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 ◇◇◇  必要性のない情報に満たされた世界は混沌(こんとん)とした深淵(しんえん)と同様だ。久しく会っていなかった友人との邂逅(かいこう)に、高鳴る物はおろか、無感情に長い拘束時間の中で、青年の空っぽな人格形成に支障が(きた)す。  友人がどういった人間だったか、青年は今一度考えた。賢く聡明(そうめい)な、クラスに一人は絶対に居るスクールカーストの下位に居るタイプの人種だったと思う。  彼は昔から変わった本を抱えていた。書店には到底売っていない、古書(こしょ)のような、分厚く日に焼けて茶色くなった本。  しかし、大人に変貌を遂げようとしている目の前の友人は、思考回路に故障が起きているらしい。見慣れない本が積み重なっているが、それとは異なるデータの集合体を恍惚な眼差しで()でている。  集合体、という表現だけではあまりにも足りない。生きた文字や記号が生物のように蠢き、活発に心肺運動を繰り返していた。  友人は声高々(こえたかだか)に青年に投げ掛けた。  ――やり残したことを聞かせてくれないか。  誰も知らない青年の人生設計は最初から変異を遂げていた。(かく)となる設計図は、生まれながらにして欠陥を患う魂からなる物ならば、青年は幼い日々から抱えていた疑問を口にした。 「願いってさ、叶わないって完全否定出来る概念に当て嵌まるとお前は思うか」  膨大な情報量の波に()かれながら溺死(できし)する。それが友人の願いならば、青年にとっての願いは不確定要素と変わらない。見向きすらされないありふれた話題性に、青年はふと思い出す。  少年と出会ったのは何かの縁だったのかもしれない。思い出した時、青年は初めて友人の前で笑みを見せた。  ◇◇◇  事務所に戻ったのと同時に、資料のコピーを紫から渡された。浄化屋案件はややこしい代物らしく、こうして簡潔にまとめた必要最低限のデータを管理しなければならない。細かな詳細は全て専門の職業があるらしいが、昴は書かれた内容に驚きを隠せなかった。 「……彼奴、なんでこのことを知ってたんだ?」  秀吉(ひでよし)が語っていた必要最低限の情報が寸分(すんふん)(たが)わず記載されていた。出現場所は『榮の杜運動公園(さかえのもりうんどうこうえん)』で間違いはなく、窃盗犯が頻繁(ひんぱん)に現れるコンビニやホームセンター等も合っていた。  だが、昴は平静を保つべく呼吸を繰り返す。嫌な予感なら最初から覚悟の上だ。栞の兄である(ひろむ)に何が起きたのかまでは詳しく書かれていないが、強張りが解けないでいた。  昴は意識を変えようと栞に話し掛けた。 「なあ、木梨。どうしてお兄さんはこの公園に留まっているのか、理由は分かるか?」 「……小さい頃、よく親の目を盗んでお兄ちゃんと家を抜け出してたの。よく晴れた日に人気のなくなった真っ暗な公園は天然のプラネタリウムみたいで、誰にも邪魔なんかされなくて独り占めし放題だったっけ」  懐かしむように満ち足りた思い出を振り返りながら、栞は暫しの間だけ幸福感に浸った。  幸せな時間ばかり回顧してしまうのは、兄の大きな背中を見詰めていたからかもしれない。汗ばみながらも自転車のペダルを漕ぎ続ける兄は、小休止の際に必ず栞に笑い掛けてくれた。  だからこそ自分が知らない弘が居ると栞は考えていた。口を真一文字に引き結び、思案顔で考え込み始めた栞は、拭えない不安を首に提げたペンダントに安堵(あんど)を求めて(すが)る。 「そう言えば、私から昴君に聞きたいことがあるんだけれど」 「なんですか、急に……」  雄々(おお)しい喋り方には慣れつつあった昴だが、どうしても瑞希に対する苦手意識がついて回っていた。  警戒心を潜めながら、窺うような眼差しを昴は向ける。 「君の周りに私には劣るが見目のいい女性達が居るのに、何故彼女が出来ないのかな」 「は!?」 「ぶふぉう!?」  瑞希の爆弾発言に昴は一気に赤面し、反対に翔馬はコーヒーを盛大に吹いた。  アルバイト先で知り合った女性とは未だに連絡を取り合う間柄の昴だが、変化球なしの直球ストレートに動揺は隠せなかった。 「え、いや、あの……()いて言うなら友達みたいな感じですからね?」 「ん? じゃあ、女体に飢えてる訳じゃないのかな」 「どんな偏見ですか!」 「ミクル姫のシリーズをさり気なくボクシング映画と一緒にレンタルしてる所かな」 「なんで俺の性癖(せいへき)は直ぐにバレるんだよぉ!」  自身の明け透けな性癖に昴は激しく悲観(ひかん)し、震撼(しんかん)した。(さげす)んだ眼差しを紫と栞に向けられたまま、精神的に()り減る物が昴の中ではかなり多かった。  肝心の詩音は手鞠を抱きながら穏やかに寝息を立てて眠っている。起きていて欲しい時なのに空気も行間(ぎょうかん)も読めない詩音らしい。昴は諦めることを覚えた。 「何、あんた……そういう女が好きなの?」 「清楚(せいそ)でエロい女の人が性癖にダイレクトヒットします。なんか、すみません」 「あはは。昴君は謝る必要なんかないよー。でも、存外正直者なその口は一定期間縫い合わせた方がいいかもしれないね」  笑顔でさらりと猛毒を吐き捨てる紫の目は、さながら地べたを這いずり回る害虫を見ているようで潔かった。口元だけの笑みに助かる訳でもなく、汚物(おぶつ)見下(みくだ)す眼差しに身体の芯から寒々としていた。  傍らでぐっすりと寝ていた詩音は身動(みじろ)いだ。 「……んぅ? あれ、俺なんで寝てたんだろ?」  唐突に訪れた睡魔に疑問を口にしながらも、寝起きの猫のように大きな欠伸をする。詩音が目を覚ましたのを見計らったように起きた手鞠は、無言で翔馬の元へ走り去っていく。  詩音は微妙な空気感に小首を傾げ、呑気に「何かあったの?」と誰それ構わずきょろきょろしながら聞き回り始めたのを微笑ましく思う反面、彼は空気は食べる物と認識していそうだと悟る。  通常運転に微妙な空気は払拭されたが、また新たに紫の詩音フォルダに新しい一枚が追加されたのを、静かにそっと無情に稼働(かどう)するベルトコンベアーへ昴達は横流しした。  カーテンの閉められていない窓の外は次第に黄昏(たそが)れ始めていた。紺碧(こんぺき)が迫り来る時刻は少しの期間だけ夕焼け色のカーディガンに身を包む。  幾重にも重ねた上着に姿形を(あざむ)く空の変化に吸い込まれつつある最中(さなか)で、翔馬は羽織を片手に手鞠を連れて席を立つ。 「所用が出来た。俺は少し事務所を空けるから、紫と瑞希は留守番を頼む」 「えっ」 「わぁお……まるで地獄へ急転直下だね」  犬猿の仲である紫と瑞希を二人きりにする案は好ましい物ではない。それしか方法がないのも事実だから口を挟めないのが心苦しいと、昴と栞は互いに想像して胃を抱えていた。  だが、翔馬は去り際に昴の肩を引き寄せた。 「うわ……」 「詩音のことを頼んだ。詩音から黒い煙みたいなのが出始めたら、これを使え」  無理矢理握らすように渡されたのは一枚の札だった。読めない字体で赤く術印が描かれており、一枚の紙切れにしては大層な代物なのかもしれない。 「お前でも使えるような仕様になってるから安心しろ。じゃあ、任せたからな」  真剣味を帯びた翔馬の有無を言わせない視線に、昴は萎縮(いしゅく)することなく冷静に頷いた。詩音が気付く前に昴は札を(ふところ)に仕舞い、それを確認した翔馬は手鞠と共に外へ出て行った。

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