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 ◇◇◇  刺激に慣れれば次第に感覚は毒に侵されるよう麻痺(まひ)していき、抗体という名の防御壁を鎧のように纏う。それが普通であるならば、最初から居た場所は『普通』と呼べるのだろうか。  ふとした隙間(すきま)を縫うよう訪れる錯覚に似た白昼夢は、(とりで)の中しか知らない鎖と錠で閉じ込められた鳥籠(とりかご)だ。  飛び方を知るには知識が必要になる。目で見、機能の作りを知り、自由を手にする権利があることを脳にインプットしなければならない。  身の丈を超える本の山は知識を蓄える為に築かれた鉄格子(てつごうし)だ。本で得た知識だけでは知ることの出来ない情報を仕入れるべく、用意された大小様々なモニターには、様々なタイプの人間が映し出され、善人と悪人の表裏一体さを理解するよう幾重(いくえ)にも延々と高低差のある波を繰り返す。  鳥籠で得た知識は欲望を孕むには十分な刺激だった。芽生えた好奇心の中で、生まれたのは一抹(いちまつ)の疑問。決まった時間に差し出される料理は誰が作ったのだろう。  スロープ状に作られた小窓には向こう側の世界があるのか。一日三回に分けられて扉が上下し、バランスの摂れた食事がスライドされる。盆の下には鉄板が敷かれ、それに乗せればスムーズな挙動を可能とさせる。世辞にも人間が人間に与える食事の態勢ではない。次第に疑問は己に向けられるのは、記憶の中で霞む幻想が招いた夢物語に過ぎなかった。  ――機械的な日々が普通だった。  打開(だかい)する方法を知らずに、無意識に求めたのは家族という偶像だ。  ありもしない空間がぽつりと存在する。存在感は日増しに目が(くら)むような希望の光が満ち、足を踏み入れた瞬間、初めて思い知る。  甘い汁の味を啜ったら、二度と戻れはしない幸福を(うた)った麻薬だ――。  決して手にしては行けなかった居場所は、最初からなかった。椅子取りゲームと同じように、既に用意されていた椅子は外される。光が差したのは、結果的にただの錯覚に過ぎなかった。  ――鳥籠の中が全てだったから。  狭い格子の檻に絡め取られた先は、眩しい空の青さを焦がれて死ぬ墓場なのだから。  ◇◇◇  映画の内容は大きく分けて三部構成に作られ、血塗(ちまみ)られ愛憎(あいぞう)に濡れた時代劇調の物語で進行する。原作は発行部数五十万超えは当然と言われる作家が手掛ており、映像化もこれまで多数の作品がなっている大御所だ。  舞台経験が豊富な役者を揃えていることから、演技は申し分ない出来だ。昨今(さっこん)流行(はや)りのアイドル(かぶ)れやモデル上がりの役者とは違い、棒のような演技がないのは有り難いと思えた。  耳触りのいいフライパンの上で野菜が炒められる音と共に、空腹を刺激する(かん)ばしい匂いがキッチンからダイニングまで届いた。  昴の腹から情けない子犬に似た鳴き声が響いた。切なげな音に映画どころではなくなり、両隣から浴びせられるニヤついた厭らしい眼差しに昴は顔を両手で覆った。 「……やめろ。せめて何か言ってくれ」 「昴殿〜。私の婿養子になるならば、毎日兄者の美味しいご飯は食べれますよ〜」 「可愛らしいことよのぉ。お宮の好物だもんねぇ。手作りハンバーグ!」  揃いも揃って茶化す姿は、まるで仲のいい姉妹のようだと認識せざる得ない。昴は何故か好意を寄せてくる篤の眩しさに引け目を感じつつ、小馬鹿にしたような笑いを堪えきれずに居る泰にアイアンクローを食らわせた。  ……松村の家は安心する。  口では小言混じりに注意ばかりをするが、決まって温かな料理で迎え入れてくれる。今夜のは謝礼の気持ちが入っているのだろうが、珍しく「泊まるか?」の一言はない。その一言が無い日は決まって秀吉に付き合う日だった。  今夜の主役はハンバーグ。秀吉の家に初めて呼ばれた日もハンバーグだった。  ハンバーグは良くも悪くも記憶に深く刻まれた料理だ。懐古(かいこ)するにはまだ真新しく、それでいて涙の味も思い出す。  好物といえばそうなる。昴にとって思い入れ深い代物であるのに変わりはなかった。  ……家の匂い、かな。  安心を覚えてしまうのは、かつての自分が貪った無償の幸福のせいだろう。甘い毒に浸り続けた日々は今でも身に染み付いているのか、光のある空間は心地よさが身体の芯まで深く暖める。  生きた心地がする、と言えば仰々しい表現だ。白い箱の中とは程遠い、人の気配が散りばめられた空間は、些細な場所でも特別感を感じさせる。 「お前らー。ちょーっといいかー? 目玉焼き乗せたい奴とチーズ乗せたい奴、好きな方を選んで俺に知らせろー」  キッチンからダイニングへ顔を出した秀吉は、緩く間延びした声を昴達に掛ける。秀吉の家ではハンバーグのトッピングは大方この二つだ。両方という選択肢は存在しない。 「はいはーい。私は大根おろし……」 「和風じゃねぇから今日は無しだ」 「わーかったってば! チーズね、チーズ!」 「兄者! 自分は目玉焼きがいいです! クマの顔の!」 「……椙野、顔のパーツ切ってくんねぇ?」 「もうやってるのですよ」  ハサミで海苔を細かく切りながら、良太郎は用意周到さに磨きをかけ、呆れたように溜息混じりで繊細な作業を終わらせる。鮮やかで手慣れた物だ。手先が器用な様は毎度の如くはっとさせる。  秀吉は申し訳無さげに眉尻を下げ、篤の我儘に手を焼いている。実際は松村家では秀吉が篤に一番甘いのが要因だろう。秀吉は重い溜息をつきながら、ボソリと呟いた。 「……育て方、間違えたのかな」 「お前が産んだ訳じゃないから問題ないだろ」 「……ご(もっと)もだわ」 「俺は半熟の目玉焼きでよろしく」  健全な高校生男子あるまじきの台詞はさらりと躱し、コップに注いだ烏龍茶を口に含み、水分を補給した。 「西園は?」 「あ、えっと……俺はチーズ、かな?」 「んじゃ、松村よろしく頼む」 「はいはい」  未だに緊張でガチガチの詩音は淀殿に嘲笑されながら、挙動不審気味に去っていく秀吉の背中を不安げに見送り、リラックスもままならないのか、俯き加減にぷるぷると震えていた。  昴は苦笑を浮かべ、その場から立ち上がる。 「西園」 「み、宮盾君……?」  不安そうに染まった眼差しを向けられ、昴は静かに「ここを出よう」と手で軽いジェスチャーをし、詩音は恐る恐る頷いた。

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