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◇◇◇
時刻は夜中の九時を過ぎている。夜行性である猫は寝ることもせずにだらけた態度でカーペットに寝転び、通話中でも器用に猫じゃらしを動かす中年男性の巧 みな手捌 きに弄 ばれていた。
でっぷりと肥 えた雌猫がのそのそと猫用のベッドから出てきたかと思えば、堂々たる風格で真新しい座布団に鎮座 している。
「おい、淀殿 。俺の座る場所を取るなって」
「ヌァーゴ」
冷蔵庫で冷やしたノンアルコールのビールを手にしてダイニングに戻ってきた秀吉は、ガタイが良く男らしい外見に似合わないエプロン姿だ。松村家の家事を全 うする長男は既に板についており、先程までは翌朝の支度 から何まで終わらせてきたところだ。
通話を終わらせた父・勝家 は、用意周到のいい息子から当たり前のように缶ビールを受け取り、プルタブを開けて一気に煽った。
「で、合成獣 事件は無事に解決ってか?」
「取り敢えずは、な」
「ん……? 何だよ、歯切れ悪ぃな」
「明日には鳴鴉のとこに行かなきゃなんなくなったんだよ……」
気が滅入 ってしまっているのが丸見えだ。秀吉は苦笑を浮かべながら、淀殿の肉球をぷにぷにしていた。
表向き勝家の仕事は国家公務員とされてはいるが、実際は浄化屋を取り締まるべく出来た部署のトップだ。松村家では秀吉しか仕事内容を知らず、唯一情報を伝え合うことが出来る。
勝家は、さも当たり前のように気を許している秀吉にだけ話を続けた。
「研究者を名乗る若い男を捕 えたらしくてな。木梨弘が虚戯になった要因として関わり深いらしい」
「自然でなったんじゃない、人為的 な物ってことか? まあ、無理な話じゃねぇよな。寧ろ可能な範囲だろ」
「その筋の人間ならだな」
半分以下になった缶ビールをテーブルに置き、勝家は思い出したように秀吉に話を振った。
「ところでだな、黒石 から面倒な話は振られてないだろうな」
「ん? 別に面倒な話題なんつーもんはねぇだろ? だって、あの変態仮面は結構な間抜けだぞ」
「……秀吉が言うと信憑性 が増すからやめてくれ。一応あれでも神だぞ。それの面子 を潰す気か」
「罰当たりしない程度にやるからどうにかなるだろ」
笑いながら悪びれもなくけろっとしている息子の無邪気な恐ろしさに、勝家は思わず身震いをした。
「取り敢えず、宮盾が浄化屋になったんだから一つは解決済みだな」
「全く。お前が粉砕骨折でもされそうになっても知らんからな」
「その前に俺が宮盾の関節外すから大丈夫だよ」
「……お前が言うと笑えないから」
からからと笑っていた秀吉だったが、一度浄化屋関連の話を辞め、風呂場から自分を呼ぶ妹・篤 の声に返事を返し、腰を上げて立ち上がった。
「あーにーじゃー!」
「わーかったって! 今行くからそこで騒ぐな! あんまり騒ぐとご近所さんの迷惑になるからな!」
大声で叱る秀吉も人のことは言えないと勝家は口には出さずに呆れながら、猫じゃらしを捕えた慶次 にぱっと自由に遊ばせた。
「うぅ……パパー……」
仕事場として使っている書斎 から出てきた成実 は、ホラー映画さながらの這いずり方で力尽きた表情をしている。歴史評論家の傍 らで大学の客員教授をしてる身の嫁だが、集中力が切れた後の行動は大抵どろどろとしたまま床を這いつくばっているのが治らない癖だ。
「あ、ビールだ! ちょーだい!」
「あっ」
飲みかけのビールを一気に胃に流し込んだ成実だったが、飲み終えた瞬間眉根を寄せながら缶を睨んだ。
「あれ? これ、ノンアル?」
「こっちは明日も仕事があるからだ」
「え〜! お酒がいーのにー!」
駄々を捏ね始めた成実の相手を押し付けられた気がしない訳もなく、束の間の自宅での休息に勝家は満足感に満ち足りた時間を過ごす。
変わらない家族の姿に安堵し、漠然 とした不安すらも押し退 けた。
◇◇◇
極めて一般的な男子高校生にしては几帳面に整理整頓が行き届いた、コンパクトな印象を与える自室には、画材がバラけることなく一箇所に纏められ、小難しい内容の専門書や画集、純文学など等のジャンル雑多な書籍各種が番号表示で振り分けられ、取り出しやすく並んでいた。
パソコンで蝶々花伝公式アカウントにて次回のイベントやメンバーのテレビ出演についての告知をツイートし、眼鏡もなければ至極ラフな格好で広報活動に勤しんでいる良太郎は、溜め息を一つつき、ベッドを占領 している十一歳も歳が離れた実兄を侮蔑 を込めて見下 した。
「りょーたんのその表情も可愛い。興奮する」
「息をするように写真を撮るななのです」
色素の薄い良太郎とは対照的な漆黒の長髪を後ろで結わえた凛太郎は、野暮 ったい黒縁眼鏡の奥に嵌められた淡白めいた生気のない双眸を、普段よりも幾分か爛々と輝かせている。
だらしない黒ジャージに女児向けアニメのキャラクターがプリントされたTシャツを中に着込み、凛太郎は感情が読み取りにくい表情のまま良太郎のベッドを椅子代わりにしていた。
「バーサーカー君の活躍ぶりは凄かったね」
「宮盾氏なら勝つと思ってましたから、想定内の結果なのですよ」
「うん、そりゃそうだ。バーサーカー君は最強だからね」
「いや、僕は最強とは言っていないのですが」
自信に満ちた凛太郎の幼稚な発言をばっさり切り捨て、良太郎は写真立てに収まっている学園祭最終日に四人で撮った写真を一瞥し、憂いげに長い睫毛に縁取られた瞼を伏せた。
「彼は己 の弱さをよく知り、学び、道を切り開く男ですよ」
――僕『達』とは違う。
劣等感は微塵 もない。あるのは我儘に期待を寄せるだけの身勝手極まりない願望だけだ。
過ぎ去った呪縛に囚われたまま生を貪る矮小 な人間でしかない弱さに傲 った、変化の兆 しに恐れを抱くことしか出来ない最底辺の類に甘えている。
良太郎は申し訳なさに悔しさから歯軋りをし、格好悪い表情を見せまいと凛太郎の視線を避けるよう顔を逸した。
「りょーたんは今のままでいいよ」
「…………」
「りょーたんはりょーたんでしょ。なら、お兄ちゃんはそのままのりょーたんで居て欲しいかな」
急激な変化を望まず、平行線を歩む凛太郎の言葉は理解出来る。
黙り込む良太郎をそっとするよう部屋を出ていった凛太郎に対して、抗 いの意思を込めて低く吐き捨てた。
「だからって、いつまでも殻に閉じ籠もっていてもいい訳じゃない」
過ぎた出来事だと思わない。良太郎は解消されずに勢いを増す悔しさに、奥歯を噛み締めながら耐え忍ぶ。
出し切れない本心を否定され続ける瞬間から、幾度となく芽生えた抱え切れない怒りの錘 を、ただただ抑え込んでは熱を孕ませたまま、果たせなかった在りし日の約束を握り締めていた。
◇◇◇
変化を望まないことが正解か。
二十八にもなった今でも、みっともなく生きる大人の端 くれでしかない凛太郎は、表面に出さないまま自問自答を繰り返す。正当なる主張は必ずしも第三者が集まった時点で噛み合うことなく、反発材料と化すのだ。
飽くなき思考の財宝の中で、凛太郎は漠然とした人生ゲームを楽しんでいた時期があった。既にそれは過去形だ。あるべき筈だった目的のマスは全て書き換えられたからだ。
読みが外れ、想定外の出来事が立て続けに起きた。それは劇薬 に等しい刺激的なスパイスの混入。凛太郎はただそれを受け入れようにも、あまりにも五感を麻痺させる強烈な印象を、直接皮膚に擦 り付けられたような感覚だった。
良太郎の部屋から少しの距離がある自室の中に入り、礼儀正しく座る淑 やかな少女を視界に捉えて認識し、滑車の付いた椅子を引いて座った。
「凛太郎さん。あまり良太郎君を追い詰めるのは頂けませんよ」
「弥生 ちゃんには分かんないよ。まず、僕はりょーたんを追い詰めてなんかないから」
「いいえ。無意識の内にやっているかもしれないでしょう」
「やってません」
垂れ目がちな双眸に妖艷な微笑を湛える少女――弥生は、たおやかな姿勢を崩さずに凛太郎の無自覚な悪癖 をぴしゃりと嗜 める。
「あまり良しとはしませんが、ご自身の考え方の押し付けも良太郎君にはお辛いだけかと」
「やってたら悪いと素直に受け入れるけど、僕はりょーたんには今のままで居てくれたらそれでいいんだよ」
「変化を望んでいても……ですか」
価値観の相違は些細な事柄でも大きな弊害に成り得る。弥生の指摘を軽く無視し、十年前に撮った家族写真を見て、凛太郎はいつになく重く暗い表情を浮かべ、溜め息を吐き出した。
「……上手く行かないな。変わるってなんなんだろうね」
変わらないことが幸せだと凛太郎は思う。
しかし、どれだけ囲おうにもそれは自己満足で出来た薄いバリケードでしかない。強さを手に入れた弟には効果はないのだから、無意味な行為を繰り返す道化に成り下がった愚かしい自分に凛太郎は口惜 しさを色濃く滲ませていた。
「ご自身を責める必要はありませんよ。凛太郎さんは凛太郎さんが思う人生ゲームを満喫すれば良いのです。さすれば、きっと素敵な時間旅行が待っていることでしょう」
桜色に染まった唇が囀 る金糸雀 のように美しい声色を紡ぎ、落ち着き払った冷静な佇まいを一層神秘的な物へと磨き上げられていく。極めて一般的な女子高生にしては大人びた口調が弥生を更に美しく魅せていた。
「それよりもさ、弥生ちゃん」
「なんでしょうか」
「いつから僕の部屋に居たの」
「もう、今更そんな無粋 なご質問はお辞めください。私はいつでも凛太郎さんのお側に居 りますよ」
ペットの中でも来客に煩いポメラニアンの愛太郎 が吠えなかった。凛太郎は無言で椅子から立ち上がり、閉め切られていたカーテンを開け、露見した証拠にあからさまに顔を青褪めさせていた。
「これは空き巣の典型的な入り方だよね」
「うふふ。愛の為ならばどんな手段も選ばないのが私の信条ですよ」
鍵の付近に空けられた三角窓から隙間風が吹いている。半神 の娘である人間がした人道から離れた行為に、凛太郎は寒々しさに凍 えていた。
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