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第8話「トロイの消息」

 カイル・エマーソンは強くて人を守れる人間になりたかった。  彼が十歳の時、四つ年上の兄が誘拐される事件があり、その時母親が銃で撃たれ、死にかけた。その時の記憶は鮮明ではないものの、彼の心に一つの影を落とした。  そして強くならなければならないと彼の中に脅迫観念を灯し、より過酷な世界へと彼を追い込んだ。  ハイスクール卒業後、米国軍が運営する保険衛生大学へ入学しカイルは海軍衛生兵となった。それから暫くして彼は、更に過酷なカリキュラムを受け、特殊水陸両用偵察衛生兵(SARC)となり、常に最前線に身を置くような生活を自分に強いた。  死ぬ気は更々なかったカイルだったが、日本人だった母親が父親と離婚して国へ帰ってしまっているという状況が、無鉄砲さの助長となっているのではないかと、父親に心配された。 それを口では否定する彼だったが、幾ら人の命を救っても空虚感が消せない自分に、家族の半分を失った事が作用しているのは否めなかった。  カイルが三十二歳の冬、一生涯、現役警察官だと豪語していた父親のカーティスが、体調を崩して入院したと連絡を受けた。  一旦、戦地を離れていたタイミングであった為、彼は長期休暇を取ると、テキサス州ダラスのカーティスが入院する病院へ速やかに赴いた。  そこで、カーティスが誘拐された兄、トロイの捜索を今も尚、続けていた事を知って驚愕させられた。  久々に対面したカイルに、衰弱し、点滴を受けるカーティスが力なく話を切り出す。 「…トロイは…死んだのかも知れない…。」  元海軍大尉で屈強な肉体を誇っていたカーティスだったが、六十半ばに差し掛かった彼の髪は銀髪に変わり、堅くなった皮膚は皺を刻んでいる。カイルは一気に切なさを感じた。 「今は余計な事を考えずに、ゆっくり休めよ。」  カイルの労いに、カーティスは首を横に振る。 「いや、聞いてくれ。…誘拐捜査担当のFBIから偶に情報を貰っていたんだ。それで先日、…トロイらしき人物がCDCで消息を絶ったらしいと聞いた。…確認しようとした矢先、この様だ。」  カーティスの病状は肝機能障害と栄養失調で、碌な物は食べずにアルコールばかりを口にしていた事が窺えた。カイルは溜息をひとつ吐き、自分の所為だろうと詰るのを堪える。 「消息を絶ったのは最近の話?」 「いや。…十六年程前の話らしい。」  十六年前と聞いて、カイルは呆れそうになる。 「そんな古い話を確認して、どうするっていうんだよ?」 「…消息を絶った経緯と、状況が確認できれば、生死の判断が出来るかも知れないだろう?…死んだと分かれば、俺だって踏ん切りがつく。」  悲痛な面持ちの父親に、カイルは良心の呵責に押されるようにして、自分が確認してくると、つい口に出してしまった。 「俺の部屋に封筒があるから、中を見てくれ…。」    父親の見舞いを終えて、久々に自宅へ帰ると、カイルは二階にある父親の寝室へ直行した。そして大きな黄色い封筒の中身を確認する。そこには報告書と、写真を二枚、コピーしたものが入っていた。それを見た瞬間、ほんの僅かだがカイルは緊張で発汗した。  写真には二十代に成長したカイルの兄と思われる人物が写っていた。父親の写真立てに飾られた十三歳くらいのトロイと比較してみる。前髪の形が変わっているのと、少しだけ体付きが逞しくなっている事を除けば、同一人物だと言えそうだった。少なくとも入院している父親はトロイだと確信している物言いだった。  カイルは報告書に目を通していく。  情報提供者はアメリカ疾病予防管理センター(CDC)の元職員だったという、モーラ・パターソンという女性だった。  十六年前、保管している病原体と、そのワクチンが数種類盗まれている事が発覚した件で、解決に協力したAES(スパイ対策スペシャリスト)という民間企業から派遣されたトニー・ショウという人物がトロイらしいという事だった。  AESはニューヨークを拠点にしている企業で、その所長は元FBI捜査官と書かれていたが、詳細は不明となっている。そして、その企業が現存しているかも不明となっていた。  アトランタにあるCDCがAESに捜査を依頼した経緯は、FBIの管轄に途中からCIAが介入して、合同捜査が強制されたという事だった。  捜査官の個人的な見解として、AESは政府の子飼いの企業ではないかと推測されていた。  事件発覚後から数日後、CDCでスパイ活動を行っていた男を見つける事は出来たが、そのスパイが匿名で依頼を受けていたことから捜査が難航し、トロイと思われるトニー・ショウがそのスパイに成り代わって、依頼主に直接会う事になった。そしてそこから彼は消息を絶ったという事だった。  その事件の首謀者が、製薬会社カディーラのスターリング・グレイソンという男だとAESから報告があったが、証拠が出なかった為、事件の解決には至らなかった。  因みに疫病絡みのバイオテロ等は起こっていない。――  それが報告書の全てだった。  カイルは内容を理解しながら、兄、トロイの軌跡を想像してみる。  トロイを連れ去った彼の母親はスパイだったと言っていた。彼が母親を恨んで成長したのなら、スパイ対策を生業にする組織に入ってもおかしくはないと思える。  やはりトロイで間違いないのかも知れないと、カイルは無意識に頷いた。  スマートフォンを取り出すと、カイルはAESについて検索してみた。しかしスパイ対策専門の企業の存在は浮上して来ない。これに関しては最初から想定していたので、特に気落ちすることもなく、直ぐに検索内容を製薬会社カディーラのグレイソンに変更した。こちらは大手企業なだけに、複数の項目がヒットした。  企業の力の入ったホームページを開くと、事業本部長だというグレイソンの顔写真や簡単な経歴を確認する事が出来た。  グレイソンは現在六十一歳という事だったが、ホームページの写真は四十代後半といった風貌をしており、カイルは写真が最新じゃないと思い、猜疑の目を向けた。 ――カディーラ程の製薬会社なら、わざわざウィルスとワクチンを盗むなんておかしいよな。…だけど、名前が挙がった以上、こいつが何か絡んでるのは確かだと思う…。  カイルは書類を封筒に戻すと、本格的な活動は明日からにしようと決めた。  翌朝、父親に情報源であるFBI捜査官に連絡を取って貰い、情報提供者であるモーラ・パターソンが、同じ州のグレイプバインにいる情報を得た。  思いの外、近い場所だったので、カイルは先方に直接会う約束をすると、取るものも取り敢えず父親の愛車で出発した。  昼近くにモーラが住む、グレイプバインの医療センターのある町へ辿り着くと、そこから更に十分程北へ車を走らせて、一戸建ての建ち並ぶ中のひとつを訪れた。  玄関で呼び鈴を押すと、五十代前半といった処の痩せた黒人女性が出迎えた。 「カイル・エマーソンさん?モーラよ。中へどうぞ。」  現在、仕事はしていないという彼女は、気さくに応じてくれた。  リビングへ通され、カイルをソファに座らせると、モーラは写真を二枚差し出した。報告書に同封されていたコピーの原本だった。 「あなたの探している人だった?」 「…現時点では似てるとしか言えません。彼が十四歳の頃迄の記録しかないので…。」 「お兄さん、誘拐されたんですってね?…捜索を諦めないの、偉いと思うわ!」  FBI捜査官からの伝手で、モーラは誘拐事件の被害者だと理解しているようだった。 「ああ、それは父が…そうなんです。俺はその手伝いで…。」  カイルは少し口籠ると、質問で話を切り換える事にした。 「AESの人間で、あなたが接したのは彼だけ?」  カイルは写真の男を示して問う。 「ええ。トニー・ショウは職員として潜入していたから。」  彼の話になり、モーラが高揚したのが窺えた。 「彼は今まで出会った人の中で一番美しい外見の持ち主だったわ。物腰も柔らかくて、声も優しかった。」  一瞬、モーラから彼と比較するような視線をカイルは感じた。 「…兄と俺は異母兄弟なんですよ。」  その返しを受け、モーラは慌てて謝罪した。 「年甲斐もなくご免なさい。…あの、この写真は、どうぞ…差し上げるわ。」 「いいんですか?」 「その当時ね、彼が余りにも美しかったから、思わず撮ってしまったの。彼の了承を得ていない写真なのよ。」  カイルは写真を見直す。一枚は横顔で彼がメインではない感じだったが、もう一枚はカメラ目線でよく撮れている方だと思った。 「これは違う物を撮ろうとして、偶然綺麗に彼が撮れてしまったのよね。多分、気付かれなかったと思うわ。」 「あなたの思い出のひとつでしょう?」 「…その当時は独身だったけど、今は夫も子供もいるし、いつか捨ててしまう予定の物だったからいいのよ。」  モーラは恥ずかしそうに目を潤ませた。カイルは素直に写真を受け取ることにする。 「他に思い出せる事はありますか?」 「これは定かではないのだけれど、AESの人達は鳥の名前をコードネームにしているらしかったわ。トニーが指示を仰いでいた相手が駒鳥(ロビン)だったのは覚えてる。」  カイルは一通り記憶すると、直接話を訊きに来た価値はあったと納得する。 「今日は突然来てすみませんでした。」  これ以上、得られる情報はないと判断したカイルは、礼を言ってモーラの家を出た。父親の愛車、シボレーのサバーバンに乗り込むと、彼は今後の動向を思案しながら帰途に着いた。

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