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第40話「出航」
カイルと燈 は、アメリカ国境沿いの街、シウダー・フアレスから一日以上掛けて、太平洋沿岸にあるマンサニージョの街へ辿り着いた。
港付近の道路脇に停車し、必要な荷物を取り出すと、二人は乗って来たマイクラを置き去りにした。そして、遠くからでも目立っていた、青いカジキの巨大なオブジェを目指して歩く。
観光客向けのショップや高級そうなホテル、そしてビーチが有るそこは、リゾート地にしか見えない。
昼下がりの日差しが容赦のない中、目的の巨大カジキの下に辿り着き、暫く待っていると、船長といった服装の青年、姫川匡 が駆け寄って来た。
「カイルさん!…と、燈君!会えて良かった!」
「お、匡か?画面じゃ分からなかったが、随分、大きくなったじゃないか!」
長時間の運転で疲労困憊していたカイルだったが、六歳年下の従弟を目の前にして笑顔を見せると、固い握手をして彼を抱き締めた。
「はい。…予想ではカイルさんより大きくなったと思ってましたけど、及ばなかったですね。」
「ほんの少しだけな。」
実際に二人の身長差は四、五センチというところなのだが、匡は残念そうにしていた。
そんな二人のやり取りを見ながら、燈は匡の丁寧な日本語を教材みたいだと、改めて感じていた。
「燈君も、改めて、初めまして。」
「初めまして…。」
匡に手を差し出され、燈も軽く握手する。匡の上着の袖口には袖章と言われるものが四本入っており、船長である事を窺わせていた。
「燈君、実物の方が数倍綺麗だね!」
急に容姿を褒められ、燈はドキリとする。
「…そう?」
そんな匡に、カイルが厳しい視線を向けた。
「おい、変な気、起こすなよ!」
「大丈夫ですよ。ただの感想ですって!」
少々、焦りを見せている匡だが、ただの感想というのは本当なのだろうとカイルは認識する。子供の頃の匡の印象も、思った事を直ぐに口にするタイプだった。
「他の船員達も、本当に大丈夫だろうな?」
カイルはついでに念を押すように質問した。
「この前も言いましたけど、ゲイはいませんから。みんな結婚してるか、彼女がいる奴らばっかりですよ。」
「おまえもか?」
カイルはふと、匡が妻帯者かどうかの確認をしていなかったことに気付いた。
「はい。ゲイではないですよ。今、付き合ってる女の子はいませんけど…。」
匡が結婚していない事を知り、何となくカイルはほっとする。
「あの、…燈君って、ゲイの人がいたら、その、…普通じゃなくなるんですか?」
匡にしては少し淀みがちに、カイルへ問い掛けた。それを聞いて燈は少し俯く。
「ちょっと男の性欲に敏感なんだよ。…取り敢えず、いやらしい事を考えたりするんじゃないぞ!」
カイルの答えに、匡は腑に落ちない顔で納得して見せた。
三人は撒積貨物船 が停泊している桟橋へ移動した。遠目からでも大きい印象はあったが、近くで見ると更に迫力が増す。
「…この船が、おまえのなのか?」
全長二百メートル越えの大きな船体の船首付近には、平仮名で「ひめかわ」と書いてある。
「はい。大きからず、小さからずでしょう?」
「いや、デカいよ。いい船だ。」
カイルは軍人だった為、自ずと駆逐艦と比較してしまう。自身が乗った事のあるそれと比べると、全長は七十メートルは上回り、吃水線も五メートル程高いのではないかと推測した。
匡は自分の船を眩しそうに見つめ、それから寂し気な表情を浮かべる。
「…だけど、もうすぐ俺の船じゃなくなるんですよ。来年の四月になったら、会社をひとつ任されるので、趣味でやっていた航海士は終了なんです。それが姫川家のルールなので…。」
カイルは一度も訪れた事のない姫川家の事情に驚かされたものの、母親の楓 を思い出して納得する。姫川の家の出の彼女も若い頃、親に敷かれたレールに乗る前に、好きに留学を繰り返したり、自由に海外を飛び回っていたという話を思い出したからだった。彼女の場合、それが切っ掛けでカーティス・エマーソンと出会ってしまい、結婚する事になったので、離婚するまでは姫川家の方針から解放されていたという。
「そうか。…それにしても助かったよ。親戚の船で日本に行けるなんてさ。」
「そうですね。タイミングが合って良かった。調度、母がメキシコのコーヒーを輸入したいと言い出したんですよ。多分、最後のひと仕事を作ってくれたんでしょう。」
それを聞いて、母親が我儘を言って息子を使いに出したのではないという事情を、カイルは知らされた。
「メキシコに美味しいコーヒーがあるなんて、聞いた事ないけどな…。」
「それが、あるんですよ!一度飲んでから、母が気に入ってしまって。…今日、試しに飲んでみて下さいね。」
「ああ、頂くよ。」
作業する船員の姿が見られない状況の船を見上げ、匡が説明する。
「積み込みは終わってるんですが、通関手続きで手間取っていて…出航は明日になりそうなんですが、良かったら船の中で休んで下さい。」
匡に案内されて、船内の居住区への扉を潜る。
「居住区は六層あるんですが、お二人の部屋はCデッキに用意しました。」
「部屋、足りなかったんじゃないのか?」
「いえ、通常よりも少ない人数で来ているので…。最初に行っておきますが、料理人や医者はいませんので。」
「だったら、俺がこの船の医者だ。」
「ああ、そうでしたね。…頼もしい限りです!」
匡はカイルの経歴を思い出し、嬉しそうに笑った。
AデッキからBデッキに上がる狭い階段室で、袖章三本線の船員と擦れ違う。匡が率先して紹介し、彼、山本がこの船の二番目の責任者である事が分かった。しかし年齢的には彼の方が二つ年上で、匡の海洋大学時代の先輩らしかった。
「また、改めて船員達全員、紹介しますね。」
山本と別れ、更に階段を上がってCデッキの通路に出ると、階段室の直ぐ向かいの隣り合わせの部屋を使うように匡が説明した。
「二つともジュニア・オフィサークラスの部屋なんで、良い部屋ですよ。」
部屋の中は広く、窓際の机や椅子もグレードが高いものの様だ。ベッドやソファもゆったりしている。
「トイレにシャワーも完備されてます。浴槽があるのは、Dデッキの船長室か機関長室とアッパーデッキの医務室のみなんですよ。因みに船長室は俺の部屋で、機関長室は先程会った、山本先輩が使っています。」
「偉い奴の特権だろ?」
「まあ、そうですね。でも、みんな友達なんで、本当は上下関係はないんですけどね。」
カイルはベッドに腰を下ろすと少しスイッチが切れたようになった。
「悪いんだけどさ、ちょっと横になってもいいかな?夜通し運転して来たせいか、疲労感が凄い…。」
「いいですよ。ゆっくり休んで下さいね。」
カイルを部屋に残し、匡と燈は部屋を出た。そして左舷寄りの隣の部屋へ入る。調度、船の中心線に沿って、二つの部屋は対称的な造りになっていた。
「燈君、PC使うんでしょ?LANケーブルが使えるよ。あとWi-Fiも使えるから、パスワードは、ここに…。」
匡が机の上に置かれたメモ用紙を指した。予め想定されていたのか、パスワードが書かれている。
「有難う…ございます。」
燈は丁寧な言葉遣いを試みた。
「いいよ、俺に敬語使わなくても。俺も、燈君には普通に話すから。」
匡に促され、燈は嬉しそうに頷いた。そんな燈を匡は心から可愛いと思ったが、カイルの顔を過らせ、口に出すのをやめた。
夕方になり、匡は船員(部員)食堂に全員を集めた。テーブルに十四名の船員服を着た、全員二十代と思われる男達が席に着く。
その前に立ち、匡はカイルと燈を紹介した。
「俺の従兄のカイル・エマーソンさんと姫川燈君。メキシコで拾ったので、日本に連れて帰ります。」
匡の紹介に、船員達から笑いが洩れた。
そして、船員達も各々、各々名前や役割を言い、自己紹介していった。
通常、二十三名はいなければならない処を、十名も少ない人数で運行していくので、全員が何かしら兼任しているようだった。
例えば匡は船長と一等航海士を務め、山本は機関長と二等航海士を務めているという事だった。
船は彼らの四時間おきの交代制の当直により、二十四時間、休まずに走り続けるという。
紹介の場は比較的、短い時間で解散となった。上下関係はないと言っていたが、非常に統率感がある事が窺えた。
彼らを一通り見て、カイルは何事もなく無事に日本に着けそうだと、秘かに安心する。
翌日、出航手続きに当たり、カイルと燈は匡からパスポートを出すように言われた。
カイルは少しだけ躊躇する。追手を警戒しているからだ。
カイルの名前も、ルーチェの名前も知られていない可能性が高いのに、不安は消えない。
「出国の管理って、厳しいのか?」
匡は首を一瞬傾げたが、カイルの耳元に囁く。
「ここは結構、杜撰 ですよ!」
カイルは心を決めて、二人分のアメリカのパスポートを準備する。日本人の養子になろうとも、燈がアメリカ国籍なのは変わらない。
「それじゃあ、受付に並んで下さいね。」
こうしてカイルと燈は旅立った。日本へ到着するまで二週間は要するが、既に彼らは解放感を感じ始めていた。
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