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海の天使1
最近の派遣先では、短期・長期問わず男性はスーツ着用を義務付けられている事が多い。
とは言え、値段まで指定されている訳ではないので、月也はショッピングセンターの、安いグレーのスーツを着ている。
と、仕事が終わり更衣室へ向かおうと廊下に出る一瞬、自分の名を含んだ会話が耳に届いた。
その内容に勝利を確信した月也は、振り向かずに歩き出した。
「……ねぇ、知ってる? 今度来た、橘君」
「えっ、何?」
「子持ちなんだって」
男の自分から見て、女性は本当に噂話が好きだと思う。
派遣社員は、業種にもよるが女性が多い。そして派遣社員は束縛のない反面、余所者扱いされ、ちょっとした事でもひどく悪目立ちする。
二十歳を越えても線の細い、中性的な容姿。
そんな月也が職場で地味な男性を装っているのは、更に恋愛話にまで巻き込まれたくないからだ。
以前は職場での衝突を避ける為、自分の出来る範囲の仕事を引き受けたり、飲み会などを極力、断らずに付き合うという手を使っていたが、今回はそうするつもりはなかった。
それ故、この会社に配属になった時、わざと子供がいると言ったのだ。
……そして、その噂は広まった。それにしても今日、配属になり、夕方にはもう職場で囁かれているのだから、女性の噂好きは半端ではない。
何はともあれ、これで契約期間中、自分は気兼ねなく仕事に集中出来る。今までの苦労を思うと、思わず顔が笑ってしまうくらいに嬉しい。
もっとも、嘘はついていない。
噂とは少し違うが、確かに自分には家族がいる。だから、仕事以外の時間を他人の為に使う気は全くない。
そして仕事も、今の月也にとっては『彼』の為なのである。
※
駅に向かい、電車に乗り。数十分揺られた先に、月也の新居はある。
そしてエレベーターに乗り、鍵を開けて中に入ろうとして――そこで月也は、小さな声で「ただいま」と言った。寮生活と一人暮らしが長かったので、どうもまだ、慣れない。
「お帰り!」
と、ドアの開く音と月也の声を聞きつけて、パタパタと足音が近付いてきた。
サラサラの黒い髪と、大きな瞳。年の頃は十五歳くらいか――男ではあるが、少女めいた綺麗な顔をしている。
……まあ、同じ顔なので、何だか自画自賛しているようだが許してほしい。
自分はこんな風に、眩しいくらい全開に誰かに笑いかけたりはしないのだから。
「月也、ご飯にする? それともお風呂?」
「カイ……」
相手の愛称を呼び、月也は思わず微苦笑した。
昨日までの小犬のようにはしゃぎ、頭を擦り付けながら抱き着いてくるのとは違う、きちんとした挨拶だ。もっとも、天使のような少年のそれにしては少々、俗っぽい気もする。しかも、月也のエプロンまでしている辺り、徹底している。
「……テレビ?」
「うんっ」
笑顔で頷くのが可愛らしくて、何を言うべきかしばし、悩む――そして結局、月也が口にしたのは、いつも通りの確認だった。
「ちゃんと、眠ってたか?」
月也の問いに返されたのは、先程よりも大きな頷きだった。
それにようやく安心して、月也は海棠に鞄を渡し、着替える為に自分の部屋へと向かった。
二十二歳である自分が住むには、少々、高級すぎるマンション。ここはとある実業家が亡くなった後、元情人だった月也へと送られた物である。
正直、自分には不釣り合いでどうしようかと思ったが、前に住んでいたのが派遣会社の独身寮だったので、引越しを決意した――いや、せざるを得なかった。いくら身内でも、同居は出来なかったのである。
もっとも、顔はそっくりだが月也と海棠は兄弟でも、勿論、会社の噂通りの親子でもない。
……いや、それ以前に海棠は人間ですらない。
昔、月也が子供の頃に評判になった、人型ロボット――それが、海棠なのだ。
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