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 ◇◇◇  弘が使用していた高校生時代のジャージを借り、風呂まで頂いた昴は、携帯電話を見下ろしながら、未送信フォルダに入れたままのメールが気掛かりだった。  送ったところで真冬から返事が来るとは限らない。自己満足で身勝手極まりない行いだと、昴は御守りに手をかけたが、振り切れない戒めがまた一つ自身に降りかかる。  ……俺の目的は。  願いは三つまで。叶える為ならそれ相応の力が必要なのかもしれない。それ故に知らないことが多く、久しく感じていなかった新鮮味のある苦痛に昴は、思い出して御守りから手を離した。 「……縋ってばかり居たらいけないんだよ」  分かっていても意味がない。昴の中枢(ちゅうすう)を作ったのが紛れもなく真冬だ。だからこそ迷い、惑い、抜け出せない。伸びた影に絡め取られたまま、成長した自分と幼い自分の境界に挟み撃ちされる。  強さを履き違えてはならない。そう言っている口の動きが否応(いやおう)なく読めてしまい、昴は答えのない(しるべ)がまた一つずつ立ちはだかるのを、難度の高い試練だと認めた。  ……なら、迷う必要はない。  昴は未送信フォルダに保存したままだったメールを消去した。  依存して生きながらえてきた弱さの象徴を捌け口にした言葉の羅列(られつ)に見切りを一度付け、昴の中で重たい荷物が軽くなった気がした。 「さっきから携帯と睨み合っちゃってたけど、何で急にすっきりしてんの?」 「木梨……って、すっぴんでも変わらないな」 「メイクは基本ナチュラルにするって決めてんの。何、変化なくてつまらなかったって言いたいの?」  じろりと風呂上がりの栞に睨まれ、頬の筋肉が引き攣った。昴は心の中で「短気だな」と反抗しつつも、逆らったら後が怖そうだと無駄口はやめる。  リビングの惨状に見慣れてしまった昴だったが、寝床として与えられたソファの窮屈さに異議の一つや二つはあった。  しかし、栞が持ってきたタオルケットのせいで既に寝床は問答無用で決まっていたのが解せなかった。 「アンタにも事情が沢山ありそうよね」 「かもしれない。それが俺が選んだ道だからな」 「厄介事は嫌いじゃないの?」 「嫌いではない、のかもな。俺は多分それを心のどこかで楽しんでるんだと思うし」  まだ断定出来ない隠された深層心理を知れたら良かったのだろう。追い求めるべき探求(たんきゅう)(おの)に向けられ、空っぽの世界を思い起こし続けた。  一面に広がる情報を司る電子機器や、山積みにされた膨大(ぼうだい)な知識を有する本の(とりで)。一人になる時は必ずといっていい程に過去の記憶にトリップし、現在との判断がつかない、言い知れぬ幻覚作用が働く。昴はその中で快楽といった感情について不可解な物だと未だに決めつけていた。  唐突に黙り込んだ昴を横目に、栞は溜め息をつく。 「アンタさ、疲れてるでしょ。寝るならさっさと寝なさいよ」 「……ああ、悪い。そうするよ」  余計な詮索もせずに栞はリビングの明かりを消し、去り際に昴を振り返った。 「お兄ちゃんに会わせてくれて、ありがとう。アンタがお兄ちゃんを殴ってくれて、なんだかすっきりした。じゃあ、おやすみ」  照れ隠しのつもりで暗くしたのか、栞は(がら)になくつんけんしていない声音で昴に感謝を述べ、静かにリビングから出ていった。  取り残された昴は驚きを隠せずに居たが、胸に込み上げてくる温かさを抱きながら、窮屈なソファに身体を預け、遅れてやってきた睡魔に身を委ねた。  ◇◇◇  (かすみ)かかった視界が一面に広がる。見覚えのある感覚が脳裏(のうり)()ぎり、次第に深い眠りにいた意識がすーっと浮上していき、眼前(がんぜん)に荘厳なる神聖さを醸し出す神宮が飛び込んできた。  石灯籠(いしとうろう)に灯る優しい明かりが夜の(とばり)を照らし出す。水面に浮かぶ逆さ月は美しい風情(ふぜい)を齎し、昴は再び来てしまった境界に喫驚(きっきょう)していた。  橋の上に人影を見つけた。翔馬ではない、年若い青年の後ろ姿だ。  昴の足が迷うことなく橋へと向かい、導かれるまま歩みを進めた。 「……貴方は」 「よう、少年。また会ったな」  虚戯と化し、昴の手により滅せられた栞の実兄――弘が、明朗快活(めいろうかいかつ)然とした笑みを浮かべながら、親しげに手を挙げた。  昴はあまりの衝撃に立ち尽くし、訳も分からない事象に首を傾げた。  ……お兄さんは死んだ筈。  肉体が崩壊する虚戯に成り果てた、人間の身体を捨てた怪物。  しかし、目の前に居る弘の身体は合成獣(キメラ)ではなければ、人間の体を持っていた。  昴が言葉を失っている最中に、背後から聞き慣れた翔馬の声が掛けられた。 「間抜けな(ツラ)を晒して何突っ立ってるんだ、昴」 「し、翔さん!」  幽霊でも見たかのような締まりのない昴の顔を、可笑しそうに翔馬は口端を歪めてくつくつと不敵に笑っている。明らかに馬鹿にしていた。  昴は苛立ちを覚えながらも冷静さを取り戻すべくわざとらしく咳払いをし、多幸感に満ちた表情で上空を見上げている弘に目をやった。 「木梨弘。お前の魂が天界に行けるのは僅かな残滓(のこりかす)だけだ」 「ははっ。それは知ってる。だからこそこの手向(たむ)けは天国への片道切符だ」  空に浮かび上がる満天の星空が、眩くも儚い輝きを照らしている。弘は美しい星空に、いましがたの夢物語が見せる小さき幸せを噛み締め、広がる景色を目に焼き付けていた。 「これで俺の魂は消滅する。俺が望んだ通りのエンディングだ」 「絶対的な死を望んだ理由(ワケ)って、なんだったんですか」 「……んー。そう、だな。俺がこれ以上の間違いを犯さない為かな」  漠然とした理由に昴は拍子抜けをした。大きい理由がなければ、純粋に己の消失だけを望む。破滅ではない、この世から去るべき手段を怪物に成り果てた経緯を利用して、弘は選んだのだ。  ……普通じゃない考え方だな。  昴は凡人には理解し難い弘の考えに理解を示した。 「お兄さんには辛いだけだった、ってことですよね。周囲の人間に溶け込めないはみ出した人間だったから」 「流石だな、少年」  白い歯を見せながら豪放(ごうほう)に笑う弘は、心なしか嬉しげだった。夜空に見下され、開放感に満ちた弘は語る。吐き出せなかった感情論の一端を、面白可笑しく笑い話のように話し出した。 「俺は別に優れた人間じゃない。どちらかと言えば劣った人間だ。それを知ったのは栞が生まれた時だった。両親の態度がさ、おかしくなって、気が付いたらネジ曲がって、歪に歪んでいった」  先に生まれた自分を過保護に構い出し、囲い込もうと両親は躍起になった。後から生まれた娘を(ないがし)ろにし、分かりやすく愛情の薄さが伺えたのだ。  弘は自分の存在意義に疑問を感じ、偶然知り合ったのが、無償で魂に関するカウンセリングをする浄化屋に声を掛けられたのが発端(ほったん)だった。それは弘が小学四年生になったばかりの四月。それが始まりだ。  環境の異常を作り上げるのは、魂魄が放つエネルギーが要因を(にな)っている。人格形成から、周囲を害する強大な負のエネルギーが家庭を中心に暴走していた。  弘は事の始まりを淡々と、事細かに語りながらも、狂った家族の形を笑い飛ばす。 「妹だけが当てられなかった。普通の兄妹になれたのに、彼奴等は栞と俺の仲を裂こうとするんだ。まるで大事な玩具(おもちゃ)を奪われて癇癪(かんしゃく)を起こす子供みたいに、引き裂かれれば彼奴等の趣味で好き勝手されたさ」  諦め半分に弘は詳細を(ぼか)して語るが、過去を思い出してなのか、軽かった口は唐突に固く閉ざされた。  再び話し出すのを待つ昴の眼差しに弘は苦笑を浮かべ、首の後ろを掻きながら何かがすっきりと片付いた表情に変わる。 「少年も俺と同じ、普通に憧れた異常者の一人なのは、初めて出会った日から運命めいた物を感じたっけ」 「正解のない普通はただの異常だ、異常が異常を求めても意味がない。親友から俺はそう教わりました」 「そうだな。普通の枠組みが曖昧だ。異常だよ、全部がさ。だから俺は普通になりたかった。家族で泣き笑い、時に手と手を取り合える関係に憧れた。存在するだけで異常を振り撒く人間には無理な話だったけどさ」  異常で回り続ける世界の(じく)は、根本(こんぽん)から常軌を逸していた。それが普通だと錯覚した正常な人間程異常である故に、個々の人間は一つでも認識が出来ない違いを異常と真っ先に判断し、排除しようとする。それを繰り返し、円滑(えんかつ)に時間を進め、矛盾で交錯した世界を作り上げるのだ。  世界の理に昴は魂が還る天界の道を仰ぎ見て、独り言を呟いた。 「厄介な神様も居たものだな」  美しい景色が酷く曖昧(あいまい)な物に見えた。魂のリサイクルをするだけして、用済みになった魂を処分する。弘は処分される側の魂魄だ。  残った意識の中で、仮初(かりそめ)の夢を見せる。悪い神だ。昴は否定する訳でもなく素直にそう思い、消滅時効の時間が迫ってきた弘を見やった。 「俺がもし変化することなくあのままだったら、お兄さんみたいに消滅することを選びますよ」 「でも、少年は変われただろ」 「そうですね。お兄さんのお陰で苦手だったプルタブを攻略出来ましたし」 「あの時は一緒にベタベタになったな。色んな匂いが混ざって臭かったよなぁ」  姿形のあった弘の肉体は光の粒子と化して崩れていき、空へと舞っていく。ほろほろと崩壊の一途(いっと)を辿る弘の身体は、下肢から順を追って粒子となり、虚無の中へ消失していく。  天界に渡ることの出来ない魂魄は輪廻の環を(くぐ)れない。  哀しき最期を終えようとする弘の姿に、昴はいつか見せたぎこちない笑顔を作り、見送った。 「さようなら、お兄さん」 「ははっ。へったくそな笑い方だな。じゃあな、少年」  快活に笑いながら、弘の魂魄は消えた。虚しく残る生々しい感触がまた両手に舞い戻った気がした。夜空に帰化(きか)した粒子は吸い込まれ、静けさを落とす。  弘が居た場所を見詰め続ける昴に、翔馬は無言で肩を抱いた。 「悲しいか」 「……はは。ほんの数時間話しただけの関係だったのに、なんでだろうな。こんな感情は分からないって」 「お前に影響を与えた人間だからだろ。だから覚えてるんだ。だから感じるんだよ。後悔とやるせなさ、理想を叶えたかった切望。全部をひっくるめて悲しんで、(いた)む必要がある。ここに立つからには、な」  現世と天界を分かつ境界に幾重にも渡って足を運んできた翔馬だからこそ、見慣れた光景や瞬間に死を見届ける重大さに言葉の重みがあった。  不思議と涙が出なかった。解放を望んだ弘の顔はあまりにも晴れやかで、未練を断ち切った先に待っていた存在証明に、喪失感は微塵も感じられなかった。  弘は異常だ。何も悪さしたことがない歳の離れた妹の存在を拠り所にし、固執(こしつ)し、縋って生きてきた。  枷を嵌められた獣に成り果てた自分を知り、際限(さいげん)なく溢れ出る欲望に絶望を覚え、弘は本物の獣になることを選んだ。ある筈だったマスに駒を進めるのをやめ、人生が用意した遊戯(ゆうぎ)から離脱する。  弘の最期はあまりにも自分勝手で、自己満足に過ぎない、最大限の我儘(わがまま)で成り立った死際(しにぎわ)だった。  昴は少しだけ、それが羨ましいと、人知れずに思っていた。

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