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 ◇◇◇  子供料金なら千円で利用出来るプラネタリウムは、隣町の更に隣にあり、親の目を誤魔化せる距離では到底難しかった。  街灯が照らす暗い夜道を自転車のライト頼りに進みながら、人通りのない道をわざと選び、長い旅を遠回りで始める。  何も知らない小さな妹は行き先を聞かない。弘は次第に罪悪感が芽吹くのを感じながら、積もりだした不安を栞にぶつけた。 「なあ、栞。お兄ちゃんと一緒で嫌じゃないか?」 「なんで?」 「……なんでって、お兄ちゃんは今悪いことしてるだろ?」 「そうなの? お兄ちゃん、悪いことしてないよ?」  利口な妹の邪気のない声に息が詰まりそうだった。気を紛らわすべくペダルを漕ぐ足を早め、向かうべき道をただただひた走る。  駐在所勤務の警官に捕まらないか内心冷や冷やしながら、弘はようやく見えた公園にほっと胸を撫で下ろした。  プラネタリウム。弘が目指したのはそれだった。  栞の小さな手を取り、光が差さない木々の城壁に迷わず入り、足元に気を付けながら突き進む。 「ねえ、お兄ちゃん。怖いの?」 「なんで?」 「うんとね、お兄ちゃんの手がね、栞の手をぎゅーってしてるの」 「ぁ……。ごめん、痛かったか?」  言われて気付いた。か弱い栞の手を握る自分の手に力が籠もっていることを、慌てて弘は手を放そうとした。  だが、栞の手が去ろうとする弘の手を握った。 「栞ね、全然痛くないよ。お兄ちゃんが怖くないようにぎゅーってしちゃ駄目?」  弘の不純な動機で連れてきた栞は、汚れ知らずの眼差しを一心に向けている。勝手な都合が発端だった。弘は下唇を噛み締めたまま俯き、何も答えずに栞の手を握り返して再び歩き出した。  この時はまだ知らなかった。(よど)んだ感情を打ち消す世界が待っていることを、弘はまだ知らない。  ――分岐(ルート)(たが)えたら、違う未来が待ち受けていたのかもしれない。  星が願いを叶えるのは自身にかける(まじな)いで得た微量の未来決定力。束になった糸を引き解きながら掴んだのは――。  ◇◇◇  視界を遮る黒い濃霧(のうむ)が前方へ進む度に色濃く広がっていた。息を吸う度に鼻腔(びこう)の中へ入り込む(さび)を煮詰めた生臭さに、昴は何度か()せ返りそうだった。  気流の流れに沿って黒い波動が脈打つ。まるで生き物だ。鼓動を立てながら循環する霧状の生命体が一部を中心に集束させている。母なる母胎へ還るように穢れた瘴気の(かたまり)は、目先(めさき)刻々(こくこく)と迫っていた。 「ぐへぇ。何これ、濃すぎだしぃ……」 「俺でも視えるって相当ヤバいんじゃないのか、これ」 「ゔふぅ……は、鼻が曲がるぅ……」 「とんだ根性なしだな」  自称大先輩の浄化屋を名乗る猫は耳元で騒ぎ散らしたままだ。出会った瞬間から変わらない飄々とした態度に呆れながらも、口を挟んでしまうのが癖になりつつあった。  視線の先には青々とした木葉を付けた枝木のバリケードが差し迫っていた。旺盛(おうせい)に生い茂り、光を遮る程に成長したバリケードをハリウッド映画に出てくるアクター俳優ばりに突き破り、昴と猫は開けた空間に出た。 「うぎゅ〜……。乱暴しちゃ、らめぇ……」 「キモいこと言うな。ほら、目の前のあれを見ろ」  木々に囲まれたぽっかりと開いた空間は、体感だと思っていたより窮屈さを感じない。広さはイベントで設置される大きなボールプールくらいだろう。  だが、目の前には黒い球体が渦を巻きながら浮遊している。公園全体を覆う瘴気の発生源だと考えずとも知り得た。 「うわ、なんじゃこりゃ。膨大な情報の荒波に溺れる〜!」 「あれが何なのか分かるのか?」 「詳しくは分かんないけど、虚戯の遺伝子情報と似た奴までは分析出来たかな? でも、なんだろ。普通とはかなり違うよ、これ」  一目見ただけで異常性に気付いた猫は、好奇心から身を乗り出し始めた。  しかし、後方から迫ってきた合成獣(キメラ)は、それを遮るように咆哮した。 《オォォ――ッ!》 「来たか……!」 「わわっ。ちょちょ、待って待って! 僕に調べさせてってば!」 「レアエネミーの強襲イベントは迷わず参加するのが鉄則だ」 「貴様はゲーム脳かーい!」  激しく尻尾でべしべし叩かれながらも、毅然(きぜん)とした態度で両手にナイフを出現させ、高揚感に昴の双眸は煌々(こうこう)と輝いている。  涎を滴らせ鋭利な牙を剥く合成獣(キメラ)と視線が絡み合い、向けられる獰猛な殺意を合図に昴は右足を軸に地面を強く踏み込んだ。  動作は合成獣(キメラ)の方が頭一つ分早かった。強靭な前足で地面を蹴り上げ、軽く片足を地面に接触し、鋭く伸びた左前足の爪を昴の頭上へ空気と共に下降へ勢いよく滑走しながら引き裂く。  だが、肉塊(にくかい)の当たる感触はなく、力の籠もった左前足は地面を隆起させながら減り込んでいた。  一瞬の隙を見逃さず素早く躱した昴は、役目が与えられなかった合成獣(キメラ)の右前足をナイフで深く突き刺し、ぐるりと半周を描くように斬り込んだ。 《――ッ!》 「一先ず片足は貰った」  赤黒い血液が付着した刃を振って汚れを飛ばし、腰を低く屈めながらキメラの死角に即座に回り込み、左後ろ足に同様の傷を負わせる。  斬り落とすには至らない骨太さに手こずる。巨体から考えて掠り傷と変わらない生温(なまぬる)さだ。昴は横薙ぎに振られた尻尾を躱し、再度距離を取った。  球体を目視で調べていた猫は突然昴の肩から降りた。 「データの収集は取り敢えず終わった終わったー」 「帰ろうとしてるだろ」 「えへっ。バレちゃった?」 「帰るのは別に構わないけどさ、最後に倒し方だけレクチャーして欲しいんだけど」 「面倒だからコツだけでもいい? 感覚さえ掴めればこれから先々役に立つしー」  自由気儘で奔放極まりない猫の態度に昴は既に慣れているが、空気を読まずに背後から合成獣(キメラ)が放つ刃の群れを交差させた旋風(つむじかぜ)に遮られ、避けたことにより猫との距離が開いてしまった。  着地をした頃には猫がそそくさと帰る後ろ姿が見えた。  ……置いていきやがった。  自称大先輩は特に教えることもなく身を隠したせいでか、昴は忘れていた苛立ちを沸々と滾らせていた。  だが、空気も行間も読めない合成獣(キメラ)には関係ない。昴は再び旋風を発生させたキメラの動きを読み、直撃しない距離を保ちながら走り出し、苛立ちをぶつけるように合成獣(キメラ)鼻頭(はながしら)に向かって踵落としをした。 「あー! くっそ、とんだブラック企業かよ!」  合成獣(キメラ)が怯んだ隙をついて弧を描きながら上空を高跳びし、勢いをつけながら背中にナイフの刃をつきたて、臀部に達するまで引裂き、痛みを逃がそうと暴れ出した下肢の衝撃を借りて距離を取った。  感覚的な物は元より持ち合わせていなかった昴だったが、猫が居なくなってからの物の数分で変化が起きた。  螺旋状に渦を巻いた光の結界が、周囲を包み込むように張られた。公園全体ではない、漆黒の球体が位置する場のみ覆った結界は優しい光の雫を降らせていた。 「取り敢えず根の可視化は出来たかにゃん」 「その声は……! まだ居たのか!?」 「若者が頑張ってる中で大人の僕が帰る訳ないでしょうがー」  姿は無いが声は聞こえてくる。のらりくらりとした浮き沈みの猫は、素のままの態度を崩さない機嫌の上々ぶりを惜しみなくアピールし、憎たらしい口調で続けた。 「虚戯の攻略法その一。弱点ともなる根っこの可視化、感知を優先すべし」  促されて気付く。結界が張られるつい先程までは見えなかった歪な線を描く紋様(もんよう)。明らかに植物の根に酷似していた。  合成獣(キメラ)の顔から背、足にかけて広がる根は、まるで枷に繋ぎ止められた鎖。自由を封じられた奴隷に変えられた姿が確認出来た。  昴は黒い球体を一瞥する。関連性は不明だが、結界を張られたことにより瘴気を放出し続けることが出来ないらしい。次第に力なく(しぼ)んでいく様は空気を抜いた風船。時間も経たずに忽ち黒い球体は崩壊していき、砂塵(さじん)のような痕跡を残して消失した。  黒い球体が消えたことにより、目に見えて変化が生じた。  理性を失い、興奮しきりに暴れていた合成獣(キメラ)から殺気が消えたのだ。 「お兄さん……?」 《長い長い夢から覚めた気分だな》  穏やかな弘の声が優しく頭に響いてくる。怪物と化した弘は襲うことを止め、往年来の友人に話し掛ける気軽さで昴に向き合った。 《最期に、栞に会わせてくれてありがとな》 「お兄さんは達成出来たんですか。貴方の望みは叶ったんですか?」  あの日、達成感について教えてくれた弘が語った戯言の(たぐい)を昴は今でも覚えている。昴の目から見れば、弘が遂げた姿は死装束(しにしょうぞく)に等しい。死ぬ為に変貌を遂げた生き様を昴は肯定出来なかった。  だが、弘は笑って答える。 《叶うよ。少年が俺の望みを叶えるんだ。それが俺が望んだ達成感、人生の終着駅を迎える為にな》 「木梨は……妹さんはどうするんですか? まだまだ生きていたって違った世界が見えていたじゃないですか」 《……暫く会わない間に少年は変わったな。いい意味で俺よりも前に進んでる》 「生きることは前に進むことだと親友達に教わったんです。人間なんだから、成長して当たり前でしょ?」  言いたいことは説得ではない。深層に潜んだ核心を知りたいのだ。知らなければ悲しむ人間が居る。隠れんぼに没頭し過ぎた男の成れの果てに、昴は不憫(ふびん)な人間だと苦笑した。 「お兄さんに何があったかは、赤の他人でしかない俺には到底分かりませんし、知った所でもう手遅れじゃないですか」 《……はは。少年みたいになれたら俺も良かったのにな》 「お兄さんにはなれませんよ」  割り切った瞬間、昴の中で燻っていた弘に対しての認識を明確に口にした。 「――今のお兄さんは将来なる筈だった俺なんだと思うと、お兄さんの生き方を肯定出来る気がしたんだ」  再びナイフを握り締めた昴は、鈍色(にびいろ)に光る刃越しに自身と弘を照らし合わせた。  淡い光の乱舞の中で、昴はナイフを構えたまま静かに見守っている猫に声を掛けた。 「おい、そこに居るんだろ。ここからどうすればいい?」 「腹は括ったみたいだねー」  余裕のある口調に昴は聞き飽きたと毒をつき、身構えもせず待ち構えている弘を見据えた 。 「まず、一つ目。魂魄から流れる気を顕現した物質に移し、回路を繋げて接続する。君の場合は意識を両手に集中して、魂の存在を知覚し、初めて顕現した時の熱源を感じながら両腕に流し込むのを意識」  浄化屋において基礎となる魂の奔流を感じる技術は身体に染み込ませて、慣れる為に癖を付けなければならない。今朝方の鍛錬では自己流だが繰り返しながら身体に馴染ませ、精神と肉体を直結させることに徹していた。  心臓部付近から温かな熱がじんわりと湧いてくる。形は見えずとも、目を閉じれば感じる緩やかな波が管を通り、両腕の回路を辿りながらなだらかに流れていく。  昴の全身から迸る青い波動が体現し、静かな清流を彷彿とさせた。強力な魂魄のエネルギーに知らずに猫――虎太郎は息を飲み込み、カメラの手を休めずに回している。 「次はどうすればいいんだ」 「虚戯が張る根には、親元になる種子(しゅし)が存在するんだ。そこに魂魄のエネルギーを流し込んで、接続部を断ち切るんだよ」  閉じていた瞳を開き、青く澄んだ視線で弘を射抜きながら、風を切る素早さで昴は詰め寄り、腰を低く屈めながら両手に構えた両刃(もろは)を下から斜め上へと振り上げた。  柔らかな肉を斬る感触が、巨体の中で唯一薄い皮膚で覆われた喉元を斬り裂いたナイフから握り締める両手に、生生しくも色濃く残る。  外側に放出した魂魄のエネルギーを流し込みながら断ち切った種子は、硬質な結晶の形状をしており、両刃が捉えたことにより破砕音を立てながら破片を散らし、砂塵のように宙を舞った。 「――ありがとな、少年」  泡沫(ほうまつ)に消え行く弘の意識は後ろめたさすらない、潔さに満ち足りた微笑を残して昴に感謝を述べ、瞬く間に跡形もなく消え去った。  目の前に怪物だった存在も居ない、虚しさが残滓(ざんさ)となって蔓延っている。  昴は無言でナイフを消し、空を見上げた。  広さを感じさせる理由を目の当たりにした時、昴は一人でに呟いた。 「あの人は星空に看取られて死にたかったんだろうな」  名も知らぬ赤の他人でしかなかった青年が望んだ願いが分かった気がした。  ――個の人間として人生を終わらせたかった。  木梨弘という人間としてのエンディングを現世に残したかった。  記憶にある染みが刻んだのは駄賃(だちん)が不要のプラネタリウム。雲一つない夜空には、連なる星屑(ほしくず)輝石(きせき)を描きながら暗い世界を眩く彩る。星に託した願いが齎す呪いを受けながら、錯覚しながら生を全うした、孤独の檻に囚われた青年は、自身に付けられた重たい枷を取り払った。  ――見返りも要らない世界に別れを告げることを選んで。  結界が消滅したのと同時に猫の気配は消え去り、昴は来た道を一人で迂回した。塵芥(ちりあくた)にしかならない星に見下されながら、昴は手に残る感触を拭い取るように、垢を削ぎ落とす気分で掌中にある表面を擦った。

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