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第2話「エマーソン家」

 (あかり)を窘めた後、カイルは自室へ入ると、コートとスーツの上着を脱いで、ソファの背凭れに放った。  ネクタイを緩めていると、先程脱ぎ捨てたコートのポケットのスマートフォンが着信を知らせた。  一瞬だけ眉を顰めたが、着信画面を見ると、彼は笑顔で電話に出た。流暢なUSイングリッシュで会話し始める。 「カイルだよ。…ああ、こっちは深夜だ。…いや、起きてたから、問題ないよ。退院したんだってね。大丈夫なのか?」  電話の相手はアメリカのテキサス州に住むカイルの父親だった。午前十時過ぎに時差を忘れて電話してしまったという処なのだろう。 「あの子の忘れ形見が気になってね。」  父親の想いが燈にある事に気付いて、カイルは少しだけ辛そうな表情を浮かべた。  カイルは父親に幾つか隠し事をしている――。    テキサス州ダラスの北東部に位置する街で、カイルはエマーソン家の次男として生まれた。  海軍上がりの警察官のダグラスと、日本人である(かえで)の間に誕生した彼は、半分東洋人という事で、艶やかなダークブラウンの髪と瞳の色をしている。  その容貌は時に人種を問われる事があったが、それでも大きな差別に悩まされる事はなく、彼は恵まれた環境で育っていった。  カイルには四つ年上の、トロイという名の兄がいた。物心ついた頃からカイルは、兄の事を美しく賢い特別な存在だと感じていた。  幼い頃はいつも一緒に居たいと思い、兄の後を着いて回ったが、幼少時の四歳差というハンディキャップの大きさで、いつも置いてきぼりを喰らった。  やがてカイルは兄に疎まれているのだと、成長と共に気付いていく。  トロイはよく、カイルに意地悪を仕掛けてきた。親が見ていない時に鼻を強く摘ままれり、野球のボールをぶつけられる事も珍しくはなかった。  中でもカイルが最も怒りを感じた出来事は、地下室に閉じ込められた時の事だった。トロイは気付かずに扉の鍵を閉めてしまったと言っていたが、絶対に故意だったと彼は確信していた。  一度、泣きながら意地悪な兄について、母親の楓に訴えてみた事があった。公平な立場を重んじた彼女は、トロイとの話し合いの場を設けてくれた。  しかし、話し合いで、トロイ相手に主導権を握れる筈はなく、最終的に彼に愛していると囁かれ、簡単に絆されて終了した。  それ以来、形而下での意地悪はなくなったのだが、要領が良く、頭も切れるトロイの機転で、家の手伝い等の面倒な役目は全てカイルに回ってきた。  悔しく思いながらも、成す術もなく厄介事は全てカイルが負わされた。何も知らない周囲の者達は、そんなカイルを兄想いの弟だと評価した。  カイルとトロイは似ていない。カイルの印象では、エマーソン家の中でトロイだけが異質に感じられていた。  東洋系なのに色素が薄く、瞳の色も形容しにくい不思議な色をしている。  カイルが時折メキシカンと間違われるのに対し、トロイは特に人種を問われる事はなく、その容姿は常に称賛されていた。  いっそ他人だったら良かったのに、という思いがカイルの中に浮上してきて、兄弟の距離は少しずつ開いていったように思えた。  ある時、トロイの発する違和感の原因が白日の下に曝される、ひとつの事件が起こった。トロイが十四歳、カイルが十歳の時だった。  それは暑い夏の昼下がりの事だった。  休日に家族で買い出しに出ようとしていたエマーソン家を、何の前兆もなく複数の銃弾が襲った。両親は息子達を庇いながら家の中へ逃げ込むと、速やかに警察署に連絡した。  その時点では警察官である父親が報復されているのだと、誰もが思っていた。しかし、予想だにしなかった人物の登場で、その場に不穏な空気が立ち込める事となった。  家の中から敵を認識しようとした父親のカーティスが、銃を構えてダイニングルームの窓に近付いた時、黒のライダースーツに黒いフルフェイスヘルメットを被った人物がオートバイクに乗って現れたのが窺えた。  その人物は襲撃者に向かってマシンガンを発砲すると、家のガレージの方向へバイクを走らせた。  間もなくして、その人物が家の中へ入って来た。カーティスは迷わずその人物に銃口を向ける。その人物の体つきは女性で、片手でマシンガンを撃ったとは思えないほど華奢だった。 「カーティス、私よ。」  その人物は両手を上げ、武器の所持を否定すると、ヘルメットのシールドを上げた。東洋系の美しい女性の顔が現れる。その顔を見た瞬間、カーティスは愕然となった。 「そんな…!嘘だろ!?…アビー、君なのか…?」  カーティスの口から出た名前に、子供達を抱く母親の楓もピクリと反応した。 「君は…十三年前に死んだ筈だ!…あれは偽装だったのか?」  アビーと呼ばれた女性は、悲痛な面持ちでカーティスを見つめた。 「ご免なさい、カーティス。…私はある組織に属するスパイだったの。抜けられたつもりだったけど、命を狙われて駄目だった。死を偽装したのは仕方がない事だったの。…あなた達に迷惑を掛けるつもりはなかったのだけれど、本当にご免なさい!…組織にこの子の事を知られてしまった。この子は連れて行く。」  アビーは素早くトロイの手を引いた。 「…待って、嫌だよ!」  咄嗟の事に簡単に引き摺られたトロイだったが、抵抗を見せ、カーティスに助けを求めた。 「アビー!待つんだ!…トロイ!!」  カーティスがトロイを取り返そうと動いた瞬間、再び、外から銃声が聞こえた。 「危ない!」  楓がカーティスを伏せさせようと縋りついたところで、アビーはトロイを連れて部屋を出て行った。それを追おうとしたカーティスだったが、楓の上半身が赤く染まっている事に気付き、彼の意識はそちらに持っていかれた。  遠くで家族の名を叫ぶトロイの声が聞こえたが、追う事は出来ず、それはバイクの爆音と共に消えてしまった。  それと入れ違いに、連絡を受けた近くをパトロール中だった警官が二人駆け付けてくると、騒動を起こした人影も消えてしまっていた。  楓の緊急手術が終わるのを、未だ震えが止まらないカイルを抱きかかえるようにして、カーティスは手術室の前で待った。 「…あの女の人は…誰だったの?」  幼いカイルの問いに、カーティスは真実を語る決心を付ける。 「彼女は…俺がカイルのママと結婚する前に結婚していた女性だよ。彼女がトロイのママだ。」  カイルの目が見開かれる。トロイが異母兄弟である事を唐突に知らされた瞬間だった。 「彼女…アビーは、俺と結婚して間もなくトロイを出産して、…その翌年に自動車ごと湖に転落して死亡したとされていたんだ。遺体は上がらなかったんだが…、まさか生きていたなんて、思いもよらなかったよ。」 「…トロイは…どうなっちゃったの?」  カイルは兄に対して少しでも疎む気持ちを持った自分に、罪を感じ始めていた。自分の所為ではないと理解しているつもりでも、その感情がアビーを出現させたように錯覚させられたからだ。 「トロイは大丈夫。絶対に俺が取り戻すから。…カイル、いいか?アビーがトロイを攫った事は警察の人には内緒だよ。」 「だって、それじゃ、探して貰えないよ。」 「アビーは死んだ人間なんだ。混乱を招くような事を言うより、見知らぬライダースーツを着た奴が連れ去ったと言う方が、この場合、いいんだよ。」  カイルは疑問を持ちながらも、納得してみせた。 「よし、いい子だ。…トロイは絶対、俺が見つけるからな。」  手術が終わり、楓は一命を取り留めた。楓が退院してから、一家はダラス中心部に引越しをした。それでも、あの事件の記憶は家族の信頼を蝕んでクリアにしてはくれなかった。  やがて楓は、アビーの生存を知ってしまったカーティスと上手くいかなくなり、間もなく離婚して、日本へ一人で帰ってしまった。  エマーソン家襲撃事件から二十二年の月日が流れた。カイルのその記憶は鮮明とは言えないが、あの日感じた戦慄だけは今でも思い出す事が出来る。  カイルの父、カーティスは現在に至るまで、トロイの事を諦めていないようだった。彼が病に倒れ、入院していた原因も、そこにあった。徐々に彼の中でトロイの死は暗示のようになっていき、生気を失いかけていた。  そんな父親を見兼ねたカイルは、迷いながらも燈の存在を父親に明かした。  燈はアビーに連れ去られた頃のトロイと、切り過ぎた髪以外、同じ容姿をしている。ただ似ているだけでは済まされないレベルではあったが、カイルがトロイの息子だとカーティスに説明すると、彼は直ぐに受け入れ、燈を生気の源にしたようだった。 「カイル、おまえの兄さんの捜索の件だが、そろそろ区切りをつけようと思う。その証に…墓標を建てた方がいいと思うか?」  父親の問いに、カイルは一瞬、真実を語りたくなるのをグッと堪えた。 「区切りはつけていいと思うよ。でも、まだ死んだとは限らないからさ。…アビーのように、ふらりと帰って来る可能性だって、まだ十分あるんだから。」 「…そうだな。…時間、確認しなくて電話して悪かったな。今度はあの子の声も聞かせてくれ。」 「うん。それじゃ、おやすみ。」  電話を切ると、カイルはソファに崩れるように座り込み、ゆっくりと息を吐いた。彼の中で父への隠し事が渦巻く。 ――ご免ね、父さん。…トロイは生きている。そして、燈はトロイの息子じゃない。  徐に脱ぎ捨てたスーツの内ポケットから、懐中時計を取り出すと、カイルはそれを握り締めた。 

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