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 ◇◇◇  ――藤咲市に足を踏み入れた一年と二ヶ月前の話だ。  幾度(いくど)となく通い詰めた涼風総合病院(すずかぜそうごうびょういん)隔離(かくり)された別棟は、気が付けば看護師を引き連れた医者に無言で通され、(かぐわ)しい白百合の花束を飽きることなく両手に抱えて歩く。  目が死んでいる患者が昴を見る度に、不快とは形容し(がた)い吐き気に似た感情が胃の底から(くすぶ)り続け、マグマのように煮え(たぎ)る。  中学校の卒業式は(とお)に終わった。  隣に誰も居ない(さび)れた空間を埋めるように、香りが強い百合の森に身を隠すように。昴は(しな)びれた思考の壁を分厚いフィルターで何重にも重ね、表情を固く引き締めた。  角部屋の個室に辿り着き、昴は扉をノックした。 「真冬。入るけど、開けても大丈夫か」  声の変わりに鈴がちろちろと了承の音色を立てる。昴は安堵(あんど)し、横開きの扉を引いた。  病室に足を踏み入れた瞬間、開いていた窓から穏やかな風が舞い込んでいた。ひらりと(なび)いて踊る水色のカーテンを見詰める少女――麻生(あそう)真冬は、珍しく身体を起こしている。看護師に洗って貰ったのか、艶が復活した淡い栗色の髪が日の光を浴びて、煌々(こうこう)と輝いていた。 「風邪引くぞ」 「大丈夫だよ。今日は体の調子がとてもいいんだ」  幸薄く笑う真冬の身体に侵食した青い結晶によく似た(うろこ)が視界に映る。身体が反射的に目を(そら)してしまう。彼女をそうさせてしまった(あやま)ちが重石(おもし)となって自身に背負い込む度に、昴は息継ぎをするのを忘れる。  強固な鉄柵(てっさく)に囲まれた牢屋(ろうや)に入れたら、今よりも息はしやすいのかもしれない。生きながら死んでいるような感覚を、今更真冬に打ち明ける勇気は存在しなかった。  花瓶(かびん)に百合を生け、昴は個室に備え付けられた鏡に映る自分を見る。感情が希薄(きはく)な顔に、幽霊じみていると自嘲した。 「昴。元気、ない?」 「いや、そんなことは……」 「誤魔化しても無駄です。私には分かるんだからね」  図星を突かれたことに、昴は押し黙る。明るく笑う真冬の顔が直視出来ずに俯き、耐え凌ぐように昴は拳を握り締めた。  だが、真冬には全て分かっていた。 「ねえ、昴。隣に来てくれないかな」 「……っ」  柔和(にゅうわ)な笑顔に見え隠れする般若(はんにゃ)を覗かせながら、真冬は昴を手招いている。  昔から彼女に逆らえた試しはない。投降を決めた犯人の心情が痛く分かってしまうのが世知辛(せちがら)いだけだ。  パイプ椅子に座り、居心地悪そうに窓から見える晴天を見詰める。真冬は呆れたように笑いながら、昴の手に自分の手を重ねた。 「何かあったんでしょ?」 「それは、その……」 「卒業式が始まる一週間くらい前かな。珍しく落ち着きがないし、変な汗ばっかり掻いてるし」 「…………」 「無言は肯定(こうてい)の証だよ。(しばら)く来てくれなかった理由は受験だけじゃないんでしょ?」  隅々まで見透かされている。これまでなら安心出来た筈が、今では恐ろしくて堪らない。 「――ごめん」  必死に言葉を手繰り寄せようと口を開く物の、溢れ落ちたのはあまりにも身勝手な物だった。  彼女が謝罪を求めている訳ではない。それでも口から滑り落ちたのは、あまりにも勝手過ぎた。  昴はショルダーバッグに入れていたクリアファイルの中から、一枚の書類を取り出した。 「俺さ、この街から出ようと思うんだ」  真冬は言葉を無くしたのか、驚いたように目を丸くしている。  昴が手にしている書類は『契約書』のような物だ。涼宮境(すずみざかい)市から遠く離れた街にある高校の特待生に選ばれたことが見て取れる内容だった。 「昴なら大丈夫だよ」 「……でも、俺は真冬を一人にしたくない」 「だからって、それに昴がやりたいこと全部がある訳じゃないでしょ」 「友達が亡くなってから、ずっと引き()ってたのは誰だよ」 「はいはい、分かってます」 「それに、おばさん達だって来ないだろ」 「うん。そうだね」  言い訳がましく駄々(だだ)()ねているのに、真冬は優しく受け止めてくれる。寂しさを隠しているのは互いに同じだ。だからか、口数は多くない筈の昴は止まらなかった。 「ごめん。真冬」 「どうして謝るの?」 「だって、真冬をこんな身体にしたのは……」 「――それは違うよ」  真冬の力強い言葉が昴の胸をちくりと突き刺す。どれだけ懺悔(ざんげ)をしても、真冬はそれを望まない。  背負う罪の重さに押し潰され、苦しみに(あえ)ぐ度に熱中症と同様の症状が自身に襲い掛かるのだ。歪曲(わいきょく)し、おかしな方向にねじ曲がる(くだ)が複雑に絡み合い、吐き出す為の通路を(せば)める。こみ上げる吐き気は一向に吐瀉物(としゃぶつ)を出そうとしない。昴は行き場のない孤立感情に訳も分からず焦っていた。  真冬は優しく笑いながら、ベッドの隣に備え付けられているサイドチェストの引き出しを開けた。 「大丈夫。昴は一人じゃないよ」 「…………」 「ほら。手、出して」  言われるがまま右手を出すと、赤と金を基調とした御守が手渡される。手渡した御守を真冬は両手で包みながら、祈るように瞳を閉じた。  小さくて軽い筈なのに、不思議とどっしりと重たく感じる。昴は黙り込む真冬を見詰めながら、彼女を真似るように御守に祈りを込めた。 「離れていても、ずっと一緒だよ」 「……ああ」 「だからね、昴。昴が本当にやりたいことを全力でやって。昴ならきっと――」  ――誰かを(みちび)ける一番星になれるから。  ◇◇◇  思い切り机に頭を叩きつけながら、昴は目を覚ます。クラス全体が(にぶ)い音のせいで静まり返る中、強打(きょうだ)した額から伝わる焦熱(しょうねつ)を冷ますべく、机と挨拶をしながら硬直していた。  久し振りに過去へと記憶だけがリープしていた。昴はホームルームという短い時間で、膨大(ぼうだい)な情報量の再生を繰り返していたのを知り、頭を振って払拭(ふっしょく)しようとする。  ……くそ。  秀吉に幼馴染の話題を振られたのが発端(ほったん)だ。昴は前の席で笑いを堪えている秀吉を睨み付け、ひりつく額を撫でた。  神経質顔の担任教師――仙崎(せんざき)が昴を侮蔑(ぶべつ)の眼差しで一瞥し、わざと聞こえる大きさで溜め息をついた。  仙崎の機嫌を損ねたせいか、ホームルームは早々(そうそう)に終わり、さっさとクラスメイトは教室を出ていく。  だが、腕を枕にして寝ている詩音は、ホームルームが終わったことに気付いていないようだった。  昴は(ほう)けた眼差しで詩音を見ながら、欠伸を噛み殺す。育ちが良さそうに見えるのが羨ましい気がして仕方がなかった。  ……劣等感とか見苦しいな。  昴はショルダーバッグのチャックを開き、愛読書と化した求人情報雑誌を入れた。  眠りこけている詩音の側に歩み寄ってくる少女が居た。昼休みに見掛けたゆるふわ系の女子生徒であることに気付き、思わず凝視した。 「詩音くーん。起きてー」 「……んぅ。後五分……」  すっかり夢の国へ旅立ってしまった詩音を微笑ましく見守る少女は、隣の席に腰を下ろして、詩音の寝顔を愛おしげに眺めていた。  少女の姿が真冬と重なる。昴は慌てて頭を振って(よこしま)な考え方を捨て去った。 「……本当、嫌になるな」 「何がだ?」 「どわ!?」  目の前に現れた秀吉に昴は吃驚(きっきょう)し、椅子から転げ落ちる。 「いっ……た……」  激しい音を立てながら下半身を強打し、鈍痛(どんつう)が腰を中心に広がっていく。転げ落ちた昴の目線に合わせるよう腰を屈めた良太郎が小馬鹿にするように笑った。 「今日は厄日(やくび)なのかもしれないのですね」 「馬鹿にしてるつもりか……?」 「今日はグラスホッパーですよね」 「……ああ。バイトのことか」 「帰宅の際に厄介事に巻き込まれたりするのではないのですか?」 「……やめろ。全く笑えない」  猫さながらに締まりのない緩みきった口元が苛立ちを募らす。詩音と一、ニを争う秀才に加えた末っ子特有の鼻につく小生意気さが合わさると、メーターを突き抜ける程腹が立つ。良太郎の予感も(おおむ)ね当たることから、昴は悪寒(おかん)が走り、その場で身震いをした。  気が付けば、詩音と少女は居なくなっていた。昴が見ている方向に気付いた良太郎は、小さく溜め息をつく。 「西園氏の側に居たのは花房紫ちゃんという子なのです。一組に在籍しているのですよ」 「……説明ありがとな」 「他校にもファンが大勢居るので、藤代では朝倉(あさくら)先輩に次ぐ有名人なのです」 「朝倉……。あ、マドンナか」 「といっても暫く学校は休んでいるので、西園氏の側に居なかったのですが」  他人に対して無関心気味の昴にとって、全校生徒の名前を覚えている良太郎の記憶力は助力になっている。記憶力は良くても、根っからの人見知りなのが致命的な弱点になっているのが痛手に思えてしまった。  秀吉は掛け時計を見てから、昴に声を掛ける。 「宮盾ー。遅刻したら店長と間中(まなか)さんにドヤされるぞー」 「え……って、やば!」  昴は慌てて立ち上がり、ショルダーバッグを肩に提げて駆け出す。後ろで秀吉が何かを言っているような気がしたが、どうせろくでもないことだろうと苦笑いで流した。 「松村氏。部活に行かないのですか?」 「今日はポイント十倍デーだからサボるわ。そんでもって近所のドラッグストアでセールやってるからなぁ」 「……昨日はタイムセールでサボったでしょうに」 「練習メニューは渡してあるからいいんだよ」

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