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 結婚を機に購入を決めた極めて普通の家。それが秀吉が過ごす『当たり前』の空間だ。  そこにあって当然。それを作れるのは生家として幼い頃から過ごす内に染み付いた空間故だ。  昴は詩音の手を引きながら、階段の方を指差した。 「松村の部屋、入るか?」 「うぇ!? か、勝手に入るのは駄目じゃ……」 「松村が本当にキレるようなら、ここには人を呼ばないんだよ。……昔バッテリー組んでた奴すら家に入れるのを許さなかった、そういう男だからな」  信頼出来るか否か。そうやって値踏みをしながら相手との距離を位置づけ、切り捨てられる物は全て切り捨てる。それが昴の知る秀吉だ。  昴は階段を上り、上から二段目の段差に腰を落ち着かせ、詩音は少しだけ距離を開けて座った。 「成実(なるみ)さんが帰ってくるまで暇だしな」 「松村君のお母さん?」 「顔だけはいい人だよ。面白い人、って感じだな」 「へ、へぇー。顔だけはいいんだ……」 「それでも、お母さんなんだよ」  秀吉は隠せているつもりなのだろう。口を開けば残念極まりなく、世辞にも母親らしいとは呼べない成実でも、抱えている闇に薄々気付いている。それを露わにする物証は物置に仕舞われ、部屋にもまた存在している。  絶え間なく広がる孤独の闇だ。昴は決して口にはせずとも、母親の形に憧れを抱いていた。 「人の家って、最初から慣れる物じゃないんだよ。知らない世界と同じ、だ」 「宮盾君でも、そう感じたことがあるんだ」 「俺だって最初から遠慮なしに入ったりはしないって」  苦笑を零しながら、昴はこれまでの無礼極まりない行動をやんわりと否定した。  最初からそうだった訳ではない。初めての他人の家は、家族の匂いで満ち足りていた。幸福が染み付いた空間に入った記憶は未だに焼き切れることはない。昴は在りし思い出の日々に、再び封をした。 「……家族の匂いって、当たり前な訳じゃない。俺はそう思うんだ」 「宮盾君……?」 「……俺の幻想は簡単に壊れたからさ、本当はここに居るべきじゃないって、そう思った。今でもそれは変わらないんだよ」  独り言をぽつりぽつりと落としながら、昴は俯いた。詩音は黙って昴の話に耳を傾け、今一度空間に染み付いた『家族』の『匂い』を認識した。 「どこかで線引しないと、いつか怖い現実と向き合わないといけない。それが出来ないまま寄生して、呆気なく壊れた。自分から壊したんだ。家族の一員になれたんだ、っていう甘えをさ」  明確に話さないのは、過去の出来事が如何に幼い自分に突き刺さった痛い現実だったかと言っているように聞こえた。それは詩音にも通じる所があった。  ――自分にも、信じていた幻想があった。  詩音は思い出したくもない懐かしい記憶に、耐え忍ぶよう奥歯を強く噛み締めた。 「最初から無かった物を俺は()()()()()で学習した。そのせいかな、自分の両親を恨む(すべ)が無かったんだ」 「……え?」  詩音は思わず振り返って聞き返す。  冗談か、と耳を疑ったのも直ぐに崩れ去る小綺麗に纏まった表情とかち合い、昴が口にした物が虚言じゃないことに気付く。  最初から無かった。昴は両親の愛情を知らずに育ち、他人の家で得た幸福な景色で愛情の有無を知った。壊してしまった幻想は現実にあり、一つの恐怖でもあると、昴は語った。 「他人と接触する時は必ず線引しないといけない。内側と外側にきっちり分けないと後が苦しくなる。それを間違えたんだ。真冬(まふゆ)も、俺も」  道を違えた先は明かり一つない暗がりのトンネルだった。聞き慣れない少女の名を聞いた詩音は、重く閉じていた口を開く。 「それって、寂しくないの」 「寂しいよ」 「……だから、宮盾君は松村君達と一緒に居れるの?」 「最初は傷の舐め合いだったんだけど、さ。気が付いたら同じ場所に立ってた。それが俺達の共通点だよ」  拭うことの出来ない過去の(あやま)ちや後悔、憎悪の渦を抱えた孤独は、あまりにも似通っていた。  最初から無かった、それを言えたのは昴の中で変化があったのかもしれない。  ……変わることが出来れば。  昴はくしゃりと笑い、詩音に「戻るか」と階段下を指差しながら促した。  だが、詩音は退かないまま昴を真っ直ぐと見詰めた。 「俺はね、宮盾君みたいに最初から無かった訳じゃなかったんだ。あった筈なのに、無かったことにされる。それが俺の当たり前だったんだ」  (ゆかり)達にも決して口にはしなかったことを詩音は口走る。触発されたのか、不思議と重圧感もなく、形だけをなぞるように続けた。 「俺は浄化屋の狭い世界しか知らない。それが当然で、だからこそ普通から程遠い生活しか送れなかった」  生者と死者の境界線に立つ世捨て人。それが浄化屋の在り方であり、生まれた時から浄化屋の子供として育った詩音にとっての常識だった。  口だけなら綺麗事はいくらでも出る。異性を口説くようなすらすらとした文句と同一な、軽く薄っぺらい正義論。当たり前が普通じゃない時、自分の在り方は迷子になり、現時点の状況は酷く判断し難いのだ。 「だから、今みたいに誰かの家は慣れないし、その人の家族と同じ空間なんて怖くて堪らないんだ。こういった体験は初めてだから……」  ――もしも、昴の言う内側に自分が居るなら。  自惚れた願望を口にしようとした瞬間、声に出すのを躊躇する。詩音は口を開いたまま昴と向かい合い、惑う感情の果てで視線を彷徨わせた。 「……俺は松村と違って捨てられない人間だ」  どこか憂いを帯びた昴の声音が、静かに詩音の耳元を掠めて横切り、するりと隣を通り過ぎて階段下に下っていく背中が目に映る。  同い年にしては重く暗い、淀みを抱えた後ろ姿は酷く虚ろな危うさが纏わりついて影を作っていた。  その姿が不思議と重なってしまう。父親代わりを買って出てくれた時の翔馬と重なりながら、ゆっくりとブレては見ていた背中が遠ざかっていった。  ……似てるけど。 「全然違って見えるのは、どうしてなのかな」  いつからくすんでしまったのだろう。  詩音は思い出したくもない過去の中で、湖面に映る逆さ月のように変わり果ててしまった翔馬の現在と比べ、漠然とした危機感に知らずの内に警鐘(けいしょう)が鳴り響いた。

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