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第3話
俺の今年度の受け持ちは二年生だ。卒業生の担任ではないけれど、いま講堂で名前を呼ばれ卒業証書を授与されている生徒たちの中には彼らが一年の頃俺が教えていた生徒もいるから感慨深い。
「――綾瀬七生」
「はい」
静かな講堂に凛とした声が響く。
綾瀬が真っ直ぐに前を向いて、校長先生の前に立ち、証書を受け取って破顔する。
次の生徒の名前が読み上げられて綾瀬が壇上から下りていく。
席に着くまでその姿を、つい……目で追っていた。
***
校舎は騒がしかった。
最後のホームルームを終えた卒業生たちが泣いたり笑ったり様々な表情で友人たちと写真を撮ったりしている。
職員室にも最後の挨拶をしに来ている生徒たちも多かった。
俺のところにも数人の生徒たちがやってきていくつか言葉を交わして、頑張れよ、と声をかけた。
旅立っていく生徒たちを見送るのは寂しさよりもおめでとうという嬉しさが勝る。
絶えない笑みを浮かべたまままたひとり生徒に手を振っていると視界によく見知った生徒が写り込んで笑みが消えそうになった。
「先生」
週一度、放課後俺の隣で俺のピアノを聴いてくれていた綾瀬が卒業式用のリボンを胸元につけ、俺の前に立つ。
いつもと違うのはリボンと証書を手にしたくらいのものなのに、そのアイテムが当たり前のことを思い知らせる。
卒業するのだ、と。
もう、あの放課後は来ないのだな、と。
「お世話になりました」
綾瀬が俺へと頭を下げる。思わず苦笑して首を振った。
「いや、別になにもしてないだろ」
「先生のピアノ聴かせてもらえて毎週幸せでした」
「……たいしたピアノじゃないけどな」
「僕にとっては特別なピアノですよ」
さらりとなんでもないことのように綾瀬はそんなことを言う。それに俺は年甲斐もなく、相手は男で生徒だというのに内心狼狽えて、やっぱり苦笑してみせるしかできなかった。
「ありがとう」
「僕こそ、本当にありがとうございました。先生、またピアノ聴かせてください」
「……」
一瞬言葉に詰まって、「ああ、またな」と笑う。
きっと綾瀬の言葉は本心だろうけど実際にはもうないことだろう。
「……綾瀬」
「はい?」
呼びかけた俺に綾瀬が、なんですか、と微笑む。
なぜ、呼びかけたのか。
なにを、言おうとしたのか。
俺は口を開きかけて、止めて――「七生!」と遮る声に口を閉じた。
「ここにいたのか」
綾瀬のそばに立ったのは綾瀬がよく一緒にいる親友だろう沢居という生徒だ。俺が受け持ったことのない沢居は俺に軽く頭を下げて、そろそろ行くけど、と話しかけている。
「……ふたりとも卒業おめでとう。卒業してもしっかりな」
綾瀬が俺へと視線を向けるのがわかったから先にそう言った。話を終わらせるように。
「ありがとうございます」
沢居が明るい笑顔で頷いて、綾瀬もわずかに間を置いて頭を下げた。
「先生、また」
「ああ、またな」
また、どこかで。
じゃあな、と軽く手を上げて、職員室を出て行く姿を見送った。
「岩崎先生。音楽室の鍵、借りていいですか」
すっかりと静かになった校舎。もう生徒たちもすべて帰ってしまい、外は夕闇に包まれている。
「すぐ返しますので」
週に一度、岩崎先生にお願いしてこっそり借りていた音楽室の鍵。
「いいですよ」
優しい雰囲気をした初老の岩崎先生は快く頷いてくれて俺は鍵を手に音楽室へ向かった。
音楽室に入り、電気をつける。窓に明るくなった室内が映り込み、ピアノのそばへと行く。
イスに座って鍵盤蓋を開け、ピアノに触れる。
何回も弾いたことのある曲を指慣らしのように弾いた。綾瀬にも何度も聴かせたことのある曲だった。
弾いている間はなにも考えていなかった。
でも、弾き終わって、指を止めて、静かになって、顔を上げて、気づく。
いや、実感した。
もう、俺の隣には誰もいないのだと。
なぜか――深いため息が出て重苦しい胸に、またため息をつく。
もうピアノは弾かなかった。
***
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