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 ◇◇◇  最後の客が帰り、(いさぎよ)くグラスホッパーは本日の営業を終えた。  モップで床を磨きながら、昴はホールに掛けられている時計を見る。時刻は二十一時を過ぎ、今からアパートに帰ると二十二時は過ぎるかもしれない。翌日に備えて空になりつつある冷蔵庫を満たそうかと考えていたが、やはりコンビニのアルバイトがクビになったのは今でも痛手だった。 「時給はいいんだけどな……」 「アタシの店だから当たり前だろうが」  女性にしては低めの声が傲慢さを匂わせながら、昴の肩を掴み、不敵に笑っていた。  わざとらしく右腕に当てられる胸の感触に昴の顔は赤く燃え上がる。長身の美女である美佳子は、昴の(うぶ)な反応をあからさまに小馬鹿にした。 「そんなに飯に困ってるなら、うちのボンクラをやるって言ってるじゃないか」 「嫌ですよ、それだけは……!」 「逆に襲われるからか? いいじゃないか。間中に筆下ろしして貰いな」  甘美(かんび)な色っぽい声から紡がれる悪魔の囁きに昴は膝からガクガクと震えた。  志郎の作る料理は全て美味いことは分かっている。  だが、それと引き換えに貞操を奪われる危機感が昴を襲うだけだ。  美佳子は拭いたばかりの座席に座り、長い足を組んだ。タイトなスカートから覗く白く引き締まった足が(なまめ)かしい。有り余った余裕を見せる三十路の独身は昴を煽る。 「何。足が好きなのか?」 「ち、違いますから」 「まあ、あれだな。アタシはお前のトラブル体質は熟知してるつもりだ。情に流されて童貞卒業するのは目に見えて分かるよ」 「勝手に予言しないでくれます!?」  泰にも腐る程言われてきた最悪な結末を美佳子も同様に考えていたらしく、嫌なフラグが立ち続けているのに恐怖で身震いをした。  美佳子は嘆息(たんそく)し、その場から立ち上がる。 「さっさと帰りな。今日は平日にしちゃ客足が多かったからね。残りは間中に全部やらせるから、学生は勉強優先だよ」  昴の手からモップを奪い取り、美佳子は顎で帰るよう促す。昴は申し訳なさを半分抱えながらも、裏がありそうな好意に甘えた。 「店長、ありがとうございます」 「いいよ、そんな柄にもないこと。今度店巡りにでも付き合ってくれたら、いくらでもチャラに出来るからね」 「太川さんだけじゃ足りないんですね……」 「(たもつ)は料理一つで口煩いから嫌なだけだよ。間中みたいに黙っててくれりゃあ楽なんだけどさ」  首の後ろを掻きながら、美佳子は愚痴(ぐち)を吐き出す。女性特有のねちねちとした愚痴が美佳子の口から溢れ出し、昴の頬はひくりと引き()った。  昴は退散するように陰鬱(いんうつ)としたオーラを放出し続ける美佳子に気付かれないよう、そそくさと奥の方へと逃げていった。  ◇◇◇ 「あー……。今日も終わりかぁ」  肩が凝るウェイターの制服から解放され、昴は凝り固まった筋肉を伸ばすように、腕を上げた。肩の関節が小気味よい音を立て、固まっていた上半身が一気に脱力する。脱力をしたのと同時に、昴は肌寒さがじんわりと流れ込んで、涼しさに心地よさを感じていた。  グラスホッパー以外にもファストフード店のアルバイトがあるが、珍しく明日はどこもシフトが入っていなかった。  昴は久し振りに友人達と遊べることに気分が良くなり、足取りは軽かった。  どん、と小さな音を立て、目の前を歩いていた人間とぶつかる。 「すみませ……」  言いかけた瞬間、昴は言葉を失くす。  街灯の眩しい光を受けながら、人型の黒い『何か』が、後ろからぶつかった昴を振り返る。骸骨のような白い仮面を黒い樹脂粘土に埋め込んだ出で立ちの、作り物めいた異形な生物だ。  だらりと垂れた不格好な両腕は地面に付きそうなくらい引き摺り、背骨が浮き出る程の骨張った猫背。カタカタと不気味な音をかち鳴らしながら、黒い生物はだれた両腕を鋭い鎌の切っ先に変えた。 「っ!?」  目の前で振り(かざ)された刃を昴は後退しながら躱した。見た事もない生物に昴の鼓動は激しく打たれ続ける。  だが、目の前の生物は昴を仕留めようと続けざまに刃を振るった。  昴は寸での距離で躱すも、誤って両足で着地してしまい、重心の軸がぶれ、反応速度が鈍る。  ……ヤバい。  無様に尻餅をつき、容赦なく刃を振りかぶる生物が昴を見下ろす。昴は来る衝撃を想像して、反射的に目を瞑った。 「ひゅー。やっぱり俺の目に間違いなかったね」  聞き慣れた声に昴は目を開けた。  目の前に広がるのは鮮やかな群青色(ぐんじょういろ)羽織(はおり)をマントのように肩に掛ける少年の背中だった。一振りの刀を手にし、少年は余裕に満ちた微笑を(たずさ)え、異形の生物を一瞬で斬り捨てる。簡単に両断された生物の身体はほろほろと解けるように崩れ、跡形もなく消滅していった。  昴は唖然(あぜん)とした顔のまま、助けてくれた相手を見上げる。 「に、西園……?」  見慣れた少年は校内一のハーレム王――詩音だった。  白い染料で菊が描かれた羽織を(ひるがえ)し、詩音はにこやかに昴に手を差し伸べた。  昴は詩音の手を借りて立ち上がり、少なからず放心状態に(おちい)る。 「え、なん……ええ?」 「あはは。驚くよねー」 「いや、まず……何、その格好?」  制服の上から羽織っている羽織と刀を指差しながら、昴は間抜け顔を晒す。  詩音はきょとん、とした顔をしたかと思えば、子供のように明るく笑った。 「えっとね、これは仕事着?」 「俺に聞かれても分からないからな」 「正装みたいな奴だよ!」 「それにしちゃ、ラフだな」 「この羽織って意外と高いらしいよー」 「知るか」  拍子抜けする程の浮ついたテンションに昴は押される。綿でも詰めていそうな中身のなさだ。これで文武両道を謳っているイケメンなことに昴は頭痛を覚えた。  詩音はほくそ笑みながら、刀の逆刃で肩を叩く。 「やーっぱり。宮盾君って、素質ありそうだね」 「何……うおぁ!?」  突如斬り掛かってきた詩音の刀を避け、昴は仰天しっぱなしだ。どこか試すような太刀筋は少しずつ速度を上げ、先程の異形の生物が繰り出していた斬撃よりも遥かに素早い。昴は気配だけで躱す物の、ギリギリのラインを保つので限界だ。  前髪がはらりと切られる。詩音は満足したのか、刀を手元に戻した。 「うん。これでも無傷で躱せるんだ」 「い、いきなりなんなんだ……?」  肩で息をしながら、バクバクと張り裂けそうな心臓を落ち着かせようと、昴は深呼吸を繰り返す。アルバイト帰りにおかしな生物との接触を合わせれば、スタミナが切れてもおかしくはなかった。  昴は額を流れた汗を制服の袖で拭いながら、刀を粒子に変えて消した詩音を見やる。 「ヘッドハンティングってここまでやった方がいいのかな?」 「……っは……知る、か」 「じゃあ、今から所長の所に行こうよ。さあさあ、俺に掴まって掴まってー」  勝手に自己完結をし、昴の意見も聞かずに詩音は昴の右手を掴んだ。  昴は訳も分からず固まっているが、詩音は容易くそれを凌駕(りょうが)する。  詩音が地面を蹴り上げたのと同時に、感じたこともない浮遊感が襲う。昴は呆気に取られ、下を見ると、直ぐそこにあったコンクリートの地面は足から遠ざかっていた。  ……は? 「はぁ――!?」  ――拝啓、誇り高き親友達へ。現在、ハーレム王に手を取られ、まだ見ぬネバーランドへ連れて行かれようとしております。厄日のフラグは回避出来ませんでした。  昴の絶叫は静まり返った宵闇(よいやみ)に吸い込まれ、レールのない宙ぶらりんのジェットコースターを無銭(むせん)で味わっていた。

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