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◇◇◇
……腹減った。
詩音に連れて来られたのは廃墟 が立ち並ぶ古びたビル街だ。街灯の電球が切れかかっているのか、弾ける音と共に点滅を繰り返す。昴は空腹のせいか思考回路がままならなくなりながら、意気揚々とコスモレンジャーの主題歌を口ずさむ詩音の後ろをついて歩いていた。
「なあ、西園。聞きたいことがあるんだけど、さっきの黒い奴って何?」
昴の質問に詩音の機嫌は更に上がる。張り切っているのか、幼子のように目が爛々と輝いていた。
「あれはね、虚霊 っていうんだ」
「きょ……れい?」
「本当の正式名称は別にあるんだけど、浄化屋は覚えやすく虚霊っていう別称を使ってるんだ」
「じょ……え?」
聞き慣れない単語の数々に昴の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
漫画やアニメの世界を三次元に持ち込んだ異次元空間の話に展開されていく流れだ。
昴は困惑を引き裂く衝撃が脳天を中心に落ちた。
「虚霊ってなんなんだ? 浄化屋って一体……」
「宮盾君は『魂の概念』についてどういう風に認識してる?」
逆に質問され、昴は僅かに反応が遅れた。魂についての認識は考えたこともない。昴は答えを捻り出そうと躍起になるも、詩音はおかしそうに笑った。
「ちょっと意地悪だったかな。まあ、世間一般の無宗教の人だったら考える必要ないよね。宗教が全てじゃないけどさ」
「は……?」
「虚霊っていうのは、死んだ人間の魂から作り出された穢れの集合体なんだ」
詩音の口から『穢れ』の単語を聞いた昴は、無意識に御守を掴んだ。
浄化屋の存在は知らない。
しかし、昴は『穢れ』の存在を知っていた。
昴の表情に変化があったのを詩音は気付き、不穏 な空気を紛 らわそうと言葉選びに悩み始めた。
「……で、その虚霊っていうのは実際の所なんなんだ?」
「え……。あ、うん」
詩音は有無を言わせない昴の圧力に気圧され、戸惑いながらも説明を再開した。
「簡単に言えば天界に渡れる権限を得られなかった、昇華し切れずに現世 に残った存在なんだ。穢れは負の感情に大きく左右される。魂はプラスとマイナスの天秤がマイナスに傾くと穢れが蓄積され続けて、生前が善良な人間でも死後に残った穢れた魂が宿主から抜けて独り歩きするんだよ。負の感情の一端で生きた人間の魂を取り込もうと襲うんだ」
かなり難解な情報量を取り込めるなら昴は取り込みたい。昴は説明の中で一部しか理解出来ていないことに顔を顰 めた。
「じゃあ、生きてる人間はならないのか?」
「虚霊はね。虚霊は死んだ後に生まれるクリーチャーだから」
「クリーチャーなら腐る程ゲームで殲滅 してるけど、現実で本物のクリーチャーは知らなかった。寧 ろ知りたくもなかったな」
「浄化屋はそんな世界で生きてるからねー。普通なら直ぐに理解出来ないし、受け入れ難 いよね」
眉尻を下げて笑いながら、詩音は右サイドの長い髪を指で弄る。女子のような仕草で昴は不思議な生物を見ている気持ちになった。
「なあ、西園ってさ」
「何?」
「女人百人切りって本当か?」
「え……」
詩音が非童貞ではないことは野生の勘で入学当初から気付いている。美女ばかりのセフレを囲んでいる噂は有名だ。
詩音は顔を真っ赤にしながら、羞恥と怒りを滲ませていた。
「そ、そこまでヤッたことないし! た、確かにそういう関係の女の子ならそれなりに居るけど! でも、十一人だけだもん!」
「人数を大声で暴露 するなよ!」
「……むー。そんなにヤッたら勃たなくなるから」
綺麗な顔とは不釣り合いな年相応らしさに、昴は緊張の糸が解れ、笑いが込み上げてきた。
詩音は不機嫌になると唇を尖らせるらしい。いじけた子供のようだと昴はおかしさに笑った。
「むー。笑い過ぎだよ」
「悪い。誤解が解けただけだから安心して欲しいな」
「ご、誤解……?」
「女なら誰それ構わず食い散らかす可愛い兎の皮を被った狼……っていう勝手な偏見だよ。別に本気にはしてなかったけどさ」
ありとあらゆるジャンルの女性に囲まれている。男から見ても羨ましい環境の中、やがてそれが妬 み嫉 みから悪質な噂が飛び交う。昴から見ても詩音の尋常じゃないモテ具合は僻 み物だ。
詩音は更に不機嫌になったらしく、猫のような唸り声を出していた。
「別に、そんな最低なことしないもん……」
「男からの評価だしな。まあ、俺だけじゃなく松村達も別に気にしてないけどさ」
「ゔ〜……」
泣き出しそうな詩音の背中を掌で叩き、昴は痛そうに呻くハーレム王の横顔を見る。繊細なガラス細工のようにきめ細かく、端正で整った顔立ちは、少女漫画に出てくる登場人物のようだ。同性から見ても嫉妬をするのは当たり前で、女性が好んで近付いてくるのも頷ける。
詩音の足が薄汚れた二階建てビルの前に止まる。一階はガレージらしく、一台の軽自動車が停車され、駐車スペースは三台くらい入れる広さだ。
看板には『浄化屋・峰玉 』と達筆な黒字で書かれていた。
「ほう、ぎょく」
「ここが、俺が所属してる浄化屋だよ。格安で買えたのがここだったんだってー。立て付けが悪いから、風が強い日なんて隙間風が凄いんだよね。雨漏りは直ったんだけど……」
「色々ヤバいだろ、それ……」
「でも、給料は他の仕事よりもいいよ? 手取りは十五万からで〜」
「……ぐっ。美味しい話には釣られたくないんだけど……」
アルバイトを掛け持ちするよりも良心的な金額設定に昴の気持ちはぐらぐらと揺れた。怪しさしかない『浄化屋』の単語に危険な香りは付き物だろう。
しかし、昴は一握りの好奇心の箱に大きな望みを隠した。
詩音の後ろをついて歩き、昴は二階へと続く階段を上がる。手摺りがなければ転げ落ちそうな段差だ。段差の高さで上りやすさは変わると聞く。上がりにくい急な階段は、足場を不安定にさせる。古いだけあるのだろう。昴は不慣れな場所に苦労を覚えた。
事務所の名札が掛けられた扉を詩音は開けた。
「ただいまー。新入社員連れてきたよー」
お気楽とした詩音の声が事務所の中に響く。昴は事務所の中に足を踏み入れた瞬間、か弱い握力でブレザーの裾を掴まれた。
下を見ようとした時、異様な空気を纏う男性の気配に目の色を変えた。
「あー、詩音。次どの馬に賭ければ当たりだ」
「翔さーん。またお金なくなるよ?」
どこからともなく出現したクナイを手にした詩音は、背中を向けて座るガタイのいい男に向かって投擲 した。
椅子の滑車 で横に滑りながら男は軽々と躱す。クナイは吸い込まれるように競馬新聞を貫き、壁に縫い付けられた。
「ったく。奇襲攻撃はしちゃいけませんって教えなかったかぁ?」
「ゔぅ〜……」
野暮ったい容姿が目を惹く男はやんわりとした口調で詩音を叱りつけ、分かりやすく溜め息を吐き出す。
肩幅ががっしりとした厚みのある体格だ。不摂生 な外見をしているが、仕立てのいいスーツがミスマッチさを醸し出す。葬儀屋さながらの出で立ちだが、彼の姿はヤクザのような粗暴 さも見て取れた。
長い前髪から妖しく光る翡翠の目が昴を捉えた。内部を探るような不快感が背筋を駆ける。雁字搦 めに纏わりついてくる蛇だ。体温が低く、つるりとした体表の蛇が足元から伝い上り、毒を穿 つ牙を見せながら笑うのだ。
男は掌の上で転がしていたサイコロを上に投げた。
「お前が例の新入社員、な」
「…………」
「手鞠が惹かれる理由も分かるな」
腰に響く低音の奥底で、愉悦 に嗤 う声が底知れない泥沼から触手を伸ばされる。昴は呼吸困難な鑑賞用のゲージに入れられた錯覚を覚えた。男から放たれるのは、末恐ろしい獰猛性を兼ね備えた毒だ。
「――新しい風」
鈴を転がしたような声に意識はゲージの外へと引き戻された。
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