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第27話「生還」
全長十九メートル程の葉巻型と言われる黒い潜水艦が、十五ノットの速さで真っ暗な海中を進んでいる。
その居住区の一室で、トロイはゆっくりと目を覚ました。目の前に一番会いたかった顔がある事に気付き、彼は一気に安心感に包まれる。
「ネイヴ、会いたかったよ…。」
ブロンドを後ろで結い上げた、トロイより少しだけ年上の女性が微笑む。
「ロビンだけど…。まぁ、いいわ。…まさか潜水艦で来るとは思ってなかったでしょう?」
「うん。…結構、静かなんだな。」
トロイは改めて室内を見回す。かなり狭い居室には、据付の細長いベッドが二つあり、そのひとつにトロイは横たえられていた。
「俺、結構寝てた?」
「三十分くらいよ。痛み止めも注射してたし、暫く起きないと思ってたわ。」
トロイは痛み止めという言葉に、一瞬だけ顔を曇らせた。
「手当て、してくれたんだ?」
「兄貴がね。」
ネイヴの兄とはホークの事だった。二人は五つ違いの兄妹だが、共に金髪で碧眼という共通点以外は余り似ていない。
「…魚雷、あの島に打ち込んで欲しかったな。」
「残念だけど、この潜水艦に武器は搭載されてないのよ。シーウルフ級とかが良かったんなら、所長に直接言ってよね。」
「言えないよ。…有難うの言葉しかないし…。」
ネイヴがトロイの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「眠れば?…私、出て行くから。」
「待ってよ。」
立ち上がりかけたネイヴを、トロイは慌てて引き止めた。
「このまま帰ってるみたいだけど、あの島を調べなくていいのか?」
ネイヴは座り直すと、頷いて見せた。
「あの島を調べるのは、CIAの工作員の人達の仕事みたい。私達は飽くまで民間企業なんだから、手を出すなと言われれば、それまででしょう?」
トロイは戦慄 くのを堪えながら、必死で訴える。
「人を殺したんだ…。あそこには…俺が殺した死体が転がってる…。」
ネイヴは少し驚いたような顔をしたが、直ぐにトロイを慰めに掛かった。
「大丈夫よ。殺さないと、あんたは逃げられなかったんだから。…それにCIAの手に掛かれば、どうせ皆殺しでしょう?」
トロイは徐々に落ち着きを取り戻していく。
「今、主犯の男はシアトルだ。大手製薬会社で事業本部長をしている、スターリング・グレイソンって奴だよ。」
それを聞いて、ネイヴは首を傾げる。
「事前に色々調べたんだけど、その名前は浮上して来なかったわ。」
ネイヴによると、島の所有者はジョン・ドーフという身寄りのない老人で、五年前に死亡しているとの事だった。
「…俺は、グレイソンに酷い目に合わされた。服を着たのは約五ヶ月振りだ。」
「それで、そんなサイズの合わない服を着てたのね。…実験台にでもされた?」
「…そんなとこだよ。詳しくは分からない。…眠らされていたから。」
本当の事は言えず、トロイは目を伏せて、そう言った。
「スターリング・グレイソンね。戻ったら調べてみる。」
トロイは改めてネイヴの顔を見る。尖った顎のシャープな顔立ちに、薄いブルーの瞳はとてもクールだが、笑うと何処かあどけない。
トロイは彼女に出会って三ヶ月後に愛を告白し、即座に振られた。その時の事を忘れた訳ではなかったが、再度告白を試みる。
「ネイヴ、君を…愛してる。」
「そう?残念だわ、トロイ。あんたの股間に、ぶら下がってるモノがないなら、抱いて上げられたんだけど…。」
ネイヴはレズビアンだ。トロイが振られた一番の理由がそれだった。
初めて告白した時、プエルトリコ系の少しやさぐれて見える二つ年上の彼女と付き合っていたのだが、今も続いているようだった。
「…ネイヴって男役なの?」
恐る恐る尋ねた事に、ネイヴは眉を吊り上げる。
「あのね、トロイ。私達の愛し方に男なんて存在しないの。…私も彼女も女として愛し合っているんだから。」
「そうなんだ…。ご免…。」
トロイは再度振られて落ち込んでみせると、大人しく引き下がった。
「あんたの事は仲間として愛しているから。…本当に無事で良かった。」
ネイヴはトロイの額に、弟にするようなキスをした。
翌日、トロイはAESの所長の下を訪れた。巨大なモニターを背にしたデスクで、書類に目を通していた所長、パトリック・クレーンは、トロイに気付くと、ソファに座るように促した。
「助けに出向かなくて悪かったな…。」
「いえ…。あの、潜水艦を購入なんて、驚きました。本当にご迷惑をお掛けしてしまって…。」
「潜水艦は前から欲しかったんだ。…調度、サルベージ会社をやってる俺の友人が、需要のなくなった潜水艦の処分に困っていてさ、安く譲って貰ったんだよ。」
「そう…なんですね。」
クレーンの照れ隠しに見えたトロイだったが、素直に言葉を受け取った。
「精密検査の結果は問題なかったか?」
「ええ。健康管理はされていたみたいで…。」
午前中、トロイは政府に手配された場所で精密検査を受けた。グレイソンから付けられた傷跡は消されていた為、実験体になっていた証拠は何も出て来なかった。
「今、ロビンとスパロウの二人掛かりで、スターリング・グレイソンを調べているが、あの島との繋がりは出て来ない。」
「そんな!俺は確かに…!」
「分かってるよ。おまえが誘拐された頃に、奴が一ヶ月半の休暇を取っていた事実は判明している。だけど、それだけじゃ証拠にならない。もっと確固たる裏付けが必要なんだよ。」
トロイは目に涙を湛えて、悔しそうに言葉を吐き出す。
「一週間前なら…俺の腹の中に、グレイソンの精液が大量に入ってたのに…。」
クレーンは瞬時にトロイが受けた仕打ちを理解し、息を呑んだ。
「あいつは…俺の母親を手に入れられなくて、俺に手を出したんです。」
クレーンは静かにトロイの方へ近付くと、彼の対面のソファに腰を下ろした。
「辛かったな…。」
「人だって…初めて…殺した…!」
トロイは両手の震えを堪える為に拳を作った。
「あの島の屋敷で絞殺されていた男はネイサン・ラッセル、三十五歳。マフィア絡みの闇医者をしていて、二年前に死亡届が出されていた。つまり、おまえは死人を殺した事になってる。」
トロイは衝撃を受け、目を見開いた。
「他に居たのは傭兵崩れが四人。攻撃してきたから、二人は射殺。事情を聞こうとして残した二人は、マイクロチップの毒物で死んでしまった。おまえの誘拐、監禁に関しての主犯は、ネイサン・ラッセルと上には報告されたようだよ。」
「…主犯はグレイソンだ。」
五ヶ月の間、ただ性奴隷のように扱われ、グレイソンの裏の研究を調べられなかった自分が悔しくて、トロイは音もなく涙を零した。
それを不謹慎にも美しいと思ってしまったクレーンは、彼から視線を逸らした。
「CDCのウィルス盗難事件は解決出来なかったから、もう一度、FBIの手に委ねられたよ。グレイソンが怪しい事も伝えてある。だけど、横からしゃしゃり出て来て実権を奪った俺達を、よくは思っていない筈だから、グレイソン主犯説については、否定的に動くかもしれないけどな。」
「それって、例え真相が分かったとしても、蓋をするかもって事ですか?」
「いや、彼らだってプロの捜査官達だ。…そこは彼らは信じるしかない。…彼らの前でグレイソンとの間にあった事、洗い浚い話せるか?」
クレーンの問いに、トロイは背筋を凍らせた。立証が困難だと分かっていて、話すのも、グレイソンと対面させられるのも、堪えられそうになかった。
「…無理…です。」
痛切な顔で拒絶を見せるトロイの苦しみを、クレーンは感じ取った。
「分かった。…おまえの情報は彼らには渡さないよ。グレイソンもマイクロチップの事を知らずに、おまえが島の外へ出たと知ったら、死んでしまったと思ってる可能性が高い。それなら、そう思わせた方がいいのかも知れない。…今後、一切、おまえが傷つく事がないように、俺が守ってやる…。」
クレーンは立ち上がると、トロイの傍まで来て、彼の頭を軽く叩いた。
「…一年間、島の屋敷の監視カメラを作動させて、様子を見るよ。あと、グレイソンの動向についても、監視カメラを利用して探りを入れてみる。…それから、アビー・リンを探してみよう。彼女なら、グレイソンの何らかの犯罪を立証出来るかもしれない。」
パトリック・クレーンは言葉通りに動いてくれたが、半年もしない内に島は完璧な無人島となり、グレイソンの犯罪行為も立証出来ないまま、時は過ぎた。
懸念されていたウィルスによるテロ事件の可能性も立ち消え、政府内的にも調査を打ち切ったようだった。
その間に、トロイの母、アビー・リンが属していたスパイ組織を追い詰められる大きな事件が起きると、そちらへAESの全捜査力が持っていかれ、グレイソンの件はうやむやになり、終息した形となった。
十六年が経った今も、トロイは過去を振り返ると、蘇って来たグレイソンへの恨みで狂いそうになる事があった。
同時に植え付けられた恐怖に体を震わせる事もあり、彼はそれらをひた隠しにして今を生きていた。
――過去は変えられない。だけど、過去から生まれた物は消せる。
トロイはザックと交わした約束を反故にして、自身のクローンであるT-S004を見つけ出して殺害する事を改めて決意した。
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