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 ◇◇◇  ――生物にとって食事とは生命を維持する為の作業である。  過去に読んだ書物に記述されていた文言は、当時の幼い少年にとって『人間』とは何かを学ぶ一つの欠片に過ぎなかった。  感情の起伏(きふく)が人より無い。それならばどういった時に人間は笑い、泣き、怒るのか。その情緒を知る術は一人では存在せず、白い箱の中では到底分かることはなかった。  少年にとっての全ての世界は書物の砦と繰り返し流れる映像のみだ。原初(げんしょ)の感情たる悪虐(あくぎゃく)さもなければ、静かに記憶した記録の世界は無味無臭(むみむしゅう)。味のない何かは、奥底で満たされないバケツをからりと音を立てる。  食事の時間を知らせるランプが点灯した。作業でしかない工程を何度繰り返し、またトレイに乗せられた食事に貪る。  これは飼育なのだろう。それを知ったのは外の世界に触れてから直ぐだった。  決められた時間、決められた質量、決められた栄養素。その全てが家畜と同列だった。そう錯覚しなければ生きれなかったのだ。  温度はあったと思う。  味もあったと思う。  匂いはしたと思う。  記憶に残らない食事は腹を満たす為の作業。生命を維持し、生きろと命じられているだけの作業。意味だけなら合理的だった。  白い箱の中で過ごすのは時間の流れを把握出来ない独房(どくぼう)。決められた時間に起床し、決められた生活を規則正しく繰り返し、三度の食事を合間に挟んでから決められた時間に就寝。それが当たり前だった。  だから知ってはいけなかったのだろう。綺麗も汚いも存在する外の世界は、全てが真新しく、目を(みは)る程に眩しく輝いていた。  だから触れてはいけなかった。知ってしまった温もりはあまりにも(こころよ)過ぎて、初めての感情が表に出てしまう。  感情は作る物じゃなかった。それを諭してくれた『家族』は化け物でしかない少年に手を差し伸べ、自分達と同等の存在として空席を開け、今際でしかない夢を与えてくれた。  ――だから間違えた。  相容れないままでいた方が安泰だった。  それは少年も『家族』も分かりきっていた答えだったのだから。 『ねえ、昴。私はね、昴と同じ場所に立ちたかったの。だから私は――』 『貴方みたいな『  』と出会ったせいで、私達の生活はグチャグチャになったのよ――!』 『ごめんな、昴君。もう僕らには関わらないで欲しい……』  暖炉(だんろ)から灯る火のように焦がれた茜色が空を包んでいた外の世界。公園で出会ったあの日から、狭い世界はガラリと瓦解(がかい)する。  白昼夢のようにふとした場面で景色を過去と照らし合わせ、神経全ての感覚が幽体離脱さながらの浮遊感に見舞われる。  覚束ない情緒の変遷(へんせん)に、昴はその感情の正体を(ひとえ)に確定した。  自身を強く縛り付けるのは『恐怖』であると。  ◇◇◇  満たされた胃袋と同時にどっかりと肩や膝に居座る二匹の猫の体温が相俟って、妙な安心感を齎していた。  人の肩に乗りたがる癖がある小柄なハチワレ猫の義経(よしつね)と、若干のだらしなさが目立つ美猫の濃姫(のうひめ)達によるアニマルセラピーに、昴は満ち足りた多幸感(たこうかん)を噛み締める。  貰ってばかりじゃ申し訳ないから、という理由で詩音は下げた食器を秀吉と共に洗っており、いつになく会話が弾んでいる様子だった。家事全般を卒なくこなす二人のことだ。共通の話題があれば簡単に盛り上がれるのか、緊張の糸がすっかり解れている詩音の顔色はすっかり晴れ晴れとしている。  特に心配は不要だったらしい。昴は自己満足気に微笑を浮かべた。  先程まで携帯電話と向き合っていた良太郎は、嫌味ったらしく溜息をつく。 「保護者目線になっているのですよ」 「恥ずかしいことを言うなよ……」 「お節介と言えばいいのでしょうが、宮盾氏は他人に甘い所が多々ありますし、直しようは元よりないのでしょうね」 「……相変わらず辛辣だな」  可愛らしい容姿とは裏腹な小憎たらしい毒舌っぷりに昴は精神的なダメージを食らった。  口で勝てた試しはなかったと半ば諦め気味に独り言ち、昴は濃姫の顎を指で擽る。 「去年までは大人しい奴だったのにな」 「出会った当初は、でしょうに。鳩尾(みぞおち)にナイフ刺さったまま普通に電車に乗ろうとしていた馬鹿を見たら、落ち着ける物も落ち着けませんよ」 「まあ、普通はそうだよな」 「生憎、普通の定義は曖昧なので僕はどうも思いませんでしたが」  呆れ混じりに皮肉すらも込めながら、良太郎はリュックサックの中からスケッチブックを取り出し、絵を描き出した。  普通の定義は曖昧。それのお陰なのか、奇妙な組み合せでしかない昴と良太郎の関係性は上手く当て嵌まって均衡(きんこう)を保っている。  確かに良太郎の環境は世間一般が指し示す『普通』から逸脱していた。それのせいかは定かではないが、年の割には妙に達観している姿勢があった。  ……それだけじゃないのは分かってはいるんだけどな。  無駄骨を拾うことしか出来ない思考に達していることに昴は気付き、小さく嘆息してからテレビのチャンネルを適当に一から順に変えていった。  ……お。 「梨華(りか)さんだ」 「……見る気も起きません」 「いつ見ても胸デカいな」 「……胸だけでなく声も大きいですけどね」 「さっきはさ、梨華さんから『良ちゃ〜ん! 今夜八時に藤つぼテレビに出るから、絶対に見てね〜!』って、来た?」 「裏声が気持ち悪いのですが」 「リアタイで見なくてもディスク焼増しでいつも見てるもんな」 「……うっ」  図星だったのか、隠しきれない動揺が直視せずとも空気を伝って気まず気な雰囲気を作り出していた。  良太郎とその兄姉は歳が離れている。長男の凛太郎(りんたろう)で十一歳、長女の梨華で九歳、次女の(はるか)で六歳。明らかな差があり、それに対して劣等感が生じることは末っ子の良太郎には決してなかった。  長女といえど幼い印象を与える可愛らしい容姿の梨華は、普段から妹の遥と逆転した立場であると間違われやすい。遥は元モデルとあって長身の細身でスタイルが良く、大人びた美貌を持っており、しばしば険悪なムードの一歩手前で彼女だけが怒りを滲ませている。  自由奔放でマイペースな凛太郎と梨華はタイプが酷似(こくじ)しており、それとは正反対な常識を(わきま)える遥と良太郎。対照的ではっきりとした違いがある分、喧嘩とはまた違う()()があった。  その正体自体は昴自身不明とするが、梨華と良太郎を見比べて、聞き取り難い小声で一人呟く。 「血が繋がってるから似てるんだもんな」  感情が消え失せていく無表情の中で、昴は至極当たり前なことを口にし、頭頂部にまで登り詰めた義経を引き離した。 「なあ、椙野」 「どうでもいい話題には答えないので」  機嫌を損ねさせてしまったせいか語気が荒い。昴は「青臭い餓鬼か」と嫌味たらしく言い捨て、いつにない真剣味を帯びた表情を見せる。 「赤の他人同士が家族になれる可能性って、どれくらいの時間を積み上げれば、その関係性が認められると思う?」  一点の曇りがない黒水晶の双眸に良太郎は射抜かれる。想像とは異なる質問に激しい動揺と焦り、困惑が全身の自由を奪い、溜まった生唾を喉を鳴らして飲み込んだ。 「どうしてそんな曖昧な質問を僕にするんですか?」 「何となく、かな」  含みを持ったような口ぶりだ。もしもそこに「深い意味はない」と続けば、良太郎にとって安直ながらも少しだけ一息つけたのだろう。軽く視線を外され、再びテレビに目を向けた昴の後ろ姿に、早鐘(はやがね)を打つ鼓動を聞かれまいと良太郎はぐっと唇を噛み締めた。 「……形だけなら認められると僕は思います」 「……そう、か。なら、そうなんだろうな」 「……でも、それは一時の夢と変わりはありませんでしたが」 「……ああ、そうだな」  口許を微かに緩め、噛み締めるように思い出に浸り、妙に大人しい背中が昴の後ろ姿からでも見て取れる。過去を語りたがらない性格なのは熟知しているが、物珍しいこともあるのだと良太郎は固まっていた肩の筋肉を弛緩させる。  ……これはこれで。 「真面目過ぎるのでしょうね」 「ん? なんか言ったか?」 「鍛えることしか頭にない脳筋だったら扱いやすい人間だったのだろうな、と僕は言っただけです」 「ははっ。うっぜぇ」  軽口の応酬の一つでさえも、先程の過ぎ去った記憶の断片(だんぺん)に思いを馳せていた瞬間が現実に引き戻してくれる。良太郎だけでなく、昴もそう思ったのか、緊張状態は遠に解けていた。 「宮盾ー。暇なら俺に付き合ってくんね?」  使い古されたグローブを手にした秀吉は、裏のありそうなにこやかな笑みを携えて、リビングに顔を出してきた。  エプロンも脱いでいることから、既に家事は一旦終了という形らしい。昴は濃姫と義経を良太郎に差し向け、立ち上がった。 「お手柔らかに頼むぞ」  苦笑混じりにグローブを受け取ると、無邪気な笑顔とかち合って、擽られるようにむず痒く感じる。  愉快犯の印象ばかり強く色付けられているせいか、時たま見せる秀吉の子供じみた笑顔は裏がありそうでなさそうな不気味さすら覚えてしまう始末だ。  純粋な気持ちになれない自分を昴は「やさぐれたな」と苦々しく呟いた。

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