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◇◇◇
八時に差し迫ったアナログ時計の長針を合図に、昴と良太郎、泰は各々と帰る支度を整えていた。
先程、知人からの電話でダイニングを離れていた詩音が戻ってくる。
「にっしーさんや。これかい」
神妙な面持ちで小指を立てる泰の下品な思考に、慣れ始めた詩音は悪気の欠片もない満面の笑みを浮かべた。
「女性、なのは合ってるけど、セフレじゃないよー。初めての時の相手かな?」
「とりま、美人の巨乳お姉さんだな」
「……まあ、否定はしない、かなぁ」
「ボインボインでボインボイン」
「泰ちゃんって、胸派なの?」
「女体 は鑑賞とお触り専門っす。マジうめぇ。同性に生まれて良かった」
下卑た発言すらも様になっているのが不思議だ。詩音はやはり慣れないと表情を引き攣らせた。
何かを思い出したのか、詩音は口を開けた。
「ねえねえ、椙野君と泰ちゃんはどうやって帰るの? ここから遠いんじゃないかな、って思って」
心配そうに小柄な良太郎と性別上は女性である泰を見て、詩音は「夜道じゃ危ないよ」と不安を隠しもせず戸惑っている。
だが、その心配は必要ないと昴は首を振った。
「そろそろ迎えが来るから心配しなくてもいいぞ」
「迎えって……」
一台の車が松村家の前に止まる。詩音の心配を他所に昴は「ほら、来た」とあっけらかんに言えば、揃ってダイニングに出る。
一回のインターホンが鳴ったかと思えば、家主よりも先に玄関が開かれた。
「良太郎ちゃ〜ん、泰ちゃ〜ん。お迎えに来たわよ〜」
強烈な印象を与えるドラッグクイーンばりの厚化粧に、男性的な野太い声を甲高くキーを一つ二つ上げた耳障りの良くない女性的さを意識した声が緩やかに響き渡った。
目への刺激が強いと詩音は思わず強く瞑った。そろりと目を開けると、引き気味に「うわぁ」と口にした。
「ミル貝 姐 さんにそっくりだね……」
「そっくりじゃなくて、ミル貝姐さん本人ですよ」
「……え、嘘」
手土産に高級百貨店で買ったプリンを秀吉に渡し、山姥 となまはげを足して割ったような強烈なインパクトを炸裂させるオカマ――本名海原 嘉門 は、様々なメディアで取り上げられるプロのメイクアーティストだ。
肉厚な唇をラメの入ったリップグロスで厚ぼったさを際立たせている。外見の特徴だけなら右に出る者は居ない。詩音は恐怖を若干覚えながら、昴を壁にして様子を窺っていた。
目敏く嘉門の視線が詩音に注がれる。
「あらぁん。あんなところにプリティーな恥ずかしんボーイが居るじゃなぁい?」
「……! あ、その……」
「うふっ。こんばんは。良太郎ちゃんがいつもお世話になってるわぁ」
破壊力のある容姿とは真逆な優しい口調と声音に、テレビで見るようなハイテンションさはなかった。
「怖くないだろ? 化粧はあれだけどな」
「……うん、確かに」
ゴテゴテに盛った格好とは正反対な柔らかい佇まいは精錬されている。育ちの良さからだろう。思わず詩音は怖じ気づいたが、軽く会釈をした。
「そいじゃ、これにてお暇 しますかー。おっ邪魔しました〜」
「お邪魔しました。また明日学校で会いましょう」
ひらひらと手を振りながら我先にと走り出した泰を追う形で良太郎も外へ出て、恭しく会釈をし、黒い乗用車へと乗り込んだ。
嘉門が助手席に戻って直ぐにエンジンの駆動音がかかり、早々と車は走り出した。
昴は短く嘆息し、未だに背中に張り付いている詩音を引き摺りながら、嬉々として土産を掲げている秀吉に声を掛けた。
「じゃあ、俺らも帰るわ」
「おーっす。気ぃ付けて帰れよ〜」
「……相変わらず高級菓子に浮かれ過ぎだろ」
「仕方ねぇだろうが。タダだぜ、タダ!」
「あー、はいはい。また成実さんと篤ちゃんに全部食われないようにな」
さも素晴らしい響きと『タダ』を連呼する秀吉に対し、呆れ果てた視線を注ぐ昴は、憐れみを込めて嘲笑する。
板に付いた昴の表情の作りに詩音はギョッと目を剥き、小刻みに身を震わせた。
「こ、怖いよぉ……」
「諦めろ、西園。これが宮盾 の本性だよ」
健全な男子高校生らしく助平さとインドアな趣味とは似ても似つかない、高圧的さを覗かせる苛虐嗜好が明るみに出ている。泰の元カレ話から、なんとなく恐ろしい属性を持ち合わせているのだろうと詩音は薄々感じていた。
だが、昴は参ったように顔を手で覆って天を仰いだ。
「……仕方ないだろ。俺はそういう影響を受けて育ったんだよ」
何気ない素振りで珍しく身の上事情を口にした昴に、秀吉は驚きに目を丸くさせた。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情とはこのことを指すのかもしれない。昴はくつくつと込み上げてくる笑いを堪え、玄関口でスニーカーに履き替える。
「じゃ、また明日」
「おう。西園もまた明日な」
「う、うん! ばいばーい!」
無邪気で溌溂とした詩音の陽気な声に、微笑ましさが眩しいと秀吉は内心覚えながら、手を振り返す。同い年にしては若干幼いようにすら思えたが、昴はそれも悪くないと受け入れ、鍵を外したママチャリを両手で押しながら、詩音と共に松村家から出た。
◇◇◇
車内に流れるのは、昨今流行りの若手女性シンガーソングライターのゆったりとした春を題材とした楽曲だ。見慣れた景色を車窓越しから流し見て、良太郎は隣の座席で飽きもせず大福を頬張る泰に対し、深々と悪態をついた。
「血糖値上がるのですよ。ほんっと、飽きませんよね」
「あんこは別腹だってー。ギノさんだってさ、まーたにっがいブラック飲んでんじゃ〜ん」
ホルダーに入ったコーヒーのボトル缶を指し示し、泰はにんまりと口の周りに粉を付けながら笑った。
白粉 にしては粗だらけだ。良太郎は言い返すこともせずに、顔の造形を隠す為の瓶底眼鏡を黙々と外した。
「……盗み聞きとか、あんまりよくはないと思うのですが」
「ギノさんだって人のこと言えないっしょ〜」
何も言わず、ただただ伝達する思考を探り合い、探り当てた先にある物を視線の合図で確認し、良太郎は再び瓶底眼鏡を掛け直した。
「今のところはにっしーは問題無しかねー」
「宮盾氏が受け入れた相手ですから、彼に何があろうと手を差し出すでしょうし、それは覚悟しないといけないのでしょうね」
「確かにそうかもね〜」
二個目の大福を頬張る泰は、ミラー越しに目が合った運転手に対して笑った。
「良ちゃんも泰ちゃんも、なんだか最近楽しそうだね」
鋭さのある涼やかな顔立ちとは対極的な、甘く優しい声音で後部座席に座る二人に声を掛け、薄い口元を緩やかに持ち上げる。
嘉門の甥 であり、モデル兼ヘアメイクアップアーティストを生業とする青年――海原 月彦 は、切れ長の目を一層細めて微笑んでいた。
片手間に扱われている気がする。良太郎は不平不満を隠しもせずそっぽを向き、指でとんとんと上下に膝を叩いた。
あからさまな機嫌の悪さに嘉門はくすくすと笑い、一言一句を噛み締めるように呟く。
「今年は絶対に逃 せない年なんでしょう。なら、私達大人も見守っておかなきゃならないじゃなぁい」
どこか見透かしたような嘉門の口ぶりに、不機嫌面だった良太郎の顔は毒気を抜かれた表情になり、言い返すことすらせずに溜息を一つついて平静さを取り戻した。
擬似 的な家族は本物の『家族』になれるのか。そう昴に問われた時、良太郎は真っ先に動揺してしまった。
だが、今は違う。
自分の首を頸動脈に掛けてするりと円を描くように撫で、定まらないままだった覚悟を確固たる意思に固め、良太郎は弱者でしかない自身を奮い立たせる。
落ち着き払った良太郎の横顔を、泰は大福を咀嚼しながら流し見て、彼女もまた自身が抱える物と向き合う覚悟を決めた。
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