11 / 84

第二章:廻り廻る風車

 祭りのお囃子(はやし)のように鳴り響く鈴の音色で、深層に落ちていた意識がゆっくりと浮上する。浮上する最中(さなか)、霧かかった白い景色の向こうで人影を見た気がする。  ぼやけた霧がかった視界に、雲間を掻き分けて降り注ぐ光芒(こうぼう)かのような閃光が霧を晴らしていく。  鈴の音が一つだけ鳴った。凛と張り詰めた清涼感のある空気にスー、と意識が冴え始める。  眼前(がんぜん)に広がる幻想的な景色に、(すばる)呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。  水面に挟まれて伸びる橋の先に見えたのは、荘厳(そうごん)(たたず)まいの古びた神宮(じんぐう)だ。神聖な空気はどこか薄く、(さび)れた感傷に浸っているように思えた。  見慣れたオンボロアパートの角部屋はどこを見ても姿を消していた。大家から借りている(ほこり)臭い煎餅布団(せんべいぶとん)もなく、立て付けの悪さから吹き(すさ)ぶ隙間風の寒さすらない。感じるのは全身を包み込む暖かさだった。  昴は目先にある橋を渡るべく、感覚が定まらない足で歩いた。 「ここは……?」  唖然(あぜん)としたのも束の間、(ほとばし)る風が湖を揺らした。鈴の音が再び鳴ると、目の前に昨夜出会ったばかりの人物が悠然(ゆうぜん)と歩いてきた。 「――へぇ。ここに入れるのか」 「黒栖(くろす)さん……?」  鬱陶(うっとう)しく伸びた前髪から翡翠(ひすい)の瞳を覗かせ、和装姿の翔馬(しょうま)は愉快そうに口元を歪めている。どこか神秘的な世界とは真逆の出で立ちが不釣合いで、違和感だけが尾鰭(おびれ)を残す。 「翔さんでいい。敬語もなしだ」  唐突に言われたせいか、昴は瞬きを繰り返した。私語で年上と話す機会は滅多にないせいか、反応に数秒のロスタイムがあった。  まるで呼んでくれと言わんばかりに鼻の下を伸ばして興奮しきっている。昴は初対面での末恐ろしさが消えてしまっているのに落胆(らくたん)するしかなかった。 「えー、と……翔さん?」 「もっと呼べ」 「……気持ち悪いんで、ガチで嫌だ」  拒否した途端、絶好調だった翔馬のテンションはあからさまに下降へと滑走路を下っていった。 「で、ここはどこなんだ?」 「境界(きょうかい)だよ。昴、あれが見えるか」  翔馬に促され、昴は後方を振り返る。振り返ると、眼前に飛び込んできたのは歪曲(わいきょく)した空間だ。宇宙の神秘すら感じられる青く美しい(いびつ)()に吸い込まれる数多(あまた)の白い軌跡(きせき)に、(しば)しの間昴は見惚(みほ)れていた。 「ここは生者と死者の狭間(はざま)。境界は宿主(やどぬし)を失くした魂の通り道として使われている」 「じゃあ、あの白いのは魂なのか……?」  翔馬は無言で肯定し、寂しげな眼差しで天界へと還る魂を見詰めていた。 「昇華された魂は新しい宿主が決まるまで天界に眠るんだ」 「じゃあ、新しい宿主が決まったら魂はそこに行くのか。言葉は悪いけど、リサイクルみたいだな……」 「そうだな。魂は早々(そうそう)に新しい物が出来る訳じゃない。古くなった魂をまた新しい物と同様に仕立て直すんだ。それが神様とやらのエコな決まりらしい」  呆れ混じりに翔馬は皮肉る。魂が還る様は腐る程見てきたであろう翔馬の横顔を見ながら、昴は物悲しい感情を覚えた。 「綺麗な物に見えるけど、それくらい人間が死んでるってことになるんだな……」 「……そうだな。肉体が死んで、魂だけが還る場所を用意されてる。皮肉だよ、こんな摂理(せつり)作った神様は」 「居場所、か」  魂が天界へと還るのは、自身を産み落とした親の顔を見たいが為に思える。絵本の世界と変わらない想像が出来ても、それを簡単に逆転する。生ある存在の死だ。善人でも悪人でも関係ない。死があるからこそ、天界の所有である魂が(なが)く存在しえるのだ。  ……ああ、皮肉しか出ないな。  生きている自分には無縁な話だろう。しかし、肉体の一部になっていた魂は風化(ふうか)知らずに新しい宿主を求めて(しば)しの期間を温かなベッドの中で休めるのだ。  翔馬は古びた神宮を振り返る。 「ここに神様は居なくなった。寂しい場所だろ、この神宮」 「寂しい……か。俺は何の未練も感じない場所に感じる……かも」 「未練、なぁ。神様はなんでこの場所を捨てたんだろうなぁ」 「要らなかったから、じゃないか?」  何気ない昴の一言に、翔馬は黙り込んだ。曇り知らずの黒水晶が陰りを見せる翔馬の顔を写し込む。不純物を知らない眼差しが(すさ)みきった翔馬の心情を瘡蓋(かさぶた)越しに撫でる。  昴は人気がなくなった神宮を見ながら、思ったことを口にする。 「この場所を誰かに譲る為に形は変えないままだったりするかも」 「……譲る、か」 「例えるなら、オーナーが定年退職したら、継ぐ人を見繕うのを忘れたままバカンス満喫してる感じだろうな」  ふざけた例え方に翔馬は目を丸くした。勝手にしんみりしていた自分が馬鹿らしく思える。  翔馬の手が昴の心臓部に触れた。 「くく……ふはは……」 「うわ、気持ち悪いな……」 「いいじゃねぇか、お前の魂諸共。傑作だ。これは気に入った」  盛大に笑う翔馬を引き気味な眼差しで見上げる昴だが、興味はやはり天界に還る魂に向いていた。  ……俺の魂も天界で生まれた物なのかな。  答えがない『帰る場所』の存在意義は不確定要素と変わらない。魂にとって宿主を転々とする理由を知ることが出来るならば、問いかけは一生聞くことは出来ないだろう。  翡翠の瞳が優しく輝いている。昴の手は無意識に翔馬の前髪に伸び、優しくかき上げた。 「うわ、綺麗な目だな……」 「俺は好きじゃねぇんだよ、この目」  前髪を取り払い、(あら)わになった顔立ちはお世辞にも綺麗とは言わない、恐恐とした凶悪面だ。眉間に深く刻み込まれた皺を取れば、端正な面構えだったろう、雄臭さだけが強く出ていた。  吸い込まれそうな翡翠の双眸(そうぼう)は自然光を放ち、不思議なくらいそこを住処(すみか)として居座っている。日本人顔とは不釣合いな色彩だが、人工的な物ではないのが印象深く記憶に残り始めた。  (のが)れようと頭を振って手を払い落とした翔馬は、居心地の悪さに顔を(そむ)けた。 「そろそろ帰れ」 「いや、帰り方が分からないんだけど」 「湖に飛び込めばいいんだよ。ついでに溺死(できし)しろ」 「えっ」  橋の下で波紋(はもん)を描く湖を見下ろし、昴はひやりとした物が背筋を通り抜けたのを肌身で感じた。波は穏やかながらも、底が見えない湖に、恐怖心とは別物の(バチ)当たりさがひしひしと伝わる。神聖な場所を目の当たりにした後だ。(わざわ)いが起こりうるかもしれない現実問題に、昴は尻込みしてしまう。  だが、翔馬は容易(たやす)安易(あんい)な考えを打破(だは)する。  尻込みしている昴の肩を掴み、抱き込むようにして共に湖に落下した。 「おぉ――!?」  悲鳴は簡単に激しい水飛沫(みずしぶき)の中消え、背中を打ちながら衝撃に混乱は水の泡に吸い込まれる。  息も出来ずに塞がった空気を求めようと、昴は弱々しく(まぶた)を持ち上げる。光が注がれた美しい水面を上から見て、眩しさに頭の芯が溶けていきそうだ。  昴は口から出る空気の球を吐き出しながら、沈み行く意識の中、重なる体温を感じていた。真冬(まふゆ)とは違う、力強い腕に抱き込まれながら、昴の意識はプツリと途切れた。

ともだちにシェアしよう!