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第4話

 目の奥が痛んで、手を止めた。キーボードから手を離し、眉間に指をあて軽く押す。  先週から三者面談が始まって、それぞれの生徒ごとに資料をまとめていっていた。いま俺が受け持っているのは二年生だ。 「もうあと1か月で卒業式か。一年ってあっという間ですねぇ」  そうコーヒーの匂いが漂うマグカップを持ち、俺の隣のデスクについたのは岩崎先生だった。  岩崎先生は二年三組の担任で二年の学年主任でもある。 「そうですね……。ほんと、早いですね」  教師になってもう六年目だ。日々が忙しくて気づけば季節がどんどんと過ぎ去っていっている。 「40を越えるともっともっと早いですよ」  岩崎先生はにこやかに笑ってコーヒーを飲む。 「そうなんですか」  俺も数年で三十になる。そうなれば四十まで早いんだろうな。  ぼんやりと10年先もいまと変わらない自分の姿が想像できる。仕事だけの毎日。でもそれも生徒たちがいるから楽しいし遣り甲斐があるものではあるけど。 「――そういえば、もうピアノは弾かれないんですか?」  不意に、思いもかけないことを言われて驚いて岩崎先生を見た。 「えっ」 「いや、もうだいぶ長く弾かれていないことは知ってるんですが、なんとなくね」 「……は、はあ」  目が泳いで、不自然になったかもしれないが慌てて目を逸らしパソコンに向き直る。  ピアノ、もう二年近く前――音楽教師である岩崎先生に週に一度だけ鍵を借りて音楽室でピアノを弾いていた。  綾瀬が卒業してから……もう二年が経とうとしている。  もう、二年だ。 「なんとなく……ですかね。もともとなんとなくで弾き始めただけなので」  最初はそう、なんとなくだ。  懐かしくてピアノに触れて、それが続いたのは――それは。 「またいつでも弾きたくなったら言ってください」 「……ありがとうございます」  ひとりでピアノに向き合ったけど、結局弾こうという気持ちが湧いてこなかった。  ピアノが懐かしくて弾きだした。でもそれは途中から意味が変わっていっていたんだろう。  ――聴いてくれる存在がとなりにいて、だから、俺は……。 「そういえば、毎週水曜でしたね。ピアノの日は。本当にいつでも、どうぞ」  パソコンの画面を見つめたまま、懐かしい面影を思い出していた俺に岩崎先生が声をかけてくれる。  はい、と返事をして、岩崎先生が立ち上がる気配を感じ、ぼんやりと再びキーを打ち始めて。 「――……」 「大きくなったね」 「もう二年か」  にわかに職員室がざわめいた。ちらりと顔を上げると、教頭や数人の先生方が集まられている。そこへ岩崎先生も向かっていて、その輪の中にグレーのコートを着た青年が笑顔で先生方と話していた。 「……え」  心臓が変な音をたてるのを感じた。  柔らかそうなふわっとした、髪。すらりとした立ち姿。あの頃よりも少し身長が伸びたような。 「……綾瀬?」  呆然と口の中で呟く。  俺の声なんて届く距離じゃないのに、まるで聞こえたかのように綾瀬が俺のほうを見た。  きっと、偶然。たまたまだ。だけど、目が合った。  綾瀬は大人びていた。二年も経つから当然なんだろうけど、大人っぽくなった綾瀬が、会釈してきて、俺も会釈を返して、パソコンに視線を落とす。  え、なんで綾瀬が?  自分でもおかしいくらいにパニックになって、キーを打ち続けながら、盗み見る。  綾瀬は少し変わったけれど変わらない――綺麗な笑顔をしていた。 ***

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