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だから、永遠 ~過去と今と~
私が生まれたせいで母が死んだ、と。
その事実が昔、私の中では絶対でした。
……母が、父の愛人だったのは僅かな期間でしたけれど。それは、愛情が冷めたからではなく――母が、死んだからで。
本妻よりも母を愛していた父は、だからこそ私を憎みました。そして、数える程しか会っていない私に、けれど忘れられないくらい強烈に、その事実を突き付けたんです。
もっとも、私も父を憎んでいましたけれどね?
母の気持ちを無視して、犯して手に入れた男の事を愛したり尊敬したりなんて、無理に決まっているでしょう?
ただ、父は私を殺しませんでした。
親の情からではありません。母が、最期に言い残したからです。
「どうか、この子を殺さないで下さい」
母は、身寄りのない女性だったと聞いています。
けれど母は、父からの援助は一切受けずに私を生んで、父にそれだけを言い残したそうです。
父は、約束を守りました。しかも、生かすだけならどこか離島にでも打ち捨てればいいのに、自分の知る弁護士に――義父に、私を預けたんです。
(……余計な、事を)
父を憎みました。
母を憎みました。
義父を憎みました。
それでも世を儚んだり、反発したりしなかったのは、私が子供で、無力だったからです。
私が何かしたら、それは大人の『責任』になりますから――憎んでいる相手に『借り』を作りたくない、そう思って私は生きていたんです。
そんな私が父の死を知ったのは、中三の時でした。
交通事故――地元の名士とは言え、事件性のないものでしたから義父に見せられた新聞の記事も、小さなものでした。
「……死んだんですか」
呟いてみても、まるで実感出来ませんでした。元々、数える程しか会っていないのです。今更、二度と会えなくなっても何も変わらないと思いました。
自分のせいで、母が死んだ事も。
そのせいで、父に憎まれた事も。
……私が、彼らを憎んでいる事も。
「そうやって、お前はまだ逃げるのか?」
そんな風に憎んでいる相手からの言葉に、私は顔を上げました。
咄嗟に睨み付けた私を静かに見返しながら、義父は続けました。
「自分は不幸だと。それは私達のせいだと……そうやって、これからも生きていくのか?」
「貴方が、それを言うんですか?」
思わず、声が震えました。怒りの為なのだと最初、私は思いました。
しかし、そんな私に義父は言ったのです。
「本当に憎いなら、僅かな間でも一緒にいるのは耐えられないものだ。進学と一緒にこの家を出る事だって出来るだろう。だが、お前はそれを選ばなかった」
……指摘された事実に、私は愕然としました。
そんな私に、義父は話し出しました。
かつての父と母とのやり取りを――自分の甘えを知ったからこそ、聞く事の出来た話を。
※
「わしを許してはくれんのか……お前は、死のうとしているのか?」
私を身ごもり、それでも父からの援助を拒み、働き続ける母に父はそう尋ねたそうです。
その問い掛けに、少し困ったように微笑んで――母は、答えたそうです。
「確かに私は、あなたを許してはいけないと思っています……ですが、死ぬつもりはありません」
病弱な母にとって、出産は自殺行為でした。
それでも母は真っ直に父を見て、付き従った義父の前で言い切ったそうです。
「逃げるつもりも、死ぬつもりもありません……私はただ、あなたとの証を残したいだけです」
そして母は私を産み、父に私の事を言い残して命を落としたのです。
※
「……母は、父を愛していたんですか?」
それは、思っても見なかった事でした。
そんな私に義父はしかし、首を横に振りました。
「彼女は、あの方に何も言わなかった……だから、本当の事は解らない。だが、憎しみだけではなかった」
そう言って、義父は私を見つめました。
「憎む事でお前が生きていけるのなら、それでもいいと思っていた」
だが、と義父は言葉を続けました。
「あの方は、もういない……そして私も、いつ死ぬか解らない。それでもお前は、憎しみ続けて……生きていられるのか?」
……死んだ人間は、何も出来ません。
どれだけ相手を憎んでいても、殴る事も罵る事も出来はしません。そして自分も、死者には何も出来ません。
触れる事は勿論、目にする事すら出来ません。
「そんな相手を、憎み続けられるとしたら……それは、私が必要としているからだと義父に言われました」
そう昔の話を締め括った私に、廉は目を見張りました。
「……必要?」
「はい」
憎む事で甘えていると指摘され、両親の話を聞かされた瞬間、私が感じたのはひどい疎外感でした。
自分は父を憎み、父は自分を憎んでいる。
……それだけだと思っていたのに、父と母の間には確かに何か繋がりがあり、自分だけが取り残されている事に気付いたからです。
愛とか絆とか、そんな綺麗なものではなかったですね。今、振り返ってみてもそれについては断言出来ます。
けれど、確かに憎む事で私は父に、母に、そして義父に縋っていたんです。
「憎しみは、死んだらそこで終わります。残された者が、その憎しみを抱き続けられるとしたら……認めるか認めないかは別として、それは憎しみだけではないからです」
私は、そう思います。
その言葉を、私は紡ぐ事が出来ませんでした。
何故なら不意にしがみついてきた廉に驚いて、柄にも無く息を呑んでしまったからです。
「……廉?」
視界の隅で、廉が手放した傘がふわり、と地面に落ちました。
廉の事を知りたいと、思っていました。そして、自分の事を知って欲しいとも思っていました。
……けれども、あの日だけは。
いつもとは様子の違う廉に、少しでも元気を出して欲しくて、私は自分の過去を話したのです。
「…………」
私にしがみついてきた廉の体は少年らしい細くて、頼りなくて――けれど、とても温かいものでした。
貴方なら解るでしょうが、さっきも話した通りに私は、周りに放っておかれませんでしたからね? 当然、それなりの付き合いは心得ているつもりでした。
……けれど、廉を抱き留めた時は。
触れただけで胸が高鳴り、欲しいという気持ち、いや、衝動と言ってもいいくらい激しい感情を覚えたんです。
そんな私を止めたのは、大人の理性ではなくて――ぽつり、と耳に落ちた廉の呟きでした。
「……今はもう、憎んでないのか?」
見上げてきた瞳はいつもの哀しげで、静かなものではありませんでした。
張り詰めていたものが、ふ、と緩んだ――涙を浮かべた、けれどそれでいて強い眼差しでした。
生まれたばかりの赤ん坊とか、ペットとか。一途で澄んだ眼差しも綺麗だとは思いますが、それはあくまでも感想です。魅力を感じる事は、ありません。
しかし、廉の瞳は違いました。
何も知らないから綺麗、なのではなく。
知っていて、けれどそれを――おそらく誰かへの憎しみを、私のように周りにぶつけるのではなく、押さえ込んでいるからこその美しさに、惹かれていたんです。
「はい……父を憎むより、廉を好きでいる事の方が、今の私には重要ですから」
その眼差しに魅入られながら、私は答えました。
そんな私の視線の先で、廉は大きく目を見張ったかと思うと、次いで一筋、涙を流しました。
「れ……」
思わず見惚れた私の前で、不意に背伸びをしたかと思うと――廉は私に、触れるだけのキスをして。
「バーカ」
そう言って、廉は笑いました。その笑顔は、とても晴れやかでした。
それから、不意に踵を返したかと思うと降りしきる雨の中、廉は走り去ったのです。
……その後ろ姿をかき消すように降っていた雨は、廉が好きだった桜を散らしてしまいました。
そして、落とした傘だけを私に残して――その日から、廉は公園に現れなくなりました。
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