと青年は自分のことのように語った。先程から自分の自慢ではなく、肉親に対する自慢話が多く見受けられ、変わった人だと位置づける。  ……これって、なんていうんだっけ。  自己肯定感がない、と言えば聞こえは悪い。昴が知る人間の中では珍しい人間だと感じるが、どうにもボキャブラリーが足りない。 「貴方はあまり自分の話はしたがらないんですね」 「ははっ。気付いたか?」 「勿体ないと思っただけです。なんでか分からないけど」  言葉に出来ない苛立ちを抱えたまま、昴は吐き出せない感情の片鱗に戸惑いを隠せずに居た。  だが、勝手知ったるや否や、青年は公園に設置されている自動販売機から炭酸飲料水を購入した。 「今をときめく若者にお兄さんからの餞別な」 「グレープ……ですか」 「ん? あれ、オレンジの方が良かった?」 「まあ、ありがとうございます」  実際問題、落胆した理由はプルタブにあったが、開封することなく昴は膝の上に置いた。 「あれ、やっぱ嫌だった?」 「プルタブが苦手なんです。開ける前に缶を潰しちゃうので」  細かい制御が苦手な腕の力に苦悩は尽きず、気が付けば進んで缶ジュースは購入しなくなっていた。  躊躇いがちに揺れた昴を見た青年は、何かを閃いたのか声を上げた。 「よっし。じゃあ、お兄さんが少年の特訓に付き合おうか」 「は……?」  突拍子もない青年の一挙一動に呆気にとられる。普通なら(からか)うしかない話題性に、本気と取った姿を信じろと言われても半信半疑なお節介だった。  財布を取り出して、意気揚々と缶ジュースを大量に購入する青年の行動に、おかしさが膨れ上がっている。奇人か変人か判断はつかないが、理解不能の行動しか青年はしていなかった。 「どうして俺なんかに構うんですか?」 「ん? まあ、あれだよ。人生一度きり、何か一つはやり遂げたいじゃん」 「プルタブだけですよ」 「ははっ。いいじゃん、地味な達成感を味わうのもさ。だって、少年はやり遂げたいんでしょ?」  意図が不明なのに、何故見ず知らずの人間に対してここまでするのか、昴にとって一生かかっても分からない問題提起だと思う。  ――染みは一つじゃなかった。  名も知らない余所者から与えられた時間は、いつしか消えない記憶の染みの一部に残された。  だからこそ言えなかった。真冬に指摘されて初めて気付いた変化の兆しを作ったのは――

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