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第34話「逃走準備」

 FBIのランター捜査官から暗殺者の存在を匂わされた日から、気が置けない緊張状態のまま、カイルは日勤の外科医として働いていた。  偽造IDを使わずに正規の手順で就職したカイルは、その事を少し後悔をしていたが、追跡者に情報が洩れていないのか、四ヶ月が経過した今も不審な人物の影は見当たらない。  ルーチェの行方を追っていると思われる人物、スターリング・グレイソンという男が現在、指名手配中である為、公に動けないのだろうと推測する。しかし、追手は彼だけではないかも知れないという、新たな推測にカイルは頭を悩ませていた。  孤島での違法な研究を知り尽くしている人工知能が逃げ出し、見知らぬ誰かに情報を提供していたとしたら、そこから別の脅威が生まれている可能性は十分にあるのだ。  どちらにしても、追跡者は監視カメラを通して行われる顔認証システムを利用して探しているのではないかと予想された。  アメリカ全土を手っ取り早く調べるには、その方法が最短だからだ。  それに先手を打つように、カイルとルーチェのIDは、顔認証システムを通すと偽造IDに差し代わるように操作されている。それが効を成している間は、見つけられる事はないのだろう。  ただ、人の目は誤魔化せない。ルーチェの容姿を知る者がいたら、直ちにグレイソンの息の掛かった連中へと情報が伝わる筈だった。  捉えようとしてくる人物に遭遇でもしたら、最悪な場合、戦って殺傷しなければならない時もあるだろうと、カイルは覚悟する。  今年の二月まで、カイルはアメリカ軍の特殊水陸両用偵察衛生兵(SARC)として、人の命を救う仕事をしていた。  戦場で衛生兵は命を狙われやすい。それを回避する為に生まれたのがSARCで、彼らは戦闘にも特化している。  過酷な前線で重要な任務に就いていたカイルは、ルーチェを守り抜ける自身があった。  それでも、不確かな追跡者の存在というのは厄介で、神経だけが擦り減らされていく日常が続いていくと、カイルはこの国から飛び出したいと、時折思うようになった。 ――日本にでも逃げるかな…。  ふと、冗談めいた呟きを心に放ったカイルだったが、彼は真剣に何やら考えを進めていった。    夜、十時を過ぎた頃、カイルは日本に住む母親に、父が入院した事を告げて以来の、約八ヶ月振りに電話を掛けた。  母親の(かえで)は二十二年前に離婚して、母国である日本へ帰ってしまった。それ以来、会ってはいないのだが、電話では時折連絡を取っていた。 「もしかして、カーティスが死んだの?」  楓は元夫の名前を出し、少しだけ緊張気味に、カイルの電話の内容を予測して口にした。 「え?まだ、生きてると思うよ。」  カイルの答えに、彼女は少しだけ笑いを洩らした。 「そう。…今度会ったら、いい加減、年を考えて、警察官を引退したらって伝えといて。幾ら定年がないからって、長く続ける職業じゃないでしょう?」 「自分だって、まだ引退してないんだろう?説得力ないって。」 「アメリカの警察官と一緒にされても困るんだけど…。」  楓は実業家の家系に育ち、今は複合企業となっている姫川コーポレーション傘下の会社のひとつを、六十一歳になった今でも取り仕切っているという。  カイルはそろそろ本題に入る。 「実はさ、近い内に日本に行こうかなって思ってるんだけど…。」 「あら、そう?…ママに会いたくなった?」 「…それは…なくもないけど。…ちょっとしたトラブルでね。消息不明の兄貴の子供を引き取ったんだ。」 「あの子、無事だったの?」 「消息不明のままだよ。」  カイルの答えに、悲痛な溜息が楓の口から洩れた。 「そう。…で、トラブルって?」  カイルは言葉を選びながら話していく。 「兄貴の息子は追われてるんだ。その…、悪い組織に…。」 「それって、アビー・リンの?」  その名前で、二人の脳裏にエマーソン家襲撃事件が蘇ってくる。 「…ちょっと違うけど、似たような連中かな。」  カイルは言葉を濁した。 「それで一時的に逃げてくるの?」 「あー、一時的じゃなくてさ、兄貴の息子を姫川家の養子に出来ないかな…って相談です。」 「それは…容易じゃない相談事ね。」  明らかに楓の声のトーンが変わり、カイルは必死になる。 「簡単じゃないのは分かってる!でも、こっちだと、常に危険に晒されてる感じなんだ。」 「…その子は赤ちゃんなの?」 「今、十三歳なんだ。状況はよく理解してるよ。」  少しの間の後、楓は力強く決断した。 「分かった。それじゃあ、先ず、そっちで段取りしてくれる?こっちも直ぐに対応出来るようにしておくから。」  説得に長期間を要すると覚悟していたカイルは、思わず耳を疑う。 「本当に?…姫川家に相談しなくていいの?」 「私は姫川家に貢献してるから、誰も反対はしないわよ。」  させない、の間違いだと心の中で呟いてから、カイルは重要と思われるポイントについて語った。 「あのさ、ひとつ断っておかなきゃならない事があるんだけど…。」 「何よ?」  言い淀みそうになるのを堪えて、カイルは話す。 「兄貴の息子さ、びっくりする程、兄貴にそっくりなんだよね。兄貴の顔って、母さんにとって、嫌な思い出に直結してるかなって思って…。」  そんなカイルを諭すような口振りで、楓は言葉を返す。 「カイル、あんたは誤解してるわ。…私がカーティスとの結婚を決めたのは、トロイが懐いてくれたからなのよ。それがなかったら、私は結婚していないから、あんたは生まれて来れなかった。合点承知?」 「がっ…合点承知…。トロイに感謝!」  狼狽えるカイルを、楓は鼻で笑ったようだった。 「…確かにアビー・リンは、私より若くて美人だったから、思い出すといい気はしないけど、トロイは別よ。ちゃんと私の息子だと思ってるし、彼を愛してるわ。孫なら尚更会いたいわよ。」 「うん…。」 「それじゃあ、事が済んだら、また連絡してちょうだい。」  楓の決断力に驚かされつつ、カイルは電話を切ると、ノートPCで何やら作業中のルーチェを呼び寄せた。 「ルーチェは日本がどんな国か知ってるか?」  ルーチェは首を傾げた。 「パール・ハーバー、ハクソー・リッジ、…日本兵最恐!って感じ?」  第二次世界大戦まで遡られ、カイルも首を傾げた。 「何で、そんなマイナスな印象なんだよ?」 「え?別に、マイナスなイメージじゃないけど?…あ、あと、NARUTOは好きだよ。カイル、知ってる?」  知ってるか逆に問われ、カイルは当てずっぽうに答える。 「あれだろう?…確か、ラーメン大好き鳴門(なると)さん。」  少しの沈黙が訪れ、カイルは何故かドキドキする。 「正解!」 ――正解なんだ…!  何となく嬉しさを噛み締めてから、カイルはルーチェに日本へ渡る計画を告げる。 「まあ、具体的には何も行動しちゃいないんだけどさ…。」 「いいよ、日本。そこにもカイルのルーツがあるんだろ?それに、今より自由に行動出来るんなら、大歓迎だ。」  乗り気のルーチェに、なるべく早く実現出来るようにすると、カイルは意気込んで見せた。  その翌日の夜、シリコンバレーでIT企業の幹部として働いているマーダバン・パテールから、カイルに電話があった。 「政府が国民の通話を盗聴してる話は知ってるだろう?」  パテールに問われ、カイルは現在ロシアに亡命中の元国家安全保障局職員の告発内容を思い出す。すべてのIT企業は政府に協力しており、政府に対して通信傍受を容易にしている、ある意味開示しているという内容だった。 「ああ、知ってる。テロに関するような文書や言葉を発してると、追跡されたりするんだろ?」 「それを敵がハッキングによって利用してる可能性があるんで連絡した。…テロに関するキーワードの代わりに、おまえの兄貴の名前、ルーチェの型式みたいな元の名前や、あの島での研究に関わる事を話すと、追跡が始まるかもしれない。」  カイルは急に顔色を悪くする。 「ちょっと、待てよ…。兄貴の名前を言ったかも知れない。昨日だよ。母親との電話でさ…。でも、日本語だったぞ。」 「それでも微妙に引っ掛かるかも知れないよ。…まあ、アメリカ全土の会話から、それが誰を、若しくは何を指しているのかを特定するには、時間が掛かるとは思うけどね。取り敢えず、忠告だから。気を付けろよ。」 ――日本への逃走計画、筒抜けだとヤバいな…。  カイルは頭を抱えたが、日本への移住を断念する事はせず、速やかに養子手続きに関しての手順等を調べ始めた。

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