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 ◇◇◇  頭の芯が冴え渡る心地の良い目覚めを、久方振りに栞は経験した。不思議な感覚を夢の中で体験する。未だにその感触が色濃く残り、居ない筈の兄の気配を肌身で感じていた。  携帯電話に手を伸ばすが、悲しくも充電が切れている。昨夜は充電器に繋ぐのを忘れて寝たらしい。無造作にテーブルに置かれたままの携帯電話に、充電器が付属したスタンドに設置し、栞はカーテンを開いた。  眩い朝日の光に目を細め、気持ち良さに意識が更に正常値に引き上げられた。  栞は掛け時計から時刻を確認し、リビングに居るであろう昴の元へ向かった。 「宮盾……って、あれ?」  リビングに足を踏み入れた時、ソファに居ると思っていた昴の姿はどこにも居なかった。丁寧に畳まれたタオルケットがクッションの側に置かれ、テーブルにはルーズリーフの切れ端で書かれた書き置きがある。  栞は瞬きを繰り返し、驚いていたが、冷静になって書き置きを手に取り、内容に口元を緩めた。 「……何よ。馬鹿みたい」 『お兄さんからの伝言  愛しの妹へ  いつの日か隣に大事な人が出来た時、お兄ちゃんは誰であろうと一回は認める。  栞が好きになった人なら一回は歓迎する。だからお兄ちゃんは空の上で厳しい審査をすることを決めた。  だから俺よりも絶対に幸せになれよ  お兄ちゃんより』  馬鹿馬鹿しい手紙に栞の瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。弘らしい文面に、夢の中で感じた頭を撫でる優しい感触を思い出し、栞は膝から崩れ落ちる。  涙が溢れて止まらなかった。胸に込み上げてくる悲しみが、引き戻されたのかもしれない。  しかし、何故だろう。  悲しみの中で暖かな春の陽だまりのように、喜びの芽が顔を覗かせている。  悲しみと喜びが混ざり合い、栞は朝からだというのに暴発した感情をぶつけ、声に出して泣いた。  もうこの世にたった一人の兄は居ない。唯一無二の味方は居なくなった。  だが、それは狭い檻のように窮屈な箱の中での変化に過ぎない。栞は袖口で涙を拭いながら、決意を新たにする。  閉ざされた鍵は開いたのだから、弱虫では居られないと栞は泣き止み、両手で頬を叩いた。 「よっし。いつまでもめそめそしてなんか、いられるもんですか!」  晴れた空がとてもいい物に変わった。栞はこれまでの鬱屈(うっくつ)とした暗い影を捨て、希望に満ちた輝きを手に立ち上がる。  あるのは背中を押してくれた亡き兄の頼もしい手の温もり。栞は久し振りに気持ちに余裕が生まれ、身体が軽くなったことに多幸感を感じていた。  ◇◇◇ 「松村ー。おかわり」 「……お前はうちの釜を空にする気かよ」  朝早くから栞の家を出た昴は早々に秀吉に連絡をし、我が物顔で朝食を無遠慮に頂いていた。  味の染みた煮物やほうれん草の白和え、程よい甘さの厚焼き出汁巻玉子、油揚げと葱の入ったワカメの味噌汁に、余っていた塩鮭を貰い、5杯目になろうとしているご飯を容赦なく昴は催促している。  勝手に押し掛けても甘過ぎる秀吉は、小言(こごと)を言いながらも茶碗に追加分をよそってくれる。昴は茶碗を受け取り、再び箸を進めた。 「ぬお! 昴殿ではありませぬか!」 「お邪魔してるよ。篤ちゃん、おはよう」 「はようでございます!」  自主トレーニングとして欠かさず行っているランニングから戻ってきた篤は、長いポニーテールを振りながら可愛らしい顔を嬉しさから(ほころ)ばせ、風変わりな喋り方で昴に元気よく挨拶をし、パタパタと風呂場へと走り去っていった。 「勝家さんは仕事か?」 「ああ、朝から仕事だよ。忙しいよなー。ご立派なお役人さんは」 「成実さんは缶詰か。さっきから、書斎の方で変な声聞こえるし」  ホラー映画さながらの呻き声や慟哭(どうこく)、嗚咽に似たおどろおどろしい声が禍々しさを帯びて漏れ出ている。  魑魅魍魎(ちみもうりょう)でも閉じ込めていそうだ。妖怪みたいだと昴は笑ってしまった。 「お前もお疲れさん」 「初めてにしちゃハードだったぁ。まあ、ほぼノーダメでクリアしたからそれでいいけど」 「相変わらずのゲーム脳だな」 「真新しいVR体験でもした気分だったな。今でも思い出すだけで肉を引き裂いた生々しい手の感触が蘇るよ」 「……飯食いながら言う台詞じゃねぇよ」  肩を(すく)めて呆れ笑いをした秀吉の声音は偉く優しかった。  彼なりの(いたわ)りなのだろうと独自の解釈で昴は認識し、空になった茶碗を食卓に置き、気の抜けた表情から打って変わった真面目な顔で口を開いた。 「なあ、松村。今日の昼飯は何だ」 「(メシ)(たか)りに来ただけならさっさと帰れ」 「おやつ込みなら帰るから。で、昼飯は?」 「……五目あんかけ焼きそばの予定」 「おっし。流石土曜日だな。豪勢でありがたい」 「あー……自分の性格が嫌になるわ。馬鹿野郎」  落胆しきっている秀吉の姿にしてやったりとほくそ笑んだ。  ◇◇◇  邪鬼(じゃき)が消えた藤咲市内に薄ら寒さはなくなり、窓を全開に開け放って換気をしたような爽快感が包んでいる。  ジェシーとクラウドのみを連れてクリストファーは軽い足取りで散歩をしている。昨夜は埋め合わせと称して(くれない)と共に部屋で過ごしたが、先に酔い潰れた紅の相手をする方が楽しめたのも事実だった。  今日は(すこぶ)る機嫌がいい。クリストファーの上機嫌ぶりにジェシーとクラウドは心底呆れ返っていた。 「おや? 貴方は……」 「お前が天宮(あまみや)クリストファーか」  葬儀屋のような鬱々(うつうつ)とした格好から不釣り合いな、荒くれ者を彷彿とさせる獰猛(どうもう)な出で立ち。  鬱蒼(うっそう)とした前髪から覗く翡翠の瞳には見覚えがあった。浄化屋・峰玉の所長にして、最年少で最高位に上り詰めた男――黒栖翔馬だ。  クリストファーを守るように前へ出るクラウドを目で制し、にこやかな微笑みを返した。 「お噂はかねがね、これまでの類まれなるご活躍はよくお聞きしますよ。それに、また貴方とお会い出来る日が来るとは思いませんでした」 「色々と嘘くせぇな」 「社交辞令みたいなものですから、偽りを交えて話すのも悪くはないでしょう」 「……とんだ猫被りも居たもんだな」 「ふふ。それは誉め言葉とお受け致しますね」  丁寧な口調とは裏腹に冷え冷えとした素肌を突き刺す冷気に、クリストファーから漂う恐ろしい顔が垣間(かいま)見える。  翔馬は怖じ気づくこともなく冷静で、唐突に一つの提案を口にした。 「お前はそっち側に居ちゃいけない人間だろ。どんなに人間に弄ばれ、使い捨てられようが、お前は一人の人間だ。いつか必ずお前の力が必要になる。その時は浄化屋に入れ」 「…………」 「聖女にばかり治癒されてるだけじゃ魂魄は完全に修復しねぇ。然るべき場所で治す必要がある。特別な魂魄持ちは特にな」  見透かしたように言う翔馬の口ぶりに上機嫌だった気分は最悪だ。クリストファーは表情を消し、(きびす)を返して来た道を戻ろうとした。 「ワタシは道具と変わりませんよ。貴方が思うよりもワタシはそこまで大層な人間ではありません。この身は全て、彼に捧げると誓いましたから」  冷えた心には響かない無駄な戯言をクリストファーは一蹴(いっしゅう)し、ざわつく胸の内が嫌になると理不尽にも苛立ちを募らせていた。  求めてはいない筈の道を無理矢理(しる)してくる男の視線が、普段から向けられる(よこしま)な物とは異なることに、どうしようもないと舌打ちをした。  ……やめてくれ。  クリストファーの苛立ちにジェシーはいち早く気付いたが、何も言わずに口を閉ざしたまま、翔馬を振り返り、悩んだ末に言葉を選んだ。 『クリス。帰ったら(ベニ)に構ってあげれば大丈夫だよ。一杯甘やかして、撫で撫でしてあげる。それでいいじゃん』 「ありがとう、ジェシー」  気を紛らわす為とはいえ、紅の話題を振ればクリストファーの顔色は良くなる。ジェシーは満足げに頬を緩ませながら、小馬鹿にしてくるクラウドの手を払った。

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