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天使と悪魔と堕天使と1
最近は、女性は専用車両に乗ってしまうから――呑気にそんな事を考えている間にも、手が前に回されて腰に高ぶった熱が押し付けられる。
女性代わりと思ったが、あちこち触ってくるところを見ると『そう言う趣味』なのかもしれない。そして、月也が全く抵抗しないので調子に乗ったのだろう。
勿論、痴漢なんて冗談ではない。
だが、抵抗した方が相手を煽るという事もまた、解っている。下手に目をつけられて連日、こんな目には遭うのは面倒だ。
まあ、女性ではないのでせいぜい触られたり、擦り付けられたりするだけで終わるだろう。あとは、電車が駅に着くのを待つだけだ。
後ろから伸し掛かられているせいで、身動きが取れない。
背後の男の荒い息遣いが聞こえたが、月也は完全に醒めきっていた。目を伏せて、何か楽しい事でも考えようとする。
……それは、とても簡単だった。今だと、たった一つしかないからだ。
(カイ)
自分と、同じ顔。それなのに、笑った顔は全然、違う。あんな風に、眩しい笑顔で誰かに笑いかけた事なんて――。
(いや)
そこで月也は、ふと引っかかった。ない、と続けられなかったのは、かつて自分が香一郎に笑いかけていた事を思い出したからだ。
何も知らずに、ただ愛し、愛される幸福。それが彼に、あの笑顔を与えていたのだ。
(……大丈夫)
そこで月也は唇を引き結び、自分に言い聞かせるように思った。
海棠は、何も知らない。
確かに色んな事を覚えてきてはいるが、それでも少年は何も知らない――知らなくて、いい。あの笑顔が失われるなんて、考えたくもないから。
(俺が、守る)
決意を固めて、月也はまた海棠の事を考え出した。
今日、帰ったら何をしようかとか。今度、一緒に外に出かけてみようかとか、そんな微笑ましい事を。
だから、月也は気付かなかった。
触ってくる手が、海棠より骨張っていて痛いと思った事とか。自分以外の重みを感じた時に昨日、自分を抱き締めてきた海棠の事を思い出したりとか。
そんな風に、心の何処かで背後の男と海棠を比べていた事に、月也は気付かなかった。
……いや、無意識にだが気付く事を拒んでいたのだ。
※
と、不意に手が離れた。降りるのか、と思ったが、電車はまだ駅に着かない。
それなら何故、と振り向いて、月也は眼鏡越しに目を見張った。
痴漢らしい男が、顔を顰めながら人混みの中に消えていく。
そして、その男に何かを話し掛けていた男が、代わりに月也の前へと出てくる。
その相手を見て――月也は、背後の扉に背を当てた。知らず、後ろに下がってしまっていた。
何故なら男は、知っている相手だったから。もっとも、一度しか会った事はないのだが。
「あなた……」
「おはようございます。橘さん」
痴漢を追い払ってくれた恩人は、ニコリともせずに挨拶してきた。まあ、あまり友好的に来られても、逆に困ってしまうけれど。
短い黒髪に切れ長の瞳。端正な輪郭――確か以前、貰った名刺に書かれていた名前は。
「……ありがとうございました、国崎 さん」
思い出した名前を口にして、月也は目の前の男に頭を下げた。
……香一郎が亡くなった後、その遺言を手に自分の前に現れた弁護士に。
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