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◇◇◇
誰かと食卓を囲む機会は何年ぶりだったのだろう。詩音は用を足しに行った帰りに、ふと沸き起こってきた疑問に首を傾げた。
人の匂いに満ちた空間は、どこかしこも家主達の記憶や思い出が刻まれている。課題で出された書き初めや、図工の時間に描いた絵、玩具のメダル。平凡とした物でも、詩音の目からすれば希少な物として見えた。
階段の裏側へ回ると、優勝トロフィーやメダル、賞状やレリーフなどが綺麗に飾られていた。
だが、その全ては妹の篤の物しかなかった。
「あーちゃんのしかなくて、驚いたかな」
「……! な、成実さん」
ダサいデザインの武将Tシャツにジャージの半ズボン姿の成実は、立ち尽くす詩音の胸中を察したように声を掛けてきた。
「あの、その……はい」
「あーちゃんが貰ったのより、秀君の方が、本当は沢山あるんだよ。でも、ぜーんぶ仕舞っちゃった。その時の秀君は、なんでかな。初めてすっきりしたような顔してたんだよ」
優秀な天才。努力も怠らなかった。そう語る成実の横顔は、酷く寂しげで悲しげな、どこか悲愴感を感じさせていた。
「俺、去年松村君と同じクラスだったんです。二年に上がっても一緒のクラスになれたんですけど」
昔から異性にばかり好かれるせいか、同性からは快く思われた試しはなかった。それは高校生になっても続いていた。続いている筈 だった。
「松村君だけが俺に対して別け隔てなく接してくれたんです。落ち込んでる時とかに決まって声を掛けてくれたり、相談に乗ってくれたり」
出来るだけ悪目立ちしない瞬間を狙って現れる。それが救いになったのか、苦しい筈だった同性からの妬み嫉みも気にすることがなくなった。
……お節介、なんだよね。
「秀君らしい、のかな。お節介焼きの世話焼きで、悪い噂も立てないように人と関わり合いになる。そんな性分なんだよね。まあ、あまりそんなことは言っちゃいけないんだけどね〜。秀君の地雷だから」
「でも、宮盾君達は松村君のことを『いい顔をするのが上手い性悪野郎』って言ってましたよ」
「あっはは〜。それはそれで強ち間違えてないんだろうね。愉快犯とか、確信犯とか。これまでなら言われることはなかったなぁ。あ、でも一人だけ言った子が居たかな」
否定せずに秀吉の話をする成実は、昴達以外の人物で心当たりがあったのか、忽ち表情を曇らせる。
「……夏になれば二年経つんだな」
「成実さん……?」
最初に受けた印象とは異なる陰りを帯びた横顔は、無邪気で奔放な幼稚さから逆転していた。
……なんだろう、この感じ。
胸の辺りをチクリと刺す懐かしさが詩音を襲う。成実の表情と冴葉 が重なった。母親だから、とはまた違う。母親としての力量ならば、自分の母親の方が能力値は高い。
しかし、詩音の胸の痛みは断続的に続いていた。
「私はね、今でも秀君の考えていることが分からないんだー。でも、心から受け入れられる友達が出来たのは良かったって思ってる。だから普通なら心配は要らないのに、いつも高い高い壁がそこにあって」
息子から感じる拒絶とも呼べない厚いフィルターを破壊不可能なやるせない気持ちを吐露する。
……でも、似てる。
視界を掠める残像はまだ共に暮らせていた頃の母親の姿。姿形、性格と共に似ている箇所は無い。それでも重なった。
「――私ね、駄目なお母さんなんだ」
『――駄目なお母さんでごめんね』
成実が口にした言葉が冴葉と重なる。胸の痛みが一層激しくなり、詩音はくしゃりとシャツを握り締めた。
「……その言葉は、思ってても絶対に松村君に言っちゃ駄目ですよ」
「…………」
「どんなに顔には出なくても、どんなに取り繕えても、その言葉は悲しいだけなんです」
目に見えない苦痛で歪んだ詩音の顔は、幼き日に刻み込まれた古傷を浮かび上がらせる。成実は自分のことのように傷ついている詩音を見て、ふっと口許を微かに緩めた。
「うん。分かったよ〜。秀君のお友達に言われたら、私はなーんにも言えない身分で〜す」
緊張の糸がすっかり弛 んでしまう笑みを向けられ、詩音は拍子抜けしたのか、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
どこか掴み所がないような、空を捕らえることしか敵わない柔軟さは、やはり親子であることを物語っていた。
……なんだか、羨ましいな。
言葉は交わさずとも繋がりを大切にしてきたからか。詩音はどろりとした黒いヘドロのような嫉妬混じりの羨望 を胸中で抱きながら、それをひた隠すべくして完璧な愛想笑いを顔に貼り付けた。
◇◇◇
住宅地にある戸建ての家にしては広々とした裏庭には、簡易式のテニスコートやラケットなどが置かれている。テニスで華々しく活躍している篤は、エリート街道を簡単に降りた秀吉の分まで気張っており、それを過敏に感じ取ってしまった。
昴は向かい側で野球ボールを天に何度も投げては、グローブで受け止めるのを繰り返す秀吉に見合った。
「するなら、さっさとしてくれよ」
「はいはいっとー」
緩やかな曲線を描きながら、山なりのボールが投げられる。優しい軌道と速度だ。話が長くなりそうだと昴は腹を括り、ボールをグローブで容易く受け止めた。
一対一 のキャッチボールはボールの往復を乾いたグローブに受け入れるだけの作業だ。作業と言ってしまえば秀吉の顰蹙 を買ってしまう。
淡々と繰り返すボールの往来に、昴は「さっさと話を始めろ」と催促した。
「なあ、宮盾。まだ見 る のか?」
含みを持った嫌らしい問い掛けだ。昴は唇を真一文字に引き結び、黙り込んだ。
「それ、所長さんに言ってないんだろ。向こうに住んでから睡眠時間どんくらい取れてるんだ?」
「十分な時間は眠れてる」
「へぇ、珍しいな……。杞憂 だったわ」
「お前は俺の親か」
睦言のように呟く昴に対して呆れ果てた表情を見せた秀吉は、困り気味に笑った。
「ちっげぇねぇわ!」
「……っ!」
目にも止まらない豪速球が投げ込まれ、やや反応に遅れた昴は、後ろに蹌踉 めく形で右手に嵌めたグローブを胸元に寄せながら寸での所をキャッチする。
息をつく暇もない速度に何の感情も吹き飛ばされ、昴はふらりと脱力した足を地面に縫い止めるべく踏ん張った。
「そりゃあ、いい知らせだ。でも、まだ不安なんだろ」
「…………」
「ボロが出たらどうすんだ。言い訳出来ねぇだろ? あっちにはちっちぇ子供が居るんだからな」
予 め翔馬の情報を知った上での話らしい。反応を確かめるようにひたりひたりと言葉巧みに誘導しようとする。そういった魂胆すら見えてしまった。
……夢、か。
深い暗闇に落ちる意識は、次第に生生しさを帯びた悍 ましい惨状の世界に降り立つ。それは決まって周囲に人の気配を感じる時だけだった。
だが、今の所は何不自由なく睡眠が出来る。それが不可解であることは昴自身疑問を抱えたままだ。
「……俺はどうして今になって浄化屋を知ったんだろうな」
虚霊 と接触したのはつい先日の話だった。藤咲市が通常通り頻繁に出ている街なら、昴は既に昨年の内に出会っている可能性が高かった。
「去年の三月に入るちょい前、峰玉 は実質休業状態だった。その理由は所長さんの長期出張による物。そん時は不思議なくらい虚霊の出没頻度や穢れと彼岸 による怪現象などの異常は減少傾向にあった」
「は……?」
知り得る情報の公開を口にし出した秀吉は、固い口調ながらも飄々 とした切り口で話を続けた。
「本来、虚霊は意識ある人間の前に現れる訳じゃねぇんだ。それが表面化して、具現化した物を浄化屋が狩っている。それが浄化屋が存在することになった大元の始まり。実際は魔障 からなる悪夢などを退治する退魔師が由来だ」
「お前、詳しいな。貰った教科書にはそんなこと書いてなかったぞ……」
「そりゃあ、そうだろ。それは、正規で作られた物じゃない偽物。贋作 だよ」
「……はぁ?」
「所長さんは知識無しで出世した体 たらくだから、中身までは確認してなかったんだろうよ。見事に化け猫に拐 かされたなぁ」
分厚さの割に中身の薄さが目立っていた教本は紛い物。あっさり嵌められた。名も知らない『先輩』の戯れのせいで、無知のまま溶け込もうとしている事実に、甘んじて受け入れていた。
「俺が浄化屋になるように仕向けたのは……」
「俺、と言いたいけど椙野も如月も関わってるな」
裏表のない爽やかな笑顔はスポーツマン故 に出来る代物だ。真逆な黒い言動は毒を孕 んでおり、昴は特に気圧 される様子もなく平静を保っている。
遡れば辿り着く一件は直近の案件『歌うたいの合成獣 』だ。それを元より知っていた風の秀吉が浄化屋の内部事情に疎い訳がない。
「松村。お前は何が言いたいんだ?」
真意の読めない語り口調に対し、ほとほとに嫌気が差し始めた。呆れや疲れから表情が砕ける昴の間の抜けた問いに、秀吉はくっと口端を愉快さに歪め、グローブを再び構える。
昴は手元にあったボールを緩急を付けて投げ、緩やかな弧を描いたそれを秀吉は受け止めた。
「俺が言いたいのは忠告だ」
「前にも聞いたような……」
「ははっ。そう急かすなよ。悪い話じゃねぇからさ!」
ひょいとボールを天に打ち上げ、同じ動作を繰り返す。忠告と前置きするのは分かれ道から外れた迂回だ。
軽薄そうな表情とは裏腹な、冷徹で突き刺すような鋭い視線を浴びせられた。
「――黒栖翔馬を信用するな。お前の持っている甘さのせいで入れ込めば、必然的に痛い目に遭うぞ。用心しろよ、昴」
普段なら滅多に呼ばない呼称で昴を呼んだ秀吉は、冗談の一欠片もない『警告』に等しい忠告を言付け、久しく見せることのなかった冷冷とした凶暴性の一端を垣間見せる。
犇犇 と伝わる憎悪の凶刃 は自身に向けられた物ではない。
昴はあまりにも不安定な影を落とす現し世に蔓延る救いのなさに、苦々しい日々を懐古 する。
――外の世界も同じ色をしていた。
焦がれた外側の実態を知り、濃霧が覆う故郷と照らし合わせた昴は、この世は計り知れない深い情念で構築されるシステムなのだと、改めて痛感した。
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