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◇◇◇
立て付けが悪く、所々ガタが生じた廃ビル街の一角。人通りが少なければ、車もあまり通らない老朽化 が進んだ貸店舗が集まる中で、唯一業務活動をしている会社があった。
二階建てで下の階には乗用車が三台程停められる駐車場付き。看板は真新しい物の、清掃が行き届いていないせいか茶色い斑点が染み付いている。
突っかかりのある窓を開き、一人の男性は窓辺に身を寄せながら煙草を蒸す。目が見えない程覆い隠された前髪は鬱蒼 と生 い茂 った密林と化す。無駄に鍛えた身体は厚く張り、スーツを何度新調してきたか覚えていない。
肺一杯に吸い込んだ煙を吐き出し、男性は側に置いていた灰皿に吸殻 を押し付ける。
スーツの裾をか弱く引く小さな白い手が視界に入った。
「ショウ」
「ん?」
「携帯鳴ってた」
「誰からだ?」
「シー」
少女が口にした名前に男性は穏やかに笑った。渡された携帯電話を受け取り、優しく少女の小さな頭を撫でる。
男性は送られてきたメッセージを開き、穏やかだった表情を僅 かに固くする。
「……戻ってきて早々、初めて見たな」
「ショウ?」
「新入社員候補、か。まあ、人員不足だから詩音に任せるしかねぇな」
メッセージの後に送られてきた写真を拡大し、男性は屈 んで少女に見せた。
少女は驚いたように目を大きく開け、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
「手鞠 。こいつをどう見る?」
「穢 れたことがない白磁色 の魂の宿主」
「……穢れ知らずか。問題点はあるか?」
「ない」
蒼い瞳で写真に映る少年を見据えながら、少女は胸元をぎゅっと握る。優しい風がそわそわと知らせてきたのは、きっと彼の存在があったからだ。少女は期待に膨らむ蕾 に、普段は見せない笑顔を浮かべていた。
男性は少女の笑顔を見て、驚き半分に動揺した。
楽しげに足を弾ませながら、来客用のソファに戻り、少女はどこの言葉かも分からない歌を口ずさむ。高揚感 を抑え切れず玄関を見詰める少女の顔を見ながら、男性は呆れたように口元を緩めた。
「……今日中に連れてこい、でいいか。これから忙しくなりそうだな」
野暮 ったい前髪の隙間で輝く翡翠 を愉快そうに細めながら、男性は不敵に笑った。
◇◇◇
連投の如く送られてくるソーシャルゲームのスクリーンショットがCOMEのグループチャットに何件も溜まる。昴と秀吉、良太郎の三人は既読無視 を平然とやってのけ、深い溜め息を盛大に吐き出した。
「ガチャ爆死報告は要らないな」
「ピックアップ仕事しろ、という呟きもしてますよ」
「はは。今回はどんくらい諭吉をドブに捨てるんだろうな」
呆れ声が自然と溢れ落ち、昴は無意識に微笑を浮かべた。
藤咲市に来て一年と二ヶ月弱。昴は癖でシャツの中に隠れている御守 を撫でた。故郷から離れるのと同時に、たった一人の幼馴染がくれた御守だ。無理に笑う彼女の顔が脳裏 に深く刻み込まれている。逃げてしまった罪悪感と後悔に板挟みになることしか出来ない自分に、昴は現時点で感じている多幸感 が恨めしく、憎らしかった。
「なあ、宮盾」
「……ん?」
「お前の生徒手帳に挟んである写真に映ってるの、彼女か?」
「は!?」
突然の爆弾投下に昴は全身が沸騰する程熱くなる。慌ててブレザーの胸ポケットに入れていた生徒手帳を取り出し、写真の有無 を確認する。
中学校の入学式当時の写真を確認出来た。今よりも幼い顔をした昴の隣に寄り添うように立つ、清楚で可愛らしい顔立ちをした少女の姿だ。汚れてもいない。昴は動揺と焦りで鼓動が早鐘 を打つ度、赤かった顔が青白く血色が下がっていった。
「悪ぃ悪ぃ。如月がお前の生徒手帳スッた時に見たんだよ」
悪びれもなく謝る秀吉はお詫びと言わんばかりにジムのクーポン券を昴の机に置いた。
「いつから」
「去年の学園祭準備期間」
「前過ぎるだろ、それ!」
「いやいや、そこは上着置きっぱなしにしてたお前が悪いだろ」
的を射た発言がぐさりと鈍い音と共に胸を貫く。心の中で吐血 をしながら、昴の意識は遠くへ逝ってしまいそうだった。
秀吉は苦笑を浮かべてから、良太郎が広げていたチョコレートを一粒摘んだ。
「あー。にっが」
「分かってて口にするのは如何な物かと思うのですが」
「知るかー。今度は抹茶のチョコ持ってこいよー。宇治の濃い奴なー」
「……はいはいなのです」
良太郎は溜め息混じりにぶつくさと文句を垂れながら、音楽プレーヤーに繋がったイヤホンを耳に嵌めた。
冷静を取り戻しつつある昴は、秀吉を見上げた。
「急にどうしたんだ?」
「取り敢えず、この美少女ちゃんは彼女じゃないんだろ」
「……ああ。幼馴染だよ」
――たった一人の大切な女性だ。
昴は口には出さずに胸中に留め、写真に写る少女――真冬 のたおやかな表情を懐かしむように見詰めた。
「地元の病院に入院してるんだ。中学二年の秋頃から、高校に通うことすら出来なくて、病室と投薬治療に縛り付けられてる」
「未練がましいな」
「……逃げてきたようなもんだからな。真冬から貰った御守だけが存在を確かにしてくれてる」
普段なら話さない内容が、すらすらと口から流れるように出てくる。真冬が病に縛り付けられ、自分に縛られているのは、昴が犯 した拭 い切れない大罪 だ。
沈みきった昴の顔を見下ろす秀吉は、盛大な溜め息を吐き出した。
「まだ生きてるならいいじゃねぇか」
「……っ」
「一人で背負い込む程じゃないってことだよ。そんなことしてちゃ、真冬ちゃんだって安心出来ないだろ」
秀吉は笑いながら自身の胸元を指差す。
「御守の意味を真剣に考えてやれよ。お前が思っているよりも、真冬ちゃんが託 した願いは眩しい物なんだから」
白い歯を見せながら秀吉は快活 に笑い、昴の驚いた顔を可笑しそうに見下ろしている。
元気付けようとしてくれている魂胆 が丸見えだ。昴は首に提げた御守を優しく握り締め、自然と笑みが溢れた。
隣で音楽を聞いていた良太郎が、携帯電話の中に保存していた写真を見せてくる。
「これ、見て欲しいのですが」
「なん……おお!?」
「で、デカイ!」
写真に映し出されていた人物の向かい側に座るスーツ姿の女性に一点が集中した。出る所は出たグラマラス体型にアンバランスな和風美人。ブラウスの釦が飛び散らんばかりの豊満な胸だ。
巨乳美女の向かい側に座っている少年に遅れて気付く。
「……あれ? これって、西園……だよな?」
「ああ。西園だな」
「社会人のセフレが居ると噂で聞いたことがありますが……」
「巨乳美女のセフレ……か」
――イケメン爆発しろ。
心の声が同調 した。
死活問題に瀕 したのは珍しいことじゃない。AVやエロ本でしか潤いを満たせないでいる三人にとって、オートスキル『乙女心の掌握者 』を常時発動している西園詩音という男は、即死攻撃を所有しているラスボス級の手練 で、全国のモテないメンズが束になっても敵わない相手だ。
目が据わった状態で親しげな空気を感じさせる詩音と巨乳美女を見下ろす。一度見たら忘れられない大きなおっぱいだ。重たそうにどっしりと構えている。
「セフレだったらおっぱい触り放題な関係だよな」
「もう、セルフなフリータイムのおっパブ満喫し放題だろ」
厭らしい思考回路に直結している昴と秀吉を冷静に見ていた良太郎は、分かりやすく溜め息をついた。
「まあ、残念ながらこの女性は噂の社会人さんではないのですよ」
「違うのか!?」
「社会人のセフレさんは大手企業の社長秘書です。お兄ちゃんの友達がその会社で働いているので、マジのマジな話ですが」
「……うっわ。凛太郎 さんのコミュニティの広さが怖すぎる」
「……あはは。僕だけでなくお父さん達も把握出来てませんから……」
ホーム画面に戻してから、良太郎は携帯電話を胸ポケットに仕舞い、俯いた拍子に傾いた眼鏡の位置を正す。
自分の顔を凝視している昴と秀吉に困惑した様子で良太郎は戸惑った。
「ど、どうかしたのですか?」
「眼鏡外したら美少年の方程式って本当だろうなー」
「へぁ!? そ、そそそ……!」
「西口の駅前にある広告モデルって……」
「わぁ――!」
声を張り上げては顔を赤くしたり青くしたりと忙しなく上昇と下降を繰り返す。軽く触れれば直ぐに動揺する良太郎は誰よりも分かりやすい。昴は堪え切れずに噴き出し、良太郎の額に軽く指で弾いた。
「いっ!」
「落ち着け落ち着けー」
「ゔぁ!」
何度も額を指で弾く度に、良太郎の小さな頭が振り子のように往復しながら出戻りを繰り返す。
「おー。弾く弾くー」
「ひぅぅ! もう、やめ……」
「変な声出さないでくれよ。萎 える」
「そんなもの、もげろ! なのです!」
綺麗な日の丸弁当ができ、痛みを訴える額を押さえながら、良太郎は威嚇 を繰り返す。尻込みしているせいか、大型犬に立ち向かおうと躍起になるチワワのようだ。
満たされた時間が些細なことでも濃密な物に見えるのは、過大評価を付け過ぎただけだ。鏡を見る度に、自分は普通に笑えているのか表情の確認をする作業をやめた時、それは昴にとっての成長の兆 しが訪れる。
心から笑えるようになったことを真冬に伝えたい。昴は幼馴染の顔を思い出しながら、暗がりを抱えていた感情の霧を振り払った。
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