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第五章:歌うたいの合成獣【後編】

 五年の月日を長いと思う日が来るのを知らないまま、いつの間にか物分りのいい年頃に成長していた。  子供を一括(ひとくく)りにする大人達の声は、あまりにも容易に出来上がった固定概念(こていがいねん)の押し付けだ。小学生といえど四年目も過ごせば、ある程度の事柄や物事を理解するくらいには育っている。(ひろむ)は幼いながらもその考え方を肯定していた。  小学生に上がるのと同時に習い事が増え、帰宅する時間帯が夜の六時が定着していた。習字や算盤(そろばん)、学習塾に水泳やサッカーなど、本人の意思とは関係なく親に決められ、ふと冷静になる。何も見出だせない場所で得る物はあるのか、と。  客観視した瞬間、諦めるのではなく切り捨てる方法を取った。所謂(いわゆる)サボりだ。共働きの両親は帰宅する時間が異なるが、母親は早くても六時半。だからこそ無駄な時間の浪費(ろうひ)を考える策は中々難しい。  季節は夏から秋に掛けた中間地点。日が暮れるのを眺めながら帰路に着き、ぬるりとした肌寒さに弘は嫌な時期だと悪態をつき、六時前に着いてしまったことに更に毒を吐きそうだった。  五年の差は大きい。弘は純粋さに満ち溢れた妹の存在に、形容し難い感情をいつしか(いだ)くようになっていた。  落書き帳にクレヨンで絵を描く(しおり)に、弘は「ただいま」すら言えないまま素通りした。栞はお絵描きに夢中だから幸いだったと思う。  エアコンのスイッチを入れ、温度をほんの少しだけ下げる。冷えた空気に心が洗われた。  自宅に居ても母親が帰ってくるまで夕飯は食べれない。栞は駄々(だだ)()ねることなく一人で待っているというのに、弘は口には出せない劣等感(れっとうかん)を握り締めた。  だが、栞はそれすらも知らずに、幼稚園で教わったのか、楽しそうに歌い出した。 「……星に願いを」  空に輝く星々(ほしぼし)に届く訳ではないのに、栞は歌っていた。落書き帳に描いてある絵も星で埋め尽くされており、無意識の内に弘の足は五歳の妹へ向いていた。 「栞、ただいま」 「お兄ちゃん、おかえりなさい!」  満開の笑みを向けられ、得体の知れない感情に襲われる。普段から素っ気ない態度ばかり取っていたのに、栞は変わらなかった。変わらずに兄として弘自身を見ていたからだ。  ……おかしいのは俺か。  普通の枠から外れた人間として生きているのを、家族は誰一人も知らない。誰も知らないからこそ、弘は知りたかった。 「なあ、栞。お兄ちゃんと星でも見に行かないか」  知りたかった。真っ白な心を持つ幼い妹が自分に向ける想いを、ただ純粋に。純粋に受け止めたかったからこそ、弘は願いたかった。  ――真っ直ぐに栞が成長してくれますように。  母親が帰ってくるまで三十分弱。重たいランドセルを捨て、自転車の鍵を取り、寒さが広がりつつある外の世界へ栞の小さな手を引きながら、大人が勝手に決めた子供の規則を弘は破る。  何も知らない幼稚(ようち)な妹を道連れにしたのに、温かな(ぬく)もりがその日からずっと残り続けていた。  罪の軽さを決めるのは他人じゃない。弘は自転車を漕ぎながら、温かな栞の体温を背中で感じ、暗夜(あんや)(とばり)へ身を溶かして、ふてぶてしくひとりごちる。  ――悪いことをした記憶はずっと付いてくる。  小学生と園児を乗せた二輪(にりん)の車は、覆い隠す影の世界にすっぽりと飲み込まれ、混沌(こんとん)を抱えた少年は、永く短い旅路に妹を巻き込んだ。  それを知らないまま、思い出すのは(きら)めいた宝石箱のような日々に、栞は幸福(しあわせ)だったと回顧(かいこ)する。  ――知らないことが幸福だと勘違いするのは罪か。  苦しみに軋んだバネが激しいスプリングを立て、上空に跳ね上がる。初期よりも伸びきったバネを限界まで引き伸ばすことが、弘にとっての真の達成感と成り得る筈――だった。

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