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 ◇◇◇  通い慣れた道から二つ逸れた通路をママチャリで緩やかに滑走(かっそう)する。  古びて酸化した錆の目立つ赤いママチャリは大分慣れ親しみを持てた気がし、壊れるまで早数日も立たなそうな老いた相棒をその日まで使い込もうかと、ペダルを漕ぐ足に多少の力を加えた。  秀吉の暮らす住宅から遠からず近からずの距離に居候(いそうろう)先はあった。とはいえ、一番近いのは勝家が構えている道場だ。それ以外での特徴は大なり小なりの神社に囲まれている点だろう。  昴は久しく見ることのなかった藤咲市の地図を思い出し、苦々しく眉根を寄せた。  街並みが古風な物へと移り変わり、白皙(はくせき)の壁が長々と続き出す。広々とした翔馬の過ごす屋敷は漆喰(しっくい)で仕上げられた、二メートルを越える壁でコの字に囲われ、近寄り難い独特の空気感を外からでも醸し出している。  ……悪趣味、ではないんだけどな。  薄ら笑いで圧迫されそうな存在感にかなり引き気味だ。  昴の帰りを認識してか、自動で内開きの門が開かれる。センサーの役割を担った電子機器はどこを探しても見当たらない。屋敷全体に術式らしき何かが掛けられているのだろう。探索(たんさく)するにも意味がないと早々と諦めていた。  雨避(あまよ)けにもならない乱雑な印象を与える自転車置き場にママチャリを停め、盗難防止対策に設けられた鍵をかけ、重ねてチェーンをつける。  時刻は夜の九時に差し掛かろうとしていた。昴は軽く息を整え、ぼんやりとした暖かな明かりが照らしている玄関口にと足を進めた。 「ただいまー……」  ぎこちない声を発しながら帰宅し、出来るだけ派手な音を出さぬように引き戸を閉め、靴を脱いでは揃え、邪魔にならないようにと翔馬と手鞠の親子さながらに並んだ靴から一定の間隔を開いて置いた。  居間を通るよりも先に、荷物を降ろすべく寝室のある縁側を通ろうと足を向けたが、それを間が悪く月銀が現れた。 「遅いお帰りですね」 「帰ってきて早々に小言はちょっとなぁ……」 「主なら居間で晩酌(ばんしゃく)をしておりますので、荷物は私がお預かりしますから、貴方はさっさと雑菌(ざっきん)(まみ)れた手を清めてくださいね」  小姑(こじゅうと)と呼ぶべきか、オカンと呼ぶべきか。中途半端な言い草に昴は苦笑し、肩に提げていたショルダーバッグを預けて小さく「ありがとう」と口にする。  月銀は驚きはしないが、照れ臭さを隠そうと顔を背け、ぶつぶつと呟きながら長い廊下を歩いていった。  洗面所に立ち寄り、月銀の小言に従って手を入念に洗い、昴は一つ息を整えてから翔馬の居る居間に向かう。  カラカラと音を立てる引き戸を開け、紺色の着流しに身を包んだ翔馬の背中が視界に映る。翔馬は(から)になったコップを卓袱台(ちゃぶだい)に置き、居間に来た昴に顔だけを向けた。 「おう、帰ったか」 「ただいま」  満足そうに口端を緩め、翔馬は近くにあった座布団を引っ張り、隣に座すよう叩いて促した。  近過ぎず、離れ過ぎない距離感で、昴は安心して座布団に腰掛け、暫しの無言が訪れる。 「なぁ、昴。飯、美味かったか」 「ああ、うん。美味かったけど……」  背筋がざわざわとする気味の悪い妙な優しい声音に、昴はあからさまに気持ち悪さを隠しもせず態度で示す。それを強く感じた翔馬は肩を落とし、ぼそりと「……駄目か」と何やら含みを持たせてぼやいた。 「あー。手が暇なら酌しろ、酌」 「うわ、それ二本目だろ……」  栓抜きでビール瓶を開け、鼻につく苦いアルコールの匂いが鼻孔を抜けた。  一人で二本も開けるのか、と昴は若干引いていたが、まだ翔馬の傍らに栓の抜かれていない日本酒があったのを目敏(めざと)く見付け、わざとらしく溜息をついた。  差し出されたコップにビールを()ぎ、ふと懐かしさを思い出す。  大分身体が大人に育ったせいか、あんなに大きく感じたビール瓶がこうも近く見える物だったろうか。昴は溢れる寸前で注ぐのを止め、静かに卓袱台に瓶を置いた。  ……昔、よくやったっけ。  真冬と交代しながら、彼女の父親に酌をしたことがあった。赤ら顔で気分良く酔っ払いの戯言を言いながら、しょっちゅう彼女の母親にこっぴどく絞られる。  幼馴染の家族と過ごした時間と今を重ね、無意識に首に掛けている御守をシャツ越しに握った。 「それ、癖なのか?」 「癖、にはなってるな」 「その御守の効果って、あれだろ? 贈った相手の願いが叶った時に紐が緩む仕組み。言わば一種の呪術(じゅじゅつ)に近い(まじな)いの(たぐい)だ。独自性も強い変わり種だよな」 「俺の地元じゃ『お(まじな)い』に対する習わしが多くあるから、不思議じゃなかったんだけど。願い事を書いた短冊の願いが叶ったら清めて火に燃やすとか」 「火や炎は浄化の意味合いもあるからな。悪いもんじゃねぇか」  面白味に欠ける話題でも酒の肴になり得るか些か不可解だが、再び空になったコップを差し出され、昴はビールを注いだ。 「お前もどんな願い事を火に()べたんだ?」 「ん? いや、俺は一度も焚べたことはないよ。叶った試しがなかったから」  呆気に取られるような軽い返しに、翔馬は分かりやすく動揺し、噴き出た冷や汗をおしぼりで拭った。変な気を使わせたのかもしれない。昴は苦笑し、体勢を崩して、自棄にすっきりした横顔で語る。 「俺は別に願い事が一つも叶わなかったことに後悔はないし、疎外感もないから、そんなに気を使わなくてもいいよ」 「ったく。お前はほんっとに餓鬼らしくねぇな」 「え、翔さんってずっと俺のことをそう思ってたのか?」 「年相応らしくねぇんだよ。詩音の方がまだまだマシだ。いや、詩音はもっと独特か。特撮好きで女子力高めで、その癖に女にはモテる。顔はいいからなァ」 「それ言ったら終わりだろ?」  おかしそうに笑いながら、昴は皿に盛られた柿の種を摘んだ。唐辛子の効いた辛口で舌を刺激する。辛味の強さも申し分なく丁度いい。昴はひょいひょいと柿の種とピーナッツを口に放り込んだ。 「お前って、結構食うよな」 「今日も松村ん家の釜は空にしてきたかな」 「月銀の微妙な飯でも食うよな」 「味はそれなりだろうけど、俺は十分月銀さんのご飯は好きだよ」 「……マジか」  昴の胃袋の大きさに翔馬は引き気味だが、クツクツと笑い出す。 「この街に来てからバイト始めるまでの間だけ、食費浮かす為にチャレンジグルメ制覇して回ったりしたかな」 「ははっ。それは大層なことだな」  酒の肴にもなりそうにない話題でも、翔馬は楽しげに聞きながらビールを飲み干す。面白味の欠片もないだろうに、と退屈さを隠しもせずに昴は再び差し出されたコップにビールを注ぎ、容量が減って軽くなった瓶を卓袱台に置いた。 「なあ、昴。お前が峰玉に来た日、俺が言ったことを覚えてるか?」 「三つの願いがあれば、全部叶えさせてやる……だったかな?」 「しっかり覚えてるじゃねぇか」  くつくつと不敵に喉奥を鳴らして笑い、半分まで飲み干したビールをゆらりと揺らしながら、好奇心が剥き出しになった翡翠の目を向ける。  昴は綺麗な色彩だと改めて月並みな感想を抱き、一粒のピーナッツを奥歯で噛み砕く。 「俺の願いを聞いた所で、翔さんに何のメリットがあるんだ?」 「餓鬼の願い事なんざ、手に余るくらい安直な物ばかりだろうが。それを三つ叶えるんだ。そうすりゃお前が俺に恩を売ったことになる。浄化屋に留める理由にしちゃ十分効果的だろ?」  ニヒルに歪められた表情に内面の悪辣さが浮き出ている。隠しもせずに下品な発想を口にするのは好感が持てると、昴は口元を微かに緩めて笑い声を漏らし、三本指を翔馬に突き出した。 「俺が今から言う願い事は翔さんに叶えて貰う物じゃない。それだけは言っておくからな」  一点の曇りのない黒水晶の双眸が真っ直ぐと翔馬を捉えている。年相応とは言い難い芯のある眼差しに射抜かれ、茶化す気も早々に消え失せていた。  指を一つずつ折りながら、昴は願い事のカウントを開始する。 「一つは幼馴染の真冬を救うこと」 「二つは親友達の背負った重たい荷物を軽くすること」  ――三つ目は。 「――俺自身が一体何者か知ること」  嘘をつくのは下手だ。だからこそ昴が本気であることを翔馬は知り、あまりにも年相応さの欠片もないと感嘆すらした。  達観している節を時折見せるのが癪だ。翔馬はコップに残っていたビールを一気に煽り、静かに手元に置いた。 「欲を出せば楽なんだろうが、お前は手段の一つとしてあくまでも浄化屋を利用するってことだろ。餓鬼の考える頭じゃねぇな」 「ははっ。いいんだよ、俺はこれで。それに、欲がない訳じゃないしな」  言い回しの悪い『利用』という単語を否定せずに翔馬は肯定した。それを昴は確認し、何も言わずに立ち上がる。  酒と煙草の匂いが程よく充満した居間を出ようとした矢先に、翔馬は振り返ることなく口を開いた。 「なあ、昴。お前はこれまで生きてきた中でどの瞬間が一番地獄だったんだ」  昴の手が取っ手に触れ、ひたりと立ち止まる。制された訳ではない。その問いにいち早く脳が脊髄反射的に反応した。  昴は三回の瞬きを跨ぐ間を開け黙りこくり、やや長めの溜め息を吐き出した。 「決まった時間に差し出される一人ぼっちの食事。それが一番の地獄だったよ」  規則的に差し出される食事とは名ばかりの餌やり。昴は口にはしなかった言葉を表面上に出した台詞に上塗りさせ、くっと苦し紛れに口端を歪めた。耐えるような、だが笑っているような。自嘲的に吐き出したせいか虚しい感情が胸の辺りに浸透し、じわりと滲み出て広がっていった。  翔馬は昴を呼び止める訳でもなく、瓶に残ったビールをコップに注ぎ入れ、小さく「そうか」と漏らした。  ◇◇◇  居間を出た昴は盛大な溜め息を吐き出し、息苦しさから脱却しようと壁に背中を預けたまま腰から力を抜く。 「……余計なことばかり思い出させるなよ」  くしゃりと前髪を搔き毟り、再度深い溜め息をつき、昴はゆっくりと顔を上げる。  秀吉に言われた『忠告』を思い出し、ふっと固く引き結ばれていた口許を緩め、一人静かに呟いた。 「言われなくても分かってるんだけどな――」  昴は久しく向けられることのなかった視線に不快感を強く感じながら、気持ち悪さを噛み潰すように小さく舌打ちをする。  どこか情けない表情を下に向け、口惜しそうに「クソが」と苦々しく吐き出した。

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