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◇◇◇
閑静な住宅地に建つ一戸建ては近隣の家屋よりも寂れた空気を漂わせ、翳 りが帯びている。汚れた鉢植えには枯葉や雑草が伸び、朽 ちた花弁 が玄関先の庭に散らばっていた。
「ちょっと。恥ずかしいから突っ立ってないでさっさと入りなさいよ」
「……ん? ああ、悪い」
栞に促され家の中に入った昴は、人気のなさに僅かながら躊躇を覚える。温かみのある家とは縁遠い冷めた空気に気圧されそうだが、廊下を歩きながら周囲を見渡しても、時が止まったかに見える荒廃しきった環境が広がっていた。
「なあ、木梨。他に誰も居ないのか?」
「お母さんはお父さんの所よ」
明かりを付けたリビングは、墓場のような妙な静けさに満ちていた。テーブルに置かれた二千円に簡素な書き置き。栞はそれを手に取り、内容も見ずに書き置きを丸めてゴミ箱に捨てた。
「お母さんとお父さんはお兄ちゃんのことを贔屓 にしてて、自慢気にいっつも親戚や近所の人達に語ってた人でさ。あたしはお兄ちゃんよりも勉強が出来た訳じゃないから、っていう理由で駄目な子扱いばっかりしてたの」
ほんの些細な努力も無下 にされた。栞は自虐的に自身のことを語りながら、冷蔵庫で冷やしていた緑茶をコップに注 ぎ、ソファに座っていた昴の側にあるテーブルに置いた。
「どんなに頑張っても相手にされなくて、中学に上がった頃にはお兄ちゃんの地位はウチじゃ一番上。いい大学に出て、卒業して、いい企業に働いて。それが二人にとって当たり前の理想だった」
「でも、お兄さんは向けられる期待に応えなかった」
「……うん。勝手に盛り上がってたのは親だけだったの。お兄ちゃんは高校を出て、そこそこ給料のいい印刷会社に就職した。でも、いつの間にか辞めてて、それから行方 を眩ましたの。あれは冬が近付いてくる秋だった」
弘が消えたのは昴と出会った時期と同じだった。昴は無言で話を聞き入れ、緑茶を口に含んだ。
「お兄さんは木梨の話ばかりしてたっけな。ただの筋金入りのシスコンだったよ、あの人は。お兄さんは最期まで妹との思い出を大切にしてたな」
「……そっか」
カーペットにへたり込んだ栞は静かに泣き出した。声に出せない悲しみが込み上げてきて、抑えていた物が決壊し、次第に嗚咽 が漏れ出る。
「あたしさ、お兄ちゃんに守られてきたから、これからどうすればいいのか分かんないのよ」
「縋る相手が居ないから、か?」
「……っ! うっさい! あたしのこと、知ったように言うんじゃないわよ!」
涙でメイクも剥げて、ぐしゃぐしゃに泣き腫 らした顔で、飽きもせずに昴に噛み付いてくる栞の姿に、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ははっ」
「な、何笑ってんのよ!?」
「別に木梨は木梨らしく、今まで通りに勝ち気で居ればいいんじゃないか? さっきみたいに噛み付いて来てくれないんじゃ、なんか、こう、しっくり来ないっていうか。めそめそしてる木梨は牙を抜かれたライオンみたいだし」
「だ、誰がライオンよ!」
顔を真っ赤にしながら恥ずかしさやら怒りやらで噛み付いてくる栞に、昴は心底安心しきっていた。
……木梨なら大丈夫か。
弘が話していた栞のあれこれを重ねながら、昴は微かに口元を緩めていた。
「頼りになるか分からないけど、俺とか彼奴等なら些細なことでも相談に乗れるぞ。木梨の性格なら椙野のビビり克服にも適任だし」
良太郎の名を出した途端、吠えてばかりいた栞の表情はぴしりと硬直する。
「……ねえ、宮盾。あたしの部屋に来て、引かない?」
「は? まだ行ってもいないだろ……?」
「あ、あたしの気持ちが収まらないの!」
「分かった分かった。取り敢えず行くから、その誤解を招く言い方はやめろ」
指摘されて改めて自身が言ったことを思い出し、赤く熟 れた林檎 のように顔を真っ赤にしながら、栞は激しく吠えては噛み付いてきた。
……引かない約束は守れないかもしれない。
昴は女子の匂いに満ちた整理整頓の行き届いた栞の部屋に入った瞬間、言葉を失い、表情が引き攣ってしまっていた。
ベッド側に貼られたZenのポスターや蝶々花伝のポスター、ブロマイドすらアイドルオタク並のグッズに満ちた空間に昴は言葉が出なかった。
「……引いたでしょ?」
「……親友の顔に囲まれてるのは引くしかないだろ」
素顔は誰もが見ても美少年である良太郎の仕事について知っていた昴だったが、いざ見ると引いてしまうのに無理はなかった。
栞は所謂 ガチ勢らしい。蝶々花伝がプロデュースするブランド商品が綺麗に、尚且汚れが付着しないように保管している。
「……あんな近くに本人が居るのは知らなかったけど、あたしはZenのお陰で自分に自信がついたっていうか。変わる切欠をくれた恩人なの」
受験シーズンに真っ只中だった冬に近付く季節、偶然手に取ったファッション雑誌にZenが居た。
性別不詳、年齢不詳、メディア露出は無しのミステリアスな佇 まいに惹かれ、次第に彼が作り出すデザイン一つ一つに魅入 られ、世界が広がった。唯一存在する心の拠 り所になりつつあったのだと、栞は語った。
栞は普段から身につけている蝶がモチーフになっているペンダントを外し、昴に見せた。
「これ、Zenが初めてデザインしたアクセサリーでね。あたしにとってお守りみたいな物なの」
蝶々花伝が主催する初のイベントで配布されただけの量産品は、比較的安価な素材で出来た代物 でしかない。
蝶が美しく羽ばたけるまでの道のりは、醜い姿からの変貌への一途だ。昴は見慣れたデザインの指輪があることに気付き、かつて良太郎が広げていたスケッチブックに描かれた一枚の絵を思い出す。
「……彼奴も変わりたかったんだろうな」
感情が入り乱れた雑踏 の中を彷徨 い歩き続ける小さな背中に、昴は寂しげな色を残した。
どれ程必死に変わり身を作り上げてきたのか、貼られたポスターや雑誌の特集を見れば、自身が抱えるぐちゃぐちゃに掻き乱された激情の中で、小さく蹲っているように感じていた。
「……彼奴は人見知り激しいビビりだけど、誰よりも器用で賢い男なんだよ。だから化けられた。それが椙野がZenで居られる理由なんだろうな」
昴が知っているのはチビで生意気な『椙野良太郎』という男だけだ。
知らない顔とまでは行かないが、違う顔であることに変わりない『Zen』の姿に、昴はマイナスな思考を振り払った。
「あのチビのことはあたしはよく知らないけど、これからは知れるんでしょ」
「……ああ、そうだな。知れるよ、きっと」
覗いてはならない闇があっても、それが知りもしないまま関係を続けている現状を打破せねばならない導火線となり得るならば、甘んじて受け入れよう。
昴は今の自分を作ってくれた親友達の顔を思い浮かべながら、シャツ越しに御守りを撫でた。
……願いは呪い、か。
真冬が込めた想いを知る時を、はたして現時点での昴は望んでいるのか。自分のことなのに昴は分からないと雑念を振り払い、御守りから手を離した。
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