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 空気清浄機で入れ替えたような清々(すがすが)しさを取り戻した外界(げかい)は、さらりとした(シルク)(ひるがえ)る平穏な涼しい風が生気を取り戻し、地上へと踊っていた。  ママチャリを手で押しながら、(すばる)は険悪なムードを漂わせる(ゆかり)瑞希(みずき)を最後尾で拒否権なく見せつけられ、胃の辺りがキリキリと痛んだ。  詩音(しおん)だけは気付いていない鈍感さに呆れながら、同様に胃の辺りが痛みだした栞は猛烈に襲ってきた悪寒(おかん)に暫く(さいな)まれていた。  ……朝倉(あさくら)先輩は何しに来たんだ。 「いやはや、紫ちゃん。眉間に皺なんか刻んだら駄目じゃないのかな。折角のお人形さんみたいな可愛らしい顔立ちが汚されてしまうよ」 「もう、冗談は()してくださいよ。朝倉先輩。また体調でも崩したら単位が足りなくなっちゃうんじゃないですか? お(うち)でしっかり休みましょうよ、先輩」  明らかに(とげ)しかない会話には、全くもって毒を隠すことはしない。  いがみ合う美少女の絵面には恐怖しか感じないのは、至極真っ当に昴と栞が正常な証なのかもしれない。初めて二人が意思的にシンクロした瞬間だった。  だが、詩音は鈍感だった。 「ねえねえ、瑞希お姉ちゃん。これ、作ってみたんだ。俺からの復活祝いだよー」  手作りのストラップには、可愛らしくデフォルメされたトリケラトプスのマスコットがぶら下がっていた。手先も器用なのか製品と寸分変わらないクオリティだ。  瑞希は歓喜にみるみるのうちに顔が桃色に染まり、うっとりとした恍惚(こうこつ)めいた笑顔を浮かべた。 「ありがとう、しー君」 「ふへへ。笑顔になってくれて良かったぁ」  ふにゃふにゃ笑顔を直近(ちょっきん)で受けた瑞希は浄化寸前だ。(はた)から見れば姉にプレゼントを贈る弟の図。  しかし、昴は今一度()せないでいた。  ……あれでセフレを囲うって、ヤバくね。  瑞希の自室にトリケラトプスの模型があったのは、その際置いておこう。昴は(なか)ば困惑気味だが、栞はそれを察していたのか、前を歩く三人には内緒で教えてきた。 「あれでもきちんと男らしいわよ。床上手(とこじょうず)の料理上手。初体験は十三歳の時に一回り歳が離れた浄化屋のお姉さんと、だって」 「……なんだろうな。顔とかそういう問題じゃないんだな」 「ギャップ萌えらしいけど、あたしにはよく分かんないわ」 「ああ、木梨(きなし)はショタコンだから……うお、いっでぇ!」  怒り任せにローファーで勢いよく踏み(にじ)られ、爪先が熱を帯びて痺れた痛みに昴は悶絶した。恐ろしい笑顔を向ける栞は怒りを惜しみなくぶつけてくる。  昴は改めて思った。  ……女って、怖い。  軽口はこれから気を付けようと昴は心の辞書に刻み込んだ。  峰玉(ほうぎょく)への近道は昨日覚えたばかりだが、(しな)びれた廃ビル街までの道程(みちのり)はやはり遠い。しかしながら、峰玉の事務所がある地域は意外にも藤咲市の中心部に近いのが利点(りてん)で、業務が(とどこお)りなく進められる。  道を覚えるのは造作でもないが、紙上(しじょう)(えが)かれた地図よりも、想像より鬱蒼(うっそう)とした陰気な廃ビル街は強烈的だ。  廃ビル街に差し掛かる道筋に、見慣れない移動販売の露店があった。 「あれ? 初めて見るよ、この店」 「本当だねー。なんだろう、お菓子屋さんかな」  怪訝そうに露店を遠目で眺めている詩音と紫を他所に、好奇心を隠しもしない瑞希は露店を切り盛りしている老婆に声を掛けた。 「やあ、お婆さん。ここは何の商品を売っているんだい」 「子供でも安心して飲めるジュースだよ。何、変な薬は入っていないさ」  氷水で満たされたバケツの中には、サイダーや缶ジュース、大手飲料水メーカーのペットボトルジュースがきんきんに冷えていた。  祭でも似たような出し物があった記憶があるが、老齢の女性が用意するにはあまりにも重労働だ。  しかし、瑞希は財布を取り出して、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくジュースを購入した。 「ふふ。先輩風を吹かすのも悪くないね」  (おご)った性格はいつ見ても鼻につく。顔だけなら極上の美人そのものなのに、残念さが(まさ)っていた。 「うぎゃ!?」  頬にひんやりとした感触が敏感に刺激し、昴は無様な声を上げた。 「あははっ。変な声だ!」 「西園(にしぞの)……」  きんきんに冷えた缶ジュースを押し付けてきた詩音は、悪戯が成功した子供のような無邪気な笑顔を浮かべていた。  可愛い女の子なら美味しいシチュエーションだが、美女を囲うイケメンにやられて酷くげんなりした。  昴は缶ジュースを受け取り、プルタブに指を掛ける。指に掛けたが、開けるまで少しの躊躇を覚えた。  ……大丈夫だ。  自己暗示を掛けるように逆立った感情を(なだ)めながら、昴はプルタブを開けた。炭酸が抜ける弾けた音を立て、ぶどうの香料が香った。潰さずに開けれたことに安心した昴は、ほう、と一息ついた。 「そこの坊や。坊やは蒼星(そうせい)三月(みつき)の子かい」 「――ッ!?」  気配もなく(かたわ)らに老婆が鎮座(ちんざ)している。魔女のような不気味な出で立ちに、どうしてか激しく心臓が嫌な音を立てた。  何故両親の名を知っている。昴の疑問を(くすぐ)るように老婆は再び口を開いた。 「二人は元気かい」 「……分かりません。元気だと思いますよ」 「なんだい、坊や。電話はしないのかい」 「俺、二人の携帯番号を知らないので」  苦笑混じりに答えれば、老婆は皺で(たる)んでいた重たい瞼を持ち上げて、心底驚いている様子だ。  知っているのは無言でパソコンに向き合う母親と、よく分からない巨大なカプセルのような機械を(いじ)る父親だけ。無機質な温度のない会話を聞いても、さっぱり分からない。昴が知っている両親はそういった人間だった。 「……では、そこの坊やは文秋(ふみあき)冴葉(さえは)の息子だろう」 「え……な、んで俺の両親を知ってるの?」  明らかに詩音は動揺していた。幼い頃から浄化屋の世界に居た詩音ですら、目の前にいる老婆は記憶の中で一致する人物が居ない。  正体不明の御仁(ごじん)に対して、珍しく詩音は警戒していた。 「魂魄(こんぱく)が穢れているね。それに、削魄症(さっぱくしょう)(わずら)っているのかい」 「なん……で……」 「浄化屋としては致命的な欠陥(けっかん)だね。何、坊やの実力はあの二人を足して割ったような腕前だから安心しなさい」  白く濁った目が詩音を捉えていた。隠していた物を唐突に現れた第三者に暴かれ、次第に詩音は恐怖心に支配されていく。  ……やばいな。  昴は嫌な予感しか感じていなかった。老婆の術中に嵌っていたからだ。目の前の老婆が何者か分からない。紫達の気配も消えており、辺りに人影はなくなっていた。 「――(おせ)えぞ」  薄く頑丈な膜に覆われていた空間が、翔馬(しょうま)の一言で容易く割れる。呼吸のしやすい空気が舞い戻り、目の前に居た老婆は露店と共に神隠しにあったかのように消えていた。 「し、翔さん!」 「さっきのは妖怪の一種だと思えよ」  涙目になっていた詩音は翔馬に飛び込んだ。落ち着かせるように詩音に優しく語りかける翔馬は、ちらりと昴を一瞥した。  翡翠の瞳に睨まれる。怒りか悲しみか、呆れか。理由は定かではないが、様々な感情が入り混じった眼差しに昴は受け止める。  手にしていた缶ジュースが現実だったと思い知らされる。未だにこちらを見詰めている翔馬を躱すことも跳ね返すこともしないまま、昴は缶ジュースを煽った。  甘味が舌にぬったりと残る度に、昴は三年近く前に出会った青年を思い出す。彼がやり遂げたかったことは何だったのか、今になって考えてしまうのは胸騒ぎが収まらないせいかもしれない。  昴は都合よく解釈し、中身を飲み干したアルミ缶を片手で握り潰した。

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