5 / 32

天使と悪魔と堕天使と1

 最近は、女性は専用車両に乗ってしまうから――呑気にそんな事を考えている間にも、手が前に回されて腰に高ぶった熱が押し付けられる。  女性代わりと思ったが、あちこち触ってくるところを見ると『そう言う趣味』なのかもしれない。そして、月也が全く抵抗しないので調子に乗ったのだろう。  勿論、痴漢なんて冗談ではない。  だが、抵抗した方が相手を煽るという事もまた、解っている。下手に目をつけられて連日、こんな目には遭うのは面倒だ。  まあ、女性ではないのでせいぜい触られたり、擦り付けられたりするだけで終わるだろう。あとは、電車が駅に着くのを待つだけだ。  後ろから伸し掛かられているせいで、身動きが取れない。  背後の男の荒い息遣いが聞こえたが、月也は完全に醒めきっていた。目を伏せて、何か楽しい事でも考えようとする。  ……それは、とても簡単だった。今だと、たった一つしかないからだ。 (カイ)  自分と、同じ顔。それなのに、笑った顔は全然、違う。あんな風に、眩しい笑顔で誰かに笑いかけた事なんて――。 (いや)  そこで月也は、ふと引っかかった。ない、と続けられなかったのは、かつて自分が香一郎に笑いかけていた事を思い出したからだ。  何も知らずに、ただ愛し、愛される幸福。それが彼に、あの笑顔を与えていたのだ。 (……大丈夫)  そこで月也は唇を引き結び、自分に言い聞かせるように思った。  海棠は、何も知らない。  確かに色んな事を覚えてきてはいるが、それでも少年は何も知らない――知らなくて、いい。あの笑顔が失われるなんて、考えたくもないから。 (俺が、守る)  決意を固めて、月也はまた海棠の事を考え出した。  今日、帰ったら何をしようかとか。今度、一緒に外に出かけてみようかとか、そんな微笑ましい事を。  だから、月也は気付かなかった。  触ってくる手が、海棠より骨張っていて痛いと思った事とか。自分以外の重みを感じた時に昨日、自分を抱き締めてきた海棠の事を思い出したりとか。  そんな風に、心の何処かで背後の男と海棠を比べていた事に、月也は気付かなかった。  ……いや、無意識にだが気付く事を拒んでいたのだ。 ※  と、不意に手が離れた。降りるのか、と思ったが、電車はまだ駅に着かない。  それなら何故、と振り向いて、月也は眼鏡越しに目を見張った。  痴漢らしい男が、顔を顰めながら人混みの中に消えていく。  そして、その男に何かを話し掛けていた男が、代わりに月也の前へと出てくる。  その相手を見て――月也は、背後の扉に背を当てた。知らず、後ろに下がってしまっていた。  何故なら男は、知っている相手だったから。もっとも、一度しか会った事はないのだが。 「あなた……」 「おはようございます。橘さん」  痴漢を追い払ってくれた恩人は、ニコリともせずに挨拶してきた。まあ、あまり友好的に来られても、逆に困ってしまうけれど。  短い黒髪に切れ長の瞳。端正な輪郭――確か以前、貰った名刺に書かれていた名前は。 「……ありがとうございました、国崎(くにさき)さん」  思い出した名前を口にして、月也は目の前の男に頭を下げた。  ……香一郎が亡くなった後、その遺言を手に自分の前に現れた弁護士に。

ともだちにシェアしよう!