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第5話「S4と呼ばれる少年」
朝になり、身支度を済ませたウィル・バーネットは寄宿舎を出て、足早に白い病院のような造りの研究棟内にある居住区へ向かっていた。
数日前までの、その隣にある工場のような造りの灰色の研究棟の方へ通っていた時とは、対照的な足取りだった。
ウィルが孤島の遺伝子操作研究施設へ連れて来られて、一年が経とうとしている。此処へ来て直ぐ、脳内にマイクロチップを埋め込まれ、この施設の駒にされると、傭兵志願の人間にDNA注射をし、遺伝子改造を試みる研究を担当させられた。
中には非人道的な人体実験もあり、耐え切れず肉塊となったものは即座に廃棄するという日常だった。
人を殺しているという罪の意識から逃れる為、ウィルは実験対象を無機物だと思う努力をしなければならなかった。
そんな辛い日々を送っていた最中に、この島の支配者であるスターリング・グレイソンから、白の研究棟でS4 と呼称されている、デザイナーズチャイルドの担当になるよう直々に通告を受けた。
戸惑いを隠せないまま白の研究棟へ赴くと、その日から彼の世界が一転した。
白の研究棟は元がグレイソンの別宅だった事から、娯楽用の部屋や寛げるラウンジ等が充実していた。そして何よりもウィルの疲弊していた心を癒したのは、S4の存在だった。
間もなく十三歳になるS4は美しい少年で、一瞬でウィルを虜にした。S4には性別を超越した魅力がある。
「くれぐれも誘惑しないようにね。」
最初にグレイソンに釘を刺され、反論したかった異性愛者のウィルだったが、S4に直接出会った瞬間、鼓動の高鳴りに気付いて我に返り、その釘を自ら刺し直した。
――この子はグレイソンさんのものなのだ。
「5フィート7インチ(約170センチ)、105ポンド(約48キロ)…。最近、痩せてきてるね。…ザナージさんの事が原因?」
ウィルは日課であるS4の身体測定をしながら、彼の僅かな変化を気に掛けた。
彼の前任であったシルビー・ザナージは、S4を息子のように思っていた。その為、二人に親子のような関係が築かれていたのではないかとウィルは推測した。
「食欲は普通ですよ。…シルビーの事は残念には思っていますけど。」
真っ白なTシャツにグレーのハーフパンツを履いたS4は、少年らしい微笑みを浮かべて自分より少しだけ背の高いウィルを見つめた。
「ウィルは…シルビーに優しいですか?」
その問に疑問を持ったウィルは、昨夜シルビーにS4を此処から助け出す協力者になってくれと言われた事を思い出し、その問が協力者であるかないかの確認のようだと深読みした。
「…彼女とはあまり…接する機会はないけど、優しくするつもりだよ。」
「そうですか。…有難うございます。」
S4はウィルから少し離れると、サンルームへ行きたいと言ってきた。S4の行動範囲は研究室区域外なら自由が許されている。彼に付き添うのもウィルの役目だった。
二百平方ヤードくらいのサンルームへ入ると、寒々とした庭の風景が見渡せ、今が冬である事を思い出させてくれた。
S4が窓の外に小さく手を振る。ウィルがその視線の先を追うと、居住区の雑用を任された老人が草花の手入れをしている姿が目に入った。老人も軽く手を振り返して笑顔を見せている。
「ベネットさんもね、シルビーと僕に優しいんです。」
窓から視線を外してウィルを見上げると、S4はそう囁いた。彼も協力者なのかと、ウィルは勝手に解釈する。
「ウィルは…トロイを見ましたか?」
不意を突かれた質問に、ウィルは返答を躊躇する。S4のベースとなった人物の情報を彼に話すのは禁じられていたように覚えていたからだ。
「…写真は見たよ。」
答えながらウィルは、監視者である人工知能、ダイアナの存在を警戒し始める。ダイアナは常に全ての会話に聞き耳を立てている。
「僕の完成形ですよね。…スターリング・グレイソンは僕の事をトロイって呼ぶんです。そしてスターリングを愛さなければならないと、呪文のように唱えてきます。だけど僕は…僕の中の何かが彼を嫌がっているんです。」
「君は…自分の事をどこまで知っているの?」
ウィルは状況を把握する為に小声で質問した。
「僕はトロイのコピー…。シルビーは僕の事をルーチェ、光だと呼ぶけど、本当は影なんですよね。オンブラと呼ばれるのが正解なんです。」
シルビーの入れ知恵なのは間違いないとウィルは見立てる。S4の悲し気に揺れる瞳に、ウィルは思わず彼を抱き締めたくなった。
「このところ、急激に体が成長してきて、不安になっているんだよね?」
「…スターリングはキス以上の事を僕にしたがっています。僕は受け入れるしかないんですよね?」
「彼が…良識がある人なら、無理矢理にはしない筈だよ。」
ただの慰めの言葉しか出て来ないウィルは心を痛めた。
S4はウィルの右手を掴むと、自分の頬に引き寄せる。
「ウィルの肌の色が好きです。僕もこんな色に生まれたかった。」
「黒人 って差別の対象なんだよ。…僕の父親は白人だけど、母はアフリカ系アメリカ人なんだ。僕が育った地域は黒人が少なかったから、母はずっと居心地が悪いと思いながら僕を育ててくれた。」
ウィルの薄いグレーの瞳が揺らめく。
「ウィルも居心地が悪いのですか?」
「こちらの棟はね。…僕以外の研究員は全員白人だし、年上だから、なんとなくね。」
「じゃあ、なるべく僕と二人きりで居ましょう。」
ウィルの手の中にあるS4の顔が動き、手のひらにキスをした。そこから芳香が広がったような感覚が起こり、ウィルの心拍数は跳ね上がった。
一瞬、周りが見えなくなりそうになる自分をウィルは必死で堪えた。
寄宿舎への帰宅が許される時間になった夜、昨夜と同じ時間にシルビーが現れ、ウィルは無人の給湯室に誘い込まれた。
「昨夜の事、『はい』か『いいえ』で答えて。」
「答えは『はい』です。」
冷たい汗を滲ませながらウィルは意を決した答えを告げた。シルビーは顔を綻ばせ、小さく礼を言った。
「じゃあ、これをあの子に渡して。」
シルビーは一通の手紙と思われる白い封筒を、ウィルの白衣のポケットに忍ばせた。
翌日、ウィルはS4の元へ行くと、監視カメラの死角に入り、シルビーの手紙を渡した。封がされていなかった為、昨夜のうちに中身を見たウィルだったが、書かれた文字は日本語で、理解する事は出来なかった。
「読めるの、凄いね。」
「最初はイタリア語、次にウクライナ語を覚えたんです。でもダイアナに理解されてしまったから、他を覚えたんです。」
「どうやって覚えたの?」
S4はクローゼットを開けると、引き出しの中の衣類の下に、カセットレコーダーとカセットテープ、そして幾つかの辞書が隠されているのをウィルに見せた。
「それ、シルビーが?」
「そうです。ベネットさんが譲ってくれたそうです。」
使用人の老人が優しいと言っていたサンルームでの会話を、ウィルは思い出した。そして、シルビーがダイアナの監視を掻い潜っていた方法が、ダイアナが理解していない言語を使用することなのだとウィルは気付かされた。
「デジタルな時代に、そんなの、初めて見たよ。」
ダイアナのハッキング対策なのだろう。ウィルが笑うと、S4も明るく笑った。ふと、手紙の内容を訊きたくなったが、ウィルは言葉を呑み込んだ。自分も多言語のひとつをマスターしておくべきだったと、人知れず悔やんでみる。
「今日はね、体力測定みたいな事をする予定なんだけど、問題ない?」
ウィルが今日の予定を告げると、S4は素直に頷いた。ウィルはヘアブラシを持ってくると、S4の長い髪を梳き始めた。
「髪、纏めた方がいいと思うよ。」
毛繕いをされる猫のように大人しくしているS4に、ウィルは強く惹きこまれた。このまま抱き締めて攫ってしまいたいという欲望に駆られる。
「…ウィル…僕…。」
突如、S4は呼吸を乱し始めた。潤んだ瞳に見つめられ、ウィルはドキリとする。
「どうしたの?」
「…体が…少し変…。」
急な異変に、ウィルは慌てだした。S4に何かあったら、ただでは済まない。
「ウィル、抱き締めて…。そしたら落ち着けるかも…。」
その言葉にウィルは素直に従い、優しく、そして徐々に強く彼を抱き締めた。
「大丈夫?」
「分かりません。…でも、何か足りない…気が…して…。」
ウィルの行為に対して、ダイアナの警告は今のところない。ウィルはそっとS4の首筋に唇を這わせた。
「あ…。」
S4が小さく反応して、更に彼に縋りついてきた。
そこで行き成り部屋の扉が開いて、この研究棟のリーダー格であるネスビットが入って来た。
「バーネット、おまえがザナージに手を出したか訊きに来たら、今度はS4かよ!とんだdogg だな。」
黒人スラングを交えた物言いをされ、ウィルは焦り始める。
「違いますよ!…S4の体に急な異変が起こって…!」
ネスビットは縁無しの眼鏡を軽く直し、吐息を洩らして震えるS4を観察した。
「なるほどね。…ちょっと調べてやらないといけないな。準備してくるから、ちょっと待ってろ。」
ウィルは半分ほっとしながらも、ネスビットという人物に不安を抱かされた。
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