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◇◇◇
缶ビールを片手に陽気な成実は、おっさん臭くソファに大きく股を開いて座り、盛大にビールを煽った。
「ぷっふぁー! やっぱりビールが一番だぁ!」
ケラケラと大口を開けて笑い、だらしなさが一際大きく突出している。酒が入ると笑い上戸になる成実の相手を押し付けられた気がする。秀吉は仕事で今日は帰宅しない勝家の顔を思い出し、苛立ちを少なからず覚えていた。
「ねぇ〜え〜。ひーでーくーん」
「飲み過ぎんなよ。部屋まで連れてくのが面倒くせぇから」
「ひでく〜ん。そんなこと言ってぇ〜。いーつもママのこと部屋まで運んでくれるじゃ〜ん」
面倒な絡まれ方に秀吉は辟易 とし、だらしなさに一層拍車 をかける母親から距離を取った。
足元に擦り寄ってきたのは七匹の猫の中では若輩者 の蘭丸 だ。去年体育倉庫の中で出会い、拾って帰ってきたのが記憶に新しい。
秀吉は蘭丸を抱き抱えて、膝に座らせ、喉を優しく撫でた。
「秀君、なんかいいことあった〜?」
「なんだよ、いきなり」
「んっふふ〜ん。だってぇ、なぁんかぁ、昴君達が帰ってからねぇ、すっきりしてるようなぁ、晴れ晴れっとしているようなぁ〜」
赤ら顔で缶ビールを傾ける成実に指摘され、思わず秀吉は自分の顔を恥ずかしさから手で覆った。
出来るだけ隠せていたと油断していたせいか、不意を突かれて粗 が出てしまった。
普段なら見せない年相応さに成実はケラケラと笑いながら、唇を尖らせて茶化してきた。
「か〜わ〜うぃ〜ね〜。さっすが私の愛息子よ〜」
「……うるっせぇ。あー、くっそ腹立つわぁ」
気の緩みが招いたのだろう。秀吉は主導権を取られたことに心なしか不服そうだった。
「……仕方ねぇだろ。初めて親友 があんな気の抜けた顔したんだ。嬉しくなったっていいだろ」
まるで自分のことのように喜びを隠しもせず微笑し、秀吉は子供の成長に歓喜する親の眼差しをしていた。
偶々外部入学先で出会ったのが昴だった。その頃は今のように桂樹 とは近しく接触しておらず、それ故に存在の希少価値さは未だに昨日のことのように思い起こされる。
薄弱とした人間味のなさから到底似つかわしくない正義感。ちぐはぐで、それでも尚彼を突き動かす使命感に似た眩さは、全てを諦めようとしていた自分自身の意識をはっとさせる。
――あの男は成し遂げる力を持っていた。
だからだろう。昴の『三つの望み』に恩着せがましく秀吉達は乗っかった。それを彼は笑って快諾し、当たり前のように『三つの望み』を定め、その為にまた前進する。
それが一歩 なのか、半歩 なのか。
変わることを自然に受け入れるのは並大抵の覚悟ではないのに、昴は平然とやってのける。羨ましいと月並みの言葉で吐き出せば気楽になれた気がする。秀吉は素直にそう思えた。
「俺も、そろそろ腹ァ括らねぇとな」
「ん? 急にどったの〜? 秀く〜ん」
三本目の缶ビールを開ける成実は、大きな独り言に対して間の抜けた声で反応し、秀吉は苦笑いを浮かべたまま「なんでもねぇよ」と返した。
「ってか、お袋。明日も仕事だろうが」
「いいじゃ〜ん」
「だぁぁぁ! それ、俺の抹茶エクレア! 食うんじゃねぇ!」
「減るもんじゃないじゃ〜ん。んふふ、美味しいねぇ〜」
「現在進行形で減ってんだよ!」
◇◇◇
ママチャリを押しながら歩幅を詩音に合わせて昴は暗い夜道を歩いていた。
帰路が同じ方向という簡単な理由で肩を並べているのが、これまでは住む世界の異なる住人同士、かなり不可思議な現状にすら思える。
一本の街灯に虫が忙しなく集 っていた。誘蛾灯 にしか見えないと昴は内心でふてぶてしく悪態をつき、害虫が喜ぶ匂いでも付着しているのだろうと自己解釈をした。
これまで黙り込んでいた詩音が口を開いた。
「あ、のさ……今日はありがとう」
「ん? なんだ、急に……」
唐突に感謝を述べられ、昴は怪訝そうに眉根を寄せる。
詩音は言い難そうに口をもごつかせ、言葉を必死に探そうと髪の毛をくしゃりと掴んだ。
「ひ、久し振りに誰かとご飯食べれたから……? いや、これじゃなんか……うーん」
上手い具合に取り繕う言葉を探して、不審者さながらに陰気臭くぶつぶつと詩音は呟いている。
昴は微苦笑を浮かべた。
「格好がつかない台詞ばかりで綺麗に纏められないんだろ?」
「……! そ、そう! それ!」
孤独が恥であると認めれば、あまりにも辛気臭い貧相な単語でしか繋げられない。詩音の表情や態度の一つ一つで早々に理解でき、お節介を承知で代弁してしまったが、昴の言葉に大きく頷かれる。
生き恥を晒すとはどれを指すかは不明確だ。正確性の欠ける発言は内々で処理し、考え事をするように昴は天を仰いだ。
「俺も久し振りだったよ。また誰かと食卓を囲む日が来るなんて、今思えば松村と出会わなかったら無かったんだろうな、って」
「え……? 宮盾君もなの?」
無意識に同調してしまい、詩音は慌てて口を塞いだ。
「この街に来る前までは、決まった時間に用意された食事を一人で食べるのが当たり前だった。生きる為の作業って言えば聞こえは悪いけど、俺の生活の大半はそ れ だったんだよ」
生活の全てが生かされる為の作業だった。実家の生活は世辞にも明るい物ではない、無色透明で無味無臭の、記憶に残らない物でしかなかった。それを変えたのが麻生 家 での生活だ。
昴はこれまで押し込めてきた記憶の封を開け、口角をゆるりと持ち上げる。
「案外、悪くない物だったな。寧ろ居心地が良すぎて、これが『幸福 』なんだって知って、感情の一つ一つが敏感に刺激されて」
どこか楽しげに笑いながら、昴は「色んな意味で沢山泣いたよ」と語った。
人間味の無さばかりが際立っていた姿からは想像のつかない年相応さに、暫しの間詩音は呆けたように昴の横顔を見詰めている。
子供らしからぬ大人びた雰囲気とは異なる、本来の彼は普通に同世代の子供に過ぎなかった。そうとは断言し難いのは育った環境の特殊性だろう。詩音は胸の辺りが疼くのを感じ、きゅっと唇を真一文字に引き結んだ。
「……それって、幼馴染さんの家でだけだったんだよね」
「そうだな」
「宮盾君の、お父さんとお母さんとは何もなかったの……?」
これまでの笑顔が色を無くすように消え失せる。消えたのは表情だけだった。目立った動揺はなく、あまりの豹変ぶりに詩音はビクリと身を震わせた。
「何もなかったよ。会話すら出来なかった」
簡潔に過去形で纏められた二言には絶え間ない虚無感が広がっていた。
後悔や怒り、憎しみや恨み辛みのない、無情で無感動な平坦さに、詩音は思わず息を飲む。同世代故の近さを感じていた矢先にこ れ だ。何も口には出来ないと詩音は閉ざした。
「だから初めて世界に色が付いた時は今でも忘れないんだ」
色のない部屋で培われた知識は好奇心への先駆けだった。昴は無表情から忽ち輝きを取り戻した淡い微笑に顔色を変移させ、分かりやすく動揺している詩音に笑いかけた。
昴にとっての幸福な彩りを宿した景色は、恵みのある代物だ。それは些細なことでも鮮やかな、記憶に深々と刻印される。
だからこそ昴は言葉を繋げた。
「俺にとってみれば、全部が恵まれた景色なんだよ」
優しく頬を撫でる涼やかな夜風が二人の間を通り抜ける。陰のある笑みが薄暗さに拍車をかけ、どことなく達観した物の見方をする昴の人間らしさを薄められていく。昴自身に付き纏う違和感に、呆然と詩音は絡め取られていくような感覚に陥った。
冷やりと背筋が凍りつき、過敏に危機感とは異なる禍々しい気配がちろりと覗かせる。不気味だ。人間味の薄さよりも遥かに浮き出た存在感は、まるで巨大な虚戯を彷彿とさせた。
だが、それは夜が見せる幻影なのだろう。一瞬でトリップした意識が瞬時に現実へと引き戻された詩音は、目の前に立つ昴に対して平静を装った月並みな相槌を打つ。
秀吉の家で昴が語っていた話を振り返り、違和感の正体に早々と気付く。
……宮盾君には。
――『家族』の匂いがしない。
幼馴染の家で培われた『家族ごっこ』とは違う。形容し難い広大な虚無を背負った姿に、詩音は胸の辺りがひりついた。
……俺とは違うんだ。
枝分かれしたY字路の分岐に達し、詩音ははっと顔を上げた。
「こ、ここでお別れだね……」
「そうだな」
名残惜しいような、心なしか安堵を覚えてしまうような。ぎこちない態度を出してしまったと詩音は気不味そうに表情を歪める。
ママチャリに跨った昴は、くしゃりと崩れた笑みを見せて詩音に声を掛けた。
「西園。今日はややこしい話ばかり付き合わせて、本当に悪かったな。じゃあ、また明日学校で」
ひらりと手を振りながら昴は颯爽とペダルを漕いで去っていった。
詩音は手を振り返すことも出来ずに立ち尽くし、肩に掛けていたスクールバッグの持ち手を強く握り締める。
「……ほんっとに変な人だよ。ああ、もう……俺って不甲斐ないし格好悪い」
久しく誰かに対する悪態らしい毒気を吐いたことはなかった。詩音は悔しさのあまり力んでしまった手を解いて、少しずつ固まっていた緊張の糸を緩めた。
自分も帰ろうと歩みを進めようとした矢先、スラックスに入れていた携帯電話が震えた。
マナーモードの設定にしたままだったと今更思い出し、バイブ音を小刻みに鳴らす携帯電話を取り出した詩音は、表示されている名前に暗い翳りを落とす。
暗く淀んだ表情とは裏腹に、詩音は明るく弾んだ声音で電話に出た。
「どうかしたの? 綴 さん」
『また電話掛けちゃってごめんなさいね』
「うんん。全然大丈夫だよ。俺も綴さんの声聞きたかったから」
『ふふ。嘘ばっかり。口説き文句が達者ね』
蠱惑的な微笑は小鳥の囀りのように慎ましく、鼓膜を震わせる甘美な囁き。年相応の大人らしさは余裕を兼ね備えているからこそなのだろう。
詩音はつい先程通話したばかりの相手に対し、軟派な口ぶりを数回程度で留めて、そっと目を伏せた。
「金曜日は仕事が入ってるから迎えに行けないんだけど、家の合鍵は用意しておくから、先に家で待っててね。出来るだけ遅くならないように帰るから」
低く抑えた甘い声で恋人相手にするように優しく諭し、それに応える女性――神楽坂 綴 は妖艶に笑み、欲が見え隠れしたまま快く頷いた。
小さく短い応対で通話を終え、携帯電話を握る手に力が籠もる。苦し紛れに強く歯軋りし、詩音は鬱々とした感情が蜷局 を巻くのを胸中で感じていた。
苦手意識の有無を問われれば、決して無いとは言えない。綴という女性は立ち居振る舞い総てに置いて、非の打ち所がないといっても過言ではない、品性のある賢く聡明 な女性 だ。
それ故に怖 れている。彼女の口から放たれる言霊に掠め取られ、縛り付けられていることに。
詩音はつい先程昴が口にした台詞を反芻する。
「……恵まれた景色、か」
ありもしないと馬鹿に出来るような綺麗事だが、そうでもないのかもしれない。僅かな希望すら覚えた今日の出来事は、少しずつ己に変化を齎している。
詩音は携帯電話をスラックスのポケットに仕舞い、暗い影を落としていた顔を上げた。
初めて漠然とした不安が払拭されたような気がする。詩音は数回の深呼吸で情緒を正し、寂しい帰り道をいつもより軽やかな足取りで歩き出した。
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