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 ◇◇◇  ――目に見えない染みに(くら)む。時として傷口のように浮き出ては、記憶に熱した()(ごて)で焼き付けられるのだ。  互いに名乗ることなく『お兄さん』と『少年』の固有名詞で呼び合いながら、素性(すじょう)も分からない赤の他人同士の気配や体温、息遣いを横幅のある変哲のない公園のベンチで感じる。  何本目かも分からない缶ジュースの残骸(ざんがい)、飲料水はカッターシャツに染み付き、それらが混ざりあった異臭。素肌にベタついては、ひたりと密着性に富んで貼り付いた感触は慣れれば不快感を感じなくなっていた。  葡萄(ぶどう)のイラストが描かれた大手飲料メーカーの清涼飲料水を手に持ち、昴はふと青年に意識を戻した。 「お兄さんは何をしにここへ?」 「同級生に会いに来ただけだよ」 「なら、どうして財布の中身を無駄に消費しようとするんですか?」 「ただ単にやってみたかっただけだよ」  屈託(くったく)のない笑みを絶え間なく浮かべる青年は、不必要になったポイントカードや会員証、電子マネーカードを財布から引き抜いてはトランプのように束ねている。  有効期限はまだ切れていない物ばかりだ。青年は束ねたカードをゴミ箱に捨て入れ、どこかすっきりとした晴れやかな表情をしていた。 「勿体無い」 「俺には必要ない。持ち主は俺なんだから、どう扱おうと勝手だろ?」 「まあ、それは正論だと思いますけど」 「なら自分ルールは常時発動可能!」  無邪気に笑う姿に気圧(けお)されてばかりだ。面白くもないことでも笑う青年は不思議な人間の部類なのだろう。  風変わりな人間だ。昴は純粋に青年をそう表現していた。  だが、質問ばかりをしていた昴のツケが回ってきた。 「少年は誰かのお見舞いか?」 「幼馴染が入院してるので、そのお見舞いです」 「へぇ。少年の大事な人?」 「そうですね。彼女は誰よりも大切な、たった一人しか居ない俺にとっての居心地のいい居場所です」  不思議と口にしていた真冬に対する想いがすらすらと呼吸するように出てくる。昴にとって誰にも代えられない大切な人間。外の世界を教えてくれた、初めての感情を教えてくれた。唯一無二の存在が真冬だ。  青年は驚いた顔を浮かべながら、昴の変化に目を見張らせていた。 「笑うんだ」 「感情はあるので普通に笑いますけど」 「んー。なんだろうな。幸せそう? って奴かな。無表情からのそれは反則だわ」  無表情という指摘は慣れていたが、気味悪がる素振りを見せない青年は極めて希有(けう)な人間だ。  喜怒哀楽がはっきりとした青年を見ていた昴は、自身の表情の変化に(とぼ)しい事実に、少しだけ胸の辺りが陰りを帯び始めていた。 「お兄さんは教えてくれますか。笑い方や怒り方、泣き方を」  缶を潰すことなく指の力だけでプルタブを開け、小さな達成感を貪る前に昴は純粋に青年へ新しい達成感の教授(きょうじゅ)を欲した。  しかし、青年は初めて困った表情を浮かべる。  夕日が傾き始めた黄昏に染まる空を無言で見詰めていた青年は、固く閉ざしていた口を開き、最初で最後の願いを戯言(たわごと)のように呟いた。 「普通になりたいって思っちゃ駄目だったんだよな。出来るなら最後は普通のお兄ちゃんとして妹に会いたいよ」  後悔を口にした時、人間は(わざわ)いや呪いを自分自身に降り掛からせる。言霊(ことだま)は必ずしも他者に影響を及ぼす訳ではない。返ってくるのは口にした本人だけだった。  染みは必ずしも幸福の烙印(らくいん)にならない。昴は見えもしない青年の薄く頑丈なフィルターに拒絶を見出(みいだ)し、そっと缶ジュースを青年に手渡した。  苦笑しながら缶ジュースを受け取り、ぐっと青年はそれを一気に飲み干し、ぎこちない下手くそな笑顔を昴に向ける。  ――記されることのない『罪』は染みか。  問い掛ける先にある質問は棄却(ききゃく)されることなく保留とされた。届かない願いの末に辿り着いた終着駅に取り残される感覚は、一生洗い流すことが出来ない頑固な染み汚れと化していた。  ひたひたと濡れたシャツの不快感を再度蘇らせ、潰れたアルミ缶を見下しながら、短くも長い濃密な時間を一から順に思い返し、未だに届けられていない白百合の花束に後ろめたさを痛感する。  たったそれだけの些細な時間は終わりもなく永劫(えいごう)と記憶に焼き付けられたまま、火傷のようにこびり着いた感触に、昴は忘れることはないと先々を見据えて悟った。  ……染みだ。  目に見えない染みに囚われた刻む記憶の断片に、また一つ新たな学習を出来たその日、希望という固定概念に、昴は曖昧な定義の不確定要素が増えたと人知れず喜びを噛み締めていた。  ◇◇◇  時刻は夜の八時を回ろうとしている。出没時間を平均的な数値に割り出し、導き出したのが人通りも限りなく減退する八時だった。  峰玉の事務所は行動しやすい区域に位置していることが吉と出ており、存外荒廃しきった街並みも悪くはないらしい。移動手段が足しかないのは致し方のない戦術師にとっての気苦労となり得ていた。  栞を軽々とお姫様抱っこをしている詩音は、現代の忍者のように塀や壁、電信柱を使ってアクロバティックに飛び回る。雑ではないにしろ、あまりにも急なスピードや急停止はさながら人力のジェットコースターのようだ。  栞は悲鳴を上げながら涙目で嫌々と駄々(だだ)()ねていた。 「も、もういい! 降りる! あたし降りる!」 「あれ? 楽しくないの?」 「ジェットコースターに何回も並ぶアンタと一緒にするなー!」 「じゃあ、ぐるっと回る?」 「いや、いやぁぁぁ! パンツ見たら宮盾殺すぅぅぅぅ!」  レイプされる寸前のような栞の悲鳴に、黙って道路を走っていた昴は居た堪れなさに苛まれていた。  絶叫マシンを好む詩音の嗜好(しこう)は栞にも容赦なく襲い掛かっており、ぐるんぐるんと忙しなく遊ばれている。下着が見えそうな角度は全て目線を逸し、堪らず乾いた声を漏らしてしまった。  目的地まで直進するだけだったが、昴は異様な気配を察知し、足を止めた。 「何か居るのか?」  昨夜の出来事を思い出す。クリストファーが現れたのと同時に昴と翔馬、社の動きを封じた姿なき者達の気配と今の気配は酷似(こくじ)していた。  不審に思っていた矢先に、歌声が聞こえた。鈍く低く反響する年若い青年の歌声に、ようやく詩音から解放された栞は唇を震わせる。 「お兄ちゃん……?」  会えない時間を埋めようと焦がれてた兄の声に、存在に、栞は脇目も振らず一人で駆け出した。 「栞ちゃん! 一人で行っちゃ駄目だよ!」  焦りから上擦った声で叫んだ詩音は栞の後を追い掛ける。  取り残された昴は、気配の主に視線を移し、声を掛けた。 「クリストファーさんに頼まれてか?」 『見えないのに僕の場所が分かるんだ』  視線の先は塀の上。誰も居ないその場所からは、確かに幼い少年の丸みを帯びた声が返ってきた。 『クリスに頼まれたのは正解だけど、別にクリスは君達と争うことを望んでない。その意思を教えに来たんだ』 「何が目的だ?」 『ただの見物(けんぶつ)だから気にしないで。ほら、君も早く行かないと手遅れになっちゃうよ』  幼い声にしては大人びた口調に疑念を抱いたが、昴は姿なき者への質問を止めて、促される形で榮の杜運動公園へ向かった。

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