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第3話
相田は省吾を一瞥すると、親友を黙らせようと口を開いた。
「楓、落ち着いて」
「元東都音大のエリートが、場末のBARでピアノ弾きなんて、やっぱ気になるじゃん」
「楓!もう黙ってくれるかな!」
履歴書を見たことは内緒にしてくれと頼んだのに、どうして口にするのだろう。
まったく、酒の場での約束事ほどアテにならないものはない。
「あ……悪ぃ……そういや、口止めされてたんだった」
「もう遅いよ、この酔っ払い。省吾君、ゴメンね。君の履歴書、訳あって楓に見られちゃって」
「いいですよ、別に。闇雲に内容をバラすような人には見えませんから」
それは相田にとっても、楓にとっても、意外過ぎる言葉だった。
てっきり省吾は楓のことを眼中外に置いているものとばかり思っていたが、ちゃんと楓の人となりを見ていてくれたのだと言っているようなものだ。
「なぁ、お前、俺のこと何気に気にしてた?」
調子に乗った楓が直接省吾に話しかけるが、これも思い切りスルーされた。
どうやら相田を挟まないと、会話をする気がないようだ。
「相田、アイツに俺のこと気にしてたのかって聞いてよ」
「自分で聞けば?」
「今聞いたよ!けどシカトだった!」
ああ言えばこう言うで、酒の入った楓は少々うるさくなる。
相田は小さく肩を竦めると、省吾の前に賄いを置きつつ、聞いてみた。
「省吾君、楓のこと、どうして無視するのかな?別に悪いヤツじゃないんだけどね」
「……分かってるけど、話したくないんです」
「話したくないって……そんなに楓が苦手なの?」
「苦手……です」
少しだけ胸が痛んだ。
あの人と同じ顔、同じ声、同じスタイル、なのに性格が全然違う。
今は亡きかつて好きだった人を未だ思い続けることが正しいのかどうかは分からないが、省吾が楓の顔を真っ直ぐに見て話すということは、まだまだできそうになかった。
夜10時──。
2ステージをこなした省吾は、いつもより一段と暗い漆黒の空間に足を踏み入れ、自宅までの道をひたすら歩く。
ちょうど右手側に多摩川が流れており、流水の音が心に澄み渡るようだ。
とはいえ辺りは街頭もあまりなく、足元が覚束ない。
1ステージであれば、周囲の家の電気で足元が見えるのだが、10時ともなれば子供はもう休んでいる時間なのだろう、いつもより遥かに暗い。
「先生……」
今日楓に話しかけられた時、心臓が止まるのではと思うほどに息が詰まった。
省吾にピアノを教えてくれた恩師、その人こそが省吾の憧れであり、初恋だったが、彼はもうこの世にいない。
不慮の事故に遭い、省吾が大学3年生の夏頃に逝去している。
省吾はその日から、ピアノが弾けなくなった。
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