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第21話「母親の記憶」
「顔色が優れないな…。」
トロイの雇い主であり、長年の保護者であるパトリック・クレーンの右手が、優しくトロイの頬を掠める。特に抵抗を見せることもなく、トロイは助手席から、運転する彼の横顔に微笑みを向けた。
「思ってたより、事態は最悪なのかも知れないと思って…。」
クレーンの運転する車は、警備会社の看板が掛かったビルの地下駐車場で停車した。それから二人はビルの最上階へエレベーターで向かった。
「もうすぐ朝だが、少しでも眠るんだぞ。」
「パトリックこそ…。今日は済みませんでした。」
エレベーターを降りると、そこを境に二人は別のドアへと別れた。
トロイは部屋に入ると、黒いライダースーツを脱ぎ捨て、バスルームへ直行した。熱いシャワーを浴びると、一時的に生き返った気がした。しかし洗面台の前の鏡で自分の瞳を見た瞬間、彼は自分の母親を思い出し、自身の顔を睨みつけた。
――そういや、俺を連れ去った時の母親は、今の俺と同じ年だったな…。
トロイは十二歳の時、今の母親が本当の母ではないという事実を父親に明かされた。本当の母親は湖に車ごと転落して亡くなったという事だった。
それなのに、その二年後、何故か生きていた実の母親が突然現れ、彼を嵐のように誘拐した。
黒のライダースーツに黒いフルフェイスヘルメットを被った彼女は、十四歳のトロイを無理矢理後ろに乗せると、猛スピードでダラスの街中を走り、追手を撒いた。
その勢いのまま森へ移動すると、彼女は隠していた古びたジープに乗り換えるようだった。呆然としているトロイを尻目に、彼女は後部座席から大きなトランクを取り出すと、有無を言わさず、トロイをその中へ押し込んだ。
トロイが次に光を見た場所は、薄暗いモーテルの一室だった。開けられたトランクからトロイが這い出すと、ノースリーブの白いシャツにジーンズ姿の母親が、優し気に微笑んだ。三十代手前に見える彼女は、とても美しかった。
「…アビー・リン。」
トロイが呟くと、彼女は肩に掛かる艶やかな黒髪を揺らして、軽く頷いた。
「カーティスが話したの?…それは意外だったわ。」
アビーはトロイに怪我がないか、軽く触れてきた。よく似た瞳同士が間近で合う。
「あなたは中国人?」
「父はそうだったわ。私のルーツは少し複雑でね…。他にはラトビア、ロシア、ドイツの血が入っている。あなたの場合は、それにアメリカも加わるわね。」
初めて知る情報に、トロイは少し気を取られたが、彼女から少し距離を置いて警戒した。彼女はスパイで平穏なエマーソン家を破壊した張本人なのだ。
「ここは何処…?」
「知った処で、帰さないわよ。」
アビーは冷たく言い放った。
「どうして!?あなたの目的はなんなの!?俺を帰してよ!」
トロイが声を荒げると、頬に鈍い痛みが走った。
「私が属していた組織が、あなたの存在に気付いた。…私はあなたを餌にまんまと引き摺り出されたのよ。」
「そんなの…、全部自分の所為じゃないか!…俺を殺すの?」
トロイは全身が震えるのを堪える。アビーは微笑むと、距離を詰めて彼を見下ろした。
「殺したかったら放置してたわよ。私の目的はあなたを訓練する事。」
「…訓練?」
「そう。拷問されても、余計な事を話さないようにする訓練。それから戦闘術。…奴らを返り討ちに出来るように仕込むの。」
「あんたの為なんてご免だ!…大体、何で追われてるんだよ?」
怒りを母親にぶつけたトロイだったが、彼女の威圧感に打ちのめされる。
「私が組織の多くの機密事項を知り、三つの殺人に関わっているからよ。」
トロイに逃げ場はなかった――。
翌朝、再びトランクへトロイを押し込めたアビーはモーテルを出て、とある山中の山小屋に落ち着いた。
そこでトロイは母親に過酷な試練を与えられていった。
ある時はボーガンで狙われ、慣れない山中を逃走させられた。そしてある時は水攻めや、電気ショック等の拷問を受けさせられた。
アビーはアドバイスする。
「尋問されたら、安全な逃げ場所を心の中に作って、そこへ閉じこもるのよ。絶対に出て来てはいけない。」
追い詰められたトロイはそれを実践していく。
トロイは幼少期の自分に戻り、継母である、日本人女性の楓 の背後に隠れた。楓は弟が生まれてくる迄は彼一人の母親で、彼は彼女の事が大好きだった。
繰り返される痛みの中、トロイは楓に守られる自分を想像した。
繰り返される戦闘訓練の中、息も絶え絶えに地面に横たわったトロイは、ある時、弱音を吐いた。
「…もうさ、…俺の事、殺しちゃえば?」
「馬鹿ね。…殺したくないから、訓練するのよ。」
「俺は…あんたの…武器?」
「…今のままだと、小枝レベルだけどね。」
乾いた風が、二人の間を駆け抜けていった。
季節が変わり、冬本番を迎える頃、彼らは山を降りると、ニューメキシコ州に移り住んだ。ヒスパニック系の人種が多く生活する地域で、アビーが借りた大きな邸宅は、トロイの主な生活拠点となった。
そこで彼は、学校で教わる以上の事を勉強させられ、室内のトレーニングジムで日々運動能力を上げる訓練を続けた。
銃器の扱い方、爆弾の知識、ピッキング、物をスリ取る行為まで、様々な犯罪に繋がる行為をアビーは息子に伝授した。
アビーは時折、出掛けて行く。詳しくは話して貰えないが、現役でスパイ活動をしているようだった。
一人取り残されていると、トロイはエマーソン家を思い出し、逃げ出したい衝動に駆られた。それでも行動に移す事はしない。
弱味になるものには近付いてはいけないという教えが、トロイを縛り付けていた。
――もっと優しくしておけば良かったな…。
トロイは十歳だった弟の、ぷにぷにのほっぺを思い出して、一筋の涙を流した。
月日が流れていき、アビーより十センチ程背が高くなったトロイが、ある時、ハンドガンの銃口を彼女に向けた。
「こういうの、想像してなかった?」
「…していたわよ。でも、私が眠ってる時の方が、楽に殺せたんじゃない?」
アビーは近付くと、トロイの銃口を引き上げ、自身の額に当てた。
「撃たないの?」
トロイは暫く逡巡した後、ハンドガンを引っ込めた。
「俺は…殺人者にはなれない。」
「そう?…だと、いいわね。」
アビーは冷ややかに言い放つと、何事もなかったようにトロイを夕食に誘った。
生活拠点を短期間で変える日常を続け、何度かアビーの追手との戦闘を経験したトロイは、十九歳の青年に成長していた。
均整のとれた体は、細身ではあるが鍛えられた筋肉を纏い、それでもしなやかな印象があった。母親譲りの美しい顔には何処か陰があり、その眼差しは禁欲的だった。性的関心事が高まる多感な時期でも、彼は誰にも触れずに生きていた。
ニューヨークへ拠点を移した時、アビーが忽然と姿を消した。
十日が経っても連絡がなく、トロイが怪訝に思い出した頃、古びたアパートメントの寝室に覆面姿の襲撃者が一人現れた。
深夜、寝込みを襲われた形となったトロイだったが、直ぐに反撃し、近接戦となった。
揉み合いになり、襲撃者が女性である事がわかったトロイは一瞬、母親である可能性を過らせたが、肉付きの違いから、直ぐにそれを否定した。
相手がサバイバルナイフを振りかざした時、彼女は体を痙攣させて床に跪いた。その背後には、テーザーガンを構えた新手の侵入者がいた。
「大丈夫か?」
侵入者は四十代前半のスーツ姿の長身の男で、刑事といった風情の男だった。助けられたようだったが、トロイは隙をみて逃げ出す事を考えた。
男が飛び出した電極プラグを、女の体から回収しようとした時、女が襲って来たので、男は再度トリガーを引いて電流を流して沈黙させた。
その隙に扉に向かったトロイを、男が呼び止める。
「君、ロープで縛るの手伝ってくれないか?」
トロイは白いロープを手渡される。
「何、あんた?警察じゃないの?」
「俺は民間の、スパイ対策スペシャリストって会社の所長だ。…君は、あの女の息子だろう?」
「違う…!」
男がアビーの存在を知っている、と直感したトロイは咄嗟に否定する。少なくとも彼女の敵に違いないと判断したからだった。
「隠さなくていい。彼女と俺は古い因縁関係があってね…。どうやら彼女は、敵である俺に君を託したらしい。」
トロイが固まっているので、ロープを取り返した男が、手際よく襲撃者を拘束した。
「…どういう事ですか?」
「多分、彼女は戻らないよ。…君は俺と一緒に来た方がいい。」
所轄の警察官が二人到着して襲撃者を引き渡した後、男は半ば強引にトロイを連れ去った。
それがパトリック・クレーンとの出会いだった。彼はFBIの捜査官だった過去に、アビーと出会ったと語った。
「彼女は俺の元同僚を殺した。…しかし恨んではいないよ。元同僚の方が悪人だったんだ。」
そう明かしたクレーンに、トロイは少しずつ心を開いていった。いつしか彼の仕事を手伝うようになり、数人の仲間を得ると、そこがトロイの新たな居場所となった。
裸体のまま、ベッドに横たわったトロイは静かに目を閉じる。そして左耳裏の盛り上がった傷跡を指で辿った。
――グレイソンを…殺さないと終わらないんだ…。
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