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第2話

 二人がまだ小学生の頃だった。  いつも遊んでいた神社の境内で、その日も灯篭によじ登り鬱蒼と茂る木々の枝に手を伸ばしていた。  拓也よりもほんの少しだけ身長が高かった結人が、細い枝に指をかけた時、灯篭がぐらりと揺れた。  咄嗟に拓也は身近にあった積石に両手でしがみ付いた。 「うわぁ!」 「結人っ」  二人はバランスを失い、白い砂利の上に落ちた。強かに尻を打ち、足や腕に擦り傷を負っただけの怪我で済んだのは幸いだった。  擦り向き、血が流れている腕を舌先で舐めながら、結人が「やっちまったな……」と周囲に転がった灯篭の石を顔を歪めて見つめた。  自分たちの頭よりもはるかに大きな石が散乱している様子は、小学生の二人にはどうにも出来ない状況に間違いはなかった。  ズボンの埃を払いながら立ち上った拓也が、試しに崩れた石を両手で押してみたがピクリとも動かない。  はぁ……とため息をつきながら、困った顔で拓也を見た。 「これ、絶対に怒られるよ。どうする?」 「それより、お前は大丈夫か?」 「うん……平気。ごめん、俺があの石に掴まらなければ……」 「今は関係ない。とりあえず逃げるぞっ」  小さな神社であったため、宮司が不在になることが多いことを知っていた二人は、周囲を見回してから参道脇に投げ置かれていたランドセルを掴むと、長い石段を駆け下りた。  しかし、いくら走っても鳥居の外に出られなかったのだ。 「――はぁ、はぁ。なんで出れないんだよ」 「同じところずっと走ってる……」  それがおかしいと感じた時、二人は足を止め顔を見合わせた。  無意識に互いの手を握り、唇を噛んだまま見つめ合う。  大きな杉の木が風に揺れ、カラスの鳴き声が不気味に響き渡った。 「まさか……バチが当たったのか」 「俺たち、このまま帰れないってこと?」  恐怖は足元からじわりと這い上がり、二人の歯がカチカチと小さな音を立てた時、ザザッっと砂利を擦る音が聞こえ、恐る恐る顔を向けた。  そこには白装束を身に纏った色白の男が立っていた。銀色の髪を風に揺らしながら二人を見下ろした瞳は青緑色で、宝石のように輝いていた。  頭部には大きな三角形の耳が生え、背後にはかなりボリュームのある尻尾が見え隠れしている。  人間ではない――そう悟るのが早いか、わずかな沈黙を破ったのは予想をはるかに超えた大声だった。 「――ごめんなさい!」  真っ先に謝ったのは、灯篭を崩した原因を作った結人ではなく拓也の方だった。 「俺が灯篭を壊しました!だから……結人は家に帰して下さいっ」 「お、おい!俺がやったんだって!拓也は関係ないっ」  二人のやり取りを黙って見下ろしていた男は薄い唇に笑みを浮かべて、両腕を組んで何かを考える様に小首を傾げた。  頭を上げ、それでも上目遣いでその男の様子をチラチラと窺っていた結人に気付いた拓也が、慌ててシャツの裾を引っ張ってそれを制した。 「結人っ」  小声で彼の名を呼んだ時、目の前の男が拓也の方を指さして言った。  その指先には鋭く長い爪。それを見た拓也は小さく息を呑んだ。 「決めた。お前が私の従者になれ」 「え?」 「あの灯篭は現世と聖域を結ぶ扉。それを壊したとなれば、それなりの償いをせねばなるまい?私はこの社に身を置く神狐。その契約を以って、現世への道を繋いでやる」 「そんな……」 「聖域で、しかも扉を壊したのだぞ?本来であれば命を失ってもおかしくない所業だ」  さも当たり前だと言わんばかりの表情に、何も言い返せなくなった拓也は、ちらっと結人の方を見てから神狐を見上げた。 「あの……。従者ってどうなっちゃうんですか?」 「私と同じものになる……と言えば分かるか?俗世を捨て、神狐となって絶えることのない生を生きる」 「人間ではなくなるってこと……ですか?」 「そうなるな。妖の力を得て、この社を守る」  小学生の二人にも、この選択が決して安易なものではないことぐらい分かる。  人間ではなく獣人として、この社に縛り付けられる恐怖……。  両親やクラスメイト、そして近所の人々の顔が浮かんでは消える。  自分の息子が獣人になると聞いた両親は、一体どんな顔をするだろう。  冗談だと笑い飛ばすだろうか、それとも泣いてくれるのだろうか……。  二人の脳裏にはなぜか同じ風景が浮かんでいた。 「――今すぐにとは言わん。お前たちはまだ幼い」 「え?いつ……なんですか?」 「私と契約を結んだ者は、十六になった時、その体は徐々に獣に変わっていく。一年……いや二年の歳月を経て、完全な妖狐になっていくだろうよ」  ごくりと唾を呑み込んだ二人を交互に見下ろした神狐は、唇の端をわずかにあげて微笑んだ。 「私はどちらでも構わんぞ。だが、お前が壊したというのなら……」  拓也の方を再び見た神狐の視線を惹きつけるかのように、結人が彼を背に庇うように前に出た。 「拓也は関係ない!俺が……俺が灯篭を揺らしたから崩れたんだ」 「結人っ」  驚いた拓也は、結人のランドセルを掴んで何度も揺すったが、しっかりと地面を踏ん張った彼の体は揺らぐことがなかった。 「俺が責任を取る!契約は……俺がする」 「ほう……。お前が壊したの言うのか?」 「そうだ!もとはと言えば俺がっ」 「結人じゃない!俺がやったんだって言ってるだろっ」  いつしか目に涙を浮かべながら声を上げた拓也を振り払うように押し退けると、結人は神狐の前に両手を広げて立ち塞がった。 「――俺と契約しろっ」  真っ直ぐに神狐を見つめた結人の目は、拓也が今までに見たことがないくらい真剣で、怖いくらいの優しさが溢れていた。  いつからか覚えていない。  気が付いたら結人の事を好きになっていた。でも、男が男を好きになるなんて変なことだと思っていたし、それを口に出してしまったら二人の関係が壊れてしまうことを知っていた。  それなのに、このまま結人と離れてしまうことの方が怖いと感じている。  拓也は頬を伝う涙もそのままに、ずっと俯いたまま彼のシャツを握りしめていた。 「――泣くな!」 「だって……」 「狐になっても、友達であることは変わらない。それに、ずっと先の事だろ」 「でも……」 「言っとくけど!お前を庇うわけじゃないからな!俺は俺なりのけじめをつけるために契約を結ぶんだ。自分を責めたりしたら絶交だからなっ」 強がってはいるが、一番ツラいのは結人だと知っている。 でも、決して自分の弱さを拓也に見せることはなかった。 拓也は、そんな彼に甘えて、いつも助けてもらっている自分が情けなく、そしてこの時ほど彼を逞しいと感じたことはなかった。 「――話は纏まったようだな」   ニヤリと笑った神狐は、長い腕を伸ばして結人の首を掴み上げると、端正な顔をぐっと近づけた。  その勢いにギュッと目を閉じた結人の唇に、彼の薄い唇が重なった。 「んんっ!」  驚きに目を見開いた瞬間、結人の体から青白い光が放たれた。  眩しさに目を閉じた拓也が次の瞬間目にしたのは、石段の途中に倒れる結人の姿だった。  ざわわ……と木々が揺れる。そこには神狐の姿はどこにもなかった。 「夢……?」  その場に力なくしゃがみ込むと、意識のない結人を揺さぶった。  何一つ変わらない彼の寝顔。それなのに心がざわついて仕方がない。  それはきっと――嫉妬。  小学生でもキスぐらい知っている。しかも、恋心を抱いている結人が、神狐とキスを交わしている姿を目の前で見せつけられたせいだ。  拓也は周囲を見回すと、恐る恐る結人に顔を近づけた。  そして――自分の唇を彼の唇に押し当てた。 「――これで俺も同罪。絶対に離れないからね」  拓也のファーストキスは、神狐のキスを上書きするように何度も繰り返された。  そう――彼が目を覚ますまで。

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